二.正に夢の力 (5/15)
智美の言いつけを守るでもなく、蓮司はすでに夢の中にいた。例に漏れず、今宵も夢の世界へと舞い降りる。
例外的な状況はむしろ、その夢の中にあった。その意味で蓮司はある種の異常自体に身を置いていたのである。
『今日は敵がいないなぁ』
いつもの悪夢が、一体とさえ出てこない。すでに悪夢退治が日課になっていた蓮司にとって、エイリアンもゾンビも呪いの人形も出てこない状況は、かえって違和感があるのだった。
『おっかしいなぁ。いつもだったら夢が始まった感覚の後に何かしら出てくるはずなのに……』
蓮司はすでに戦闘態勢を整えていた。レッドの格好へと姿を変え、手には新たな武器を携えている。子供の頃に見た『剣舞戦隊・ソードレンジャー』に登場した剣であった。
それはのレッドリーダーが携えているものと同じで、名を『五星剣』という。
いわゆる両刃である「剣」とは名ばかりに、刀と同様刃は片側にしかなく、刀背は戦隊ヒーローらしく入り組んだ赤と黒の特殊な装飾が施されていた。柄も含めた全体の長さは、一般的な日本刀よりもやや長い一メートルほど。
これは蓮司が幼少の頃テレビて見ていた、かつ母親に強請って家電量販店で買ってもらった、レッドリーダーが『銃魔神』との戦闘時に手に入れた武器である。
『銃魔神』からの遠距離攻撃に対し手も足も出ないテレビの向こうのヒーロー達。瞬く間にピンチへと追いやられたレッドたちは、突如空から現れた『剣神』により所有していた剣をパワーアップさせてもらう。
たちまちレッドの剣は、空を切れば巨大な火の玉が切っ先から放たれる『五星剣』へと姿を変え、見事悪の幹部『銃魔神』を打ち倒す。
「銃に対して飛び道具に頼るんなんて……剣のプライドズタズタじゃん」
今の蓮司であればそうツッコミそうなところである。が、輝く新たな巨剣と、必殺技名が叫ばれながら飛び出す火球は、絶妙に少年心を擽ったのだった。
以来、少年たちの間で『レッド役争奪戦』が激しさを増すが、結局のところ蓮司がその技名を友達の前で叫ぶことはなかった。ごっこ遊びが終わって三々五々皆が帰った後、手頃な木の枝を広い、振り下ろしながら一人叫ぶのである。
そんなほろ苦い記憶を胸に、憧れの剣を手にしていた蓮司であったが、今度は肝心のが出てこない。不承不承、蓮司は剣を片手に周囲を歩き始めた。
街を徘徊する蓮司。
完全に赤い全身タイツの男が駅前を歩く『ぶらり誤って途中下車してしまった旅』になっている。テレビカメラがなかったら補導されるレベル。
手持ち無沙汰のあまり、津田沼駅の駅ナカへと入っていく。夢であり無人であることをいいことに、切符もなしに改札を素通りしようとする。そして自動改札機のフラップドアに行く手を阻まれた。
蓮司の格好と同じ赤いランプがチカチカとひかり、ピコーンピコーンという警告音が無人の構内に鳴り響く。本来、無賃乗車を防ぐものだが、今はまるで不審者を止めに入ったよう。
『妙なところでリアルだな』と、そう思いながら蓮司はそれを跨いで超えた。
駅構内は静けさを通り越して静謐ささえ湛えている。当然電車など通るはずもない。
あまりの無音っぷりに、特殊スーツ特有のペタペタとした足音のみが響き渡る。
蓮司は『五星剣』の刀背部分で、肩をポンポンと叩きながらエスカレーターを降り、ホームへと向かった。
突然悪夢が現れた際に狭い場所で戦うことにならないよう、広い場所へと出ようとする。
だが、それでも敵は出て来ない。そしていっそ、その平和に身を任せてしまおうかなどと考え始めたその時だった。
『…………っ』
遠くで声が聞こえた。……気がした。声と言っても、広い室内の反対側で叫ばれているような響き。反響のあまり、音が重なってくぐもったように聞こえる。何と言っているのかはわからない。が、叫んでいるときのような高音が含まれたトーン。
蓮司は周囲を牽制した。敵かもしれないとの思考がぎり、腰を屈めて戦闘態勢を取る。だが辺りには悪夢が襲ってくる様子はおろか、人の気配すらない。より注意深く辺りを見回す。
線路沿いにある、『津田沼歯科』の看板や、北口にある商業施設・ミンナにテナント入りしている『ヤマナ電機』の看板が目に入る。そしてまたしても声がした。
『……ンジ……』
今度はわずかに聞き取れた。明瞭ではないが、自分の名前を呼んでいる。
それは周囲から、同じ目線の高さから聞こえたものではない。
蓮司は思わず三・四番ホームと五・六番ホームの天井の間から空を見上げた。大きなサングラスのように黒くメッシュで覆われた目元が、青い空を仰ぐ。
その黒い布地を全く無視して、蓮司の視界が白い光に染まっていった。
蓮司が目を覚ました時、彼は自身の学校の椅子に座りながら、天井を仰ぐように寝ていた。
「あれ…………? オレ、なんで学校に…………?」
頭部の重さに耐えていた首筋。うなじのあたりに痛み感じる。
教室の中は真っ暗であった。体の倦怠感に乗じて目が慣れるに身を任せた。そしてかろうじて視認できた、前方にある時計の針は一時四十分を少し回ったところを指している。
「自分の部屋で寝たはずなのに……」
目覚めた感覚があるのに、教室で真夜中を迎えているという非現実的な状況。いまだ夢の中にいるのと同じフワフワとした感覚に身を任せる。
意識と視界が曖昧模糊として要領を得ない。
一方で何かに包まれているような圧迫感を肌に感じる。
果てしない脱力感に苛まれ、蓮司はわずかに下げた顎を再び天井へと向けた。頭部の重量を再び首の後ろ、脊髄に預ける。
慌てふためくような状況にも関わらず、全く危機感のないまま蓮司はぼうっと思案し、そしてすぐにやめた。寝起きの甘くまどろんだ感覚が、脳みそだけではなく四肢にまで心地よく拡がっている。神経細胞の全てがまるで水あめにでもなってしまったかのよう。
「夢の中にしては、随分とリアリだな……」
これが現実ならば、真夜中の学校は現実離れした空間に感じられた。心なしか不自然なほど静かで、無音状態と言ってもいい。
逆に夢だと考えれば、あまりにリアリティのある環境に身を置いているようにさえ思える。むしろ、今はまだ夢の中にいるのではないかとさえ思ってしまうほど。
そしてそれは、蓮司が放心したまま自身の手を眺めたとき、天秤を、夢のほうへがくんと傾けた。暗澹たる視界でもわかる。蓮司の手が、真っ赤に染まっていた。
一瞬の間の後、一気にフル回転した脳で二度見する。
それは血などではなかった。前のめりになった姿勢で、全身を確認する。まさに先ほどまで自身が、夢の中で着用していたレッドの衣装、そのものであった。
一時の混乱が蓮司の脳内を駆け巡る。しばし思考し、だが反動にように戻ってきた眠気と疲れの波が再び寄せて、結論を求めようとした思考を抑制する。
(ま、夢なら夢でいいか……。悪夢が出て来ても、この格好なら戦えるし……)
いざ夢だと思ってしまえば、学校で、レッドの格好をしている状況を受け入れることも容易い。非現実な理由にも納得がいく。
(だけど、たしかに目は覚めたんだよな……)
目を覚ました感覚と、何より自身が現在進行系で持つ「現実感」。その二つが蓮司を再び現実であるという答えに引き戻す。脳みそがふやけて正しく働かない。
そんな思考の循環に揺蕩っていたら、ふと視界の端にわずかな違和感を覚えた。教室の窓側。
「……?」
窓の向こうは真夜中の校庭だった。当然さらに先には学校を囲う街並みが広がっているはずである。カーテンは傍に束ねてあるので、本来であればダイレクトに街の明かりが入っててきもいいようなもの。
だが何かに光を遮られているように、窓の外は真っ黒な壁が立ちはだかっていた。
光を遮る、何か。
蓮司は一向に働かぬ思考のまま暗に染まる窓の外を見つめた。暗がりの中であるためはっきりとした輪郭は掴みきれない。ただ、周囲の光をわずかに集めるように、その物体の表面は艶やかな反射を見せている。
大きさにしてちょうど学校の大窓ひとつに収まっているほど。だがそこからさらに両端に伸びる、切れ長の線が左右の窓枠を突き抜けるほどに大きい。
蓮司の背筋にぞくりとした悪寒が走る。
窓の外に見える物体。それは、こちらを凝視する巨大な「目」であった。
一気にまどろみが吹き飛び、気持ちの悪い汗が吹き出す。全身を硬直させ、図らずもその「目」と見つめ合ってしまう。わずか数秒であったが、蓮司には一秒が一分にも感じられるほど。
思わず引きつった声が出そうになるのを蓮司は必死に堪える。
だがその緊張は窓の向こうに届いてしまったか、銅鑼のような大きな瞳孔が一気に収縮する。
その目の怪物は、文字通り窓から目を離すと、目が付属する大きなを、弾みをつけるようにゆっくりと一度垂れ下げる。次いで弾くように頭部を高らかと上げ、咆吼した。
「グォオゥォォォォゥーーーーーーーーーーッ!」
高音と低音が乱雑に混ざった雄叫びが世界を席巻する。
思わず蓮司は耳を塞いだ。が、あまり意味を為さず、耳以外の頭蓋骨から脳みそが揺らされる。窓ガラスまでもが不興を鳴らすようにガタガタと音を立てた。
巨大な怪物が校舎から離れてゆく。そしてわずかな間が置かれると、不興を並び立てたことの報復を受けるように、激しく、窓ガラスが割れ飛んだ。
先ほどのひと吠えを開戦の合図とし、校庭に佇む怪物が攻撃を仕掛けてきたのだ。
怪物の尾っぽが、ショベルカーのアームのように大きく振りかぶられ、窓もろとも蓮司を薙ぎ払おうとする。
飛び散るガラス。鼓膜をく不協和音。
「うぉおぉっっっ!」
さすがの蓮司も怠惰なままでいるわけにもいかず、雄叫びに竦み上がっていた体を無理矢理にも跳ねさせ、廊下側へ向かってジャンプした。
幸いにも怪物の動きは鈍重で、蓮司は相手の攻撃を辛うじて回避する。横たわる蓮司の上を、一見には弾力がありそうで、またごつごつした体表の物体が通過してゆく。
倒れた上半身をすばやく起こし、蓮司は恐怖で見開かれた瞳で敵の動体を見定めた。
……ティラノサウルス?!
だがその全長は、蓮司が映画や博物館で見たことのあるそれとは大きく異なる。
シルエットは紛うことなきそれであったが、全身は燃えるような朱に染まっていた。まるで体内に内燃機関があり、その熱量が体表にまで滲み出て暴走しているようにさえ見えるほど。
大きさは蓮司が知るものと遜色ないか、それ以上と推測される。
「ったく、いったいなんなんだよ!」
学校の二階天井はおおよそ地表から八メートルほどであり、怪物はその二階を、体を屈めて覗き込むようにしていた。そのうえ攻撃を繰り出した尻尾の高さは、ちょうど蓮司のいた校舎二階と同程度の高さである。
おそらく体高だけで、四階ある校舎の屋上から頭一つ出ていそうなほど。
「とにかくっ、逃げないと!」
言うと同時に体を起こした蓮司は、体を投げ出すように廊下へと飛び込み、走り出した。
先ほどまで「戦えばいい」と考えていた思考をいったん蓮司は棚に上げる。
気のせいかとも思いつつ、通常時よりも素早く動けている自分がいる。
通り過ぎる教室を横目にすると。廊下に面する窓の、さらにその先の校庭に面する窓の向こうで、ティラノサウルスがその巨体をゆっくりと左右に揺らしていた。
校舎から距離を取ったのか、先ほどよりもひと回り小さい全身が確認できる。
廊下を駆けながら一階へと続く階段の踊り場に差し掛かる。勢いのついた体を階段へとカーブさせるべく、わずかにブレーキを掛けようとしたときだった。
「きゃっ!」
蓮司は何か柔らかいものにぶつかった。衝撃と同時に聞こえたのは女性の声だった。
蓮司が少し仰け反るだけでそのインパクトを体で吸収する。一方、相手はその分強い反作用を受けたように、後ろへと派手にすっ転んだ。
そしてその人は蓮司もよく知る人物だった。
「と……智美さんっ!?」
そこで倒れているのは智美に他ならない。昨日のバッティングセンターと同じ格好だった。違いと言えば、白衣と、それに眼鏡を掛けていることぐらい。
「智美さん、なんでこんなところに?!」
次から次へと起こる難解な状況に思量は全く追いつかない。先ほどの衝撃にも物ともせず立ち尽くしていた蓮司の方が、手を差し伸べ、智美を引っ張り起こす。
「いったぁ……ありがと」
痛めた腰に手を当て、顔を顰めながら智美が礼を言う。次いで服の埃を払うように白衣を整えると、手短に蓮司の質問へと答えた。
「それはもちろん、蓮司を探していたんだ」
「オレを? 探してた?」
蓮司は頭部まですっぽりと覆った自身の姿も忘れていた。
智美の態度の端々は赤の他人に接するそれとは異なり、目の前の相手をちゃんと蓮司と認識している様子。ある意味、今の蓮司は「赤の他人」。
「そうだ。本当は学外から入るつもりだったのに、手違いで全然違う座標……というか、ど真ん中に出現させてしまったものだから。慌てて探しに向かっていたところだったんだ。何にしても無事でよかった」
途中言葉を濁す一方で、智美は心の底から安堵したよう。肺に溜まっていた空気を一気に吐き出す。走ったうえに、一気に説明を連ねたためか息が上がっている。上下する肩がそれを明かしていた。
「と、あまり説明してる時間はないな。いったんここを離れるぞ。あの恐竜みたいな怪物を見ただろう? 建物の中のほうがいくぶん安全だろうが、それでもいつ、こちらを攻撃してこないとも限らないからな」
そう言い智美は蓮司の手を取り階段を下へ…………ではなく、反対に上の階を目指して階段を駆け上った。彼女が連れてきたのは職員室。
西校舎三階の一番南に位置するため校庭の全貌が見える。幸いにも、ティラノサウルスは反対側に位置する東校舎を視察するように、こちらに背を向けていた。
まるで見つけた獲物をとり逃がした猟犬のようにあたりをキョロキョロ見回している。最大限控えめな表現で、その実、体躯があまりに違うので可愛さの欠片もない。
そして、違うのは体の大きさだけではなかった。
「グォィォァアオオォォーっ!」
彼の怪物は、標的をおびき出すための威嚇のように、また、獲物が見つからないことへの苛立ちを露わにするかのように、再度雄叫びを上げた。先ほどよりも距離を取っているにも関わらず、その声は生物の王者たり得る威厳と畏怖を存分に孕んでいる。
「なんであんな怪物が暴れているのに、周りは騒ぎにならないんだよ! 警察とか……、パトカーとか、一台も来ないじゃないか!」
蓮司が塞いでいた耳から両手を離し、雄叫びへの苛立ちを露わにした。
職員室から見える学校周辺には緊急を告げるランプの明かりすらない。それどころか、サイレンの音一つさえ。
建物の外からは怪物の足音が地面を伝い響いていくるのみで、それ以外の音が全て吸収されているかのように静かであった。
まるでこの学校だけがこの世界から取り残されているような。
あまりに現実離れした眼前の光景は、夢の続きとしか思えない。
そう自身を納得させようとする蓮司。ごくりと唾を飲む。
だがそんな考えを見抜いたかのように智美が告げる。
「蓮司。最初に言っておくが、ここは現実だ。おまえが普段見ている……夢の中では、ない」
心情を言い当てられたようで、蓮司は弾かれたように智美へと振り向く。
そう智美に主張される蓮司であったが、そんなことを真っ正直に受け止めることはできない。
そしてこうも考える。「仮にこれが夢だとしたら、夢の住人に「夢ではない」と言われて、納得できるだろうか」と。
「正確には現実と、そう、夢の間……だ。 私たちはこの空間を、は、『はざまの世界』と呼んでいる。あの怪物は私たちがこの学校の、この空間に閉じ込めている。本当の世界のように見えて、実はここは私たちが生活を送っている世界とは隔絶されているんだ。現実世界に被害が拡がらないようにな。でも……」
智美はもう一度校庭の巨躯を見る。
「いつ破られるかわからない。それに、あまりに被害が大きければ現実の……私たちが実際に住む空間にさえ影響が出ないとも限らない」
空が暗い。不自然なほどに。
智美が言う、閉じ込めているというのはドーム状の何かなのだろうか。光と、音までもが遮断されているように蓮司には感じられた。
校庭にいる怪物は、苛立ちをぶつけるように蓮司たちが普段生活を送る校舎を破壊している。
コンクリートの校舎が木造りの建物のように、軽々と、容赦なく。対岸の西校舎からでも飛車げた剥き出しの鉄骨が見えるほどに。
現実と夢の間。智美はそう表したが、遠くの光景は媒体映像のように浮世離れしている。
「蓮司、力を貸して」
「へ?」
「何を」と、ごく単純な言葉が頭の中で浮かび、言い出す前に智美が続けた。
「ここなら、きみに毎晩見せていた『夢』と同じ力が使えるわ」
「……見せていた?」
遠くでコンクリートの破砕音が鳴り響く。怪物が大木の幹のように太い首から建物に体当たりしていた。
「きみが見ていた夢は、きみの意思で見ていたものでは、ないから」
智美が言っていることの要領は得ないが、最後の、「君の意思で見ていたものではない」、その言葉だけは、妙に納得感があった。
毎晩、決まった時間に見て目覚める悪夢。哲郎の言うように、あれが自身の無意識から作り出されている現象と言われても、蓮司にはピンとこなかった。
毎回悪夢であることもそうであれば、何よりも時間帯。いくら毎日規則正しい生活を送っていても、夢まで規則的にできるはずがない。毎朝同じ時刻に目が覚める人間はいても、毎晩同じ時間に夢を見ることは、有機体のコントロール範囲を遥かに逸脱している。だが、
「そんなこと信じられるわけないじゃないですか!? あれが現実だって? いや、現実と夢の間っていうのも意味わかりませによ! 夢と現実をごっちゃにするなってよく言うのに、今さらそんなふうに言われたって……。はざまのせかい? そんなの聞いたことない!」
あまりに光景が現実離れしているうえ、先ほどは現実逃避から夢だと信じたくさえなった。
だが本当は、これが夢ではないことぐらい蓮司にだってわかる。
夢と現実をごっちゃにするなというのは、その夢がいわゆる「将来の夢」などの夢であって、体感としてこれが現実であることぐらい、今のはっきりした頭なら理解できる。
でもだからこそ、我が物顔でのさばる怪物が、
「あれが現実だなんて、到底信じられません!」
蓮司は言い放ち、戦慄きながら向かいの東校舎へ指を向ける。
彼の怪物は、一通りの怒気をぶつけ終わったのか、今は遠くを伺うように仁王立ちしている。
「それは……当然の反応だな。だけど私を信じてほしい」
智美は真っ直ぐな瞳で蓮司を見つめ、そのまま顔を窓の外へ向ける。
「あれは……そう、『タピルス』と呼ばれる組織が具現化した怪物なんだ。姿形は、人間が恐怖の対象として認知するものに形成されている」
たしなめるように、一言一句を選ぶように、丁寧に説明する智美。
「タピルスに所属する人間がこの場にいるかはまだ定かではない。ただあれ自体は、本当はあなたの夢に出てくるはずだったものなの」
蓮司は相変わらず意味を理解できなかった。それは態度には出なかったが、言葉にしない空気を智美は読み取って続けた。
「今は、あまり説明している時間はない。だけどあなたの夢の中に閉じ込めていた悪夢を、さっきのタピルスという組織が、特別な力を使って現実世界に転化させようとした」
「…………」
「彼らの目的は私にもまだわからない。でもあれを、あんな怪物を、現実の世界で野放しにするわけにはいかない。現実世界が大混乱になる」
「だから閉じ込めた、と?」
「…………そうよ。それもいつまで耐えられるかわからない。この空間自体、急遽生成したものだから。それにこっちの空間での影響が向こうの世界、私たちが日頃住む世界に影響を及ぼす可能性が高い。極力……吸収するつもりだけど、限度があるわ」
途中途中、言葉を選ぶというより、むしろ濁しているように、蓮司には聞こえた。
俯きながら拳を握ると、特殊スーツの皮革が張り詰めたように「ぎゅっ」と音を立てる。
「そんなこと言われても……」
全身スーツ姿のため智美からは視認できないが、蓮司の眉は困惑で引きつっていた。智美が掻い摘んで理解させようとしてくれているのはわかる。だが蓮司の認識が到底、追いつくべくもない。
「そこでだ、蓮司。きみに……」
智美はまたも言葉を選ぼうとしたが、それを自身で払底した。
「いえ、率直に言うわ。あれを消滅させてほしいの」
「はっ?」
蓮司はぐっと顔を上げて智美を見る。次いで窓の向こうで不気味に揺れている怪物に頭を向け、また俯くように自身の真っ赤な姿を眺めた。
「もしかして、この格好……智美さんがしたんですか?」
「そうよ」
先ほどの言葉のときから智美は腹を据えたようだった。蓮司の問いにも間を空けずに答える。
「それを身に纏っていれば多少の衝撃は和らげられる。少なくとも爪や牙は通らないはずよ。きみの夢の力と同じで、運動能力もサポートされる」
耐久性はともかく、教室を飛び出した後や智美と出会い頭にぶつかった際にその性能は感じていた。おそらく、常人以上の能力が発揮できることを。だけど……、
「いやいやいやいや、無理ですよ! あれ見てください! あんな怪物、このオレがどうやって倒すっていうんですか?! 夢の力って言いますけど、こんな武器も何もない状態で、ちょっとやそっと身体能力が底上げされたぐらいじゃ、歯が立ちませんって。ブルドーザーの前に赤ん坊を置くようなもんですよ」
「武器ならあるわ」
そう告げると智美はロッカーから何かを取り出す。それは一メートルほどの棒状のものであった。それを、蓮司の前に、凛然と突き出した。
「名刀マサムネ!」
智美は静かに、穏やかに、それでいて鋭い声で言い放った。それらしく格好をつけての宣言ではあったようだが、その後の二人の間には沈黙しか流れない。
漆黒の鞘に、同じく黒く優雅な柄巻。柄には朱色の紐が巻かれ、目貫にも所々赤が彩られている。
おそらく智美は、男の子たる蓮司が食いつくことに期待したのであろう。自信満々の笑みは、もはやただのドヤ顔にしか見えない。真っ直ぐに伸ばされた腕からもそのことが見て取れる。
それをいつまでも受け取らず、それどころか無反応な蓮司に智美は戸惑いを覚えたよう。蓮司の様子を伺う仕草を見せ始め、その様子に居た堪れないように蓮司が口を衝いた。
「いやぁー……智美さん、無いでしょ。これは無いですって。しかもこれ、絶対鞘の先、モップとかかぶってたでしょ」
眼前で掲げられた刀の先。蓮司の指差した先から、雫が数滴したたった。
「い、いいでしょ、別にそんなこと! 大切なのは中身でしょ、中身!」
「いや、殺傷力でしょ」という言葉が喉まで出かかった。
蓮司は仕方なく刀を受け取ると、憮然とした様子——例のごとく智美には伝わらないが——で柄に手を掛け、刀身を抜いた。
名称は智美がそれっぽく言っただけであろう。だがどうやら刃の鋭さは本物のように見える。はらりと桜の花びらが舞い落ちただけでも切れそうな、そんな印象を蓮司は受けた。
(これだけ妙にリアルだ……)
外界から隔絶された学校。窓の向こうの怪物。そして蓮司の真っ赤な姿。どれをとってもリアリティが感じられなかったのに、手にした刀だけが妙に生々しく、周囲から浮いている。
「矛と楯」に倣うわけではないが、試しに蓮司はその鋭利な刃に人差し指をすっと流すように立てた。幸いと言うべきか、スーツを纏った指は無傷だった。
「ははっ……はぁ。喜んでいいやら、泣いていいやら……」
そう呟く蓮司。果たしてこの「めいとうまさむね」とやらで、あの分厚いタイヤみたいなティラノサウルスの皮に、傷一つでもつけることが叶うのであろうか。
抜き身を持ったレッド蓮司を、腕を組みながら満足げな表情を浮かべた智美が見つめる。
「これならイケそうだな」
もう何が「イケそう」なのか全くわからない。ホント……泣きたい。
どうでもいい智美の自信をよそに、怪物は三度雄叫びを上げると、再び校舎を破壊し始めた。
今度は東校舎から北校舎へ掛けて。ちまちまと彼らを探すことに嫌気がさし、虱潰しに破壊し尽くすことを選択したかのよう。
「あぁ、もう、くそ! ヤケだ!」
蓮司は刀を手にしたまま、吐き捨てるような言葉とは裏腹に、職員室の窓はそーっと開けた。
敵に……気づかれないように。
そして窓枠の上下中央両側に手を掛け、冊子に足を乗せる。
「あとでちゃんと説明してくださいよ!」
智美は押し黙ったように首肯する。三階の窓から飛び降りる姿勢を取っても止めないことから、智美の言ったスーツの力はある程度本物なのだろう。そう判断しつつ、蓮司は足を掛けたまま窓の外を見下ろした。地面が遠い——。
「……やっぱり、やめようかな……」
「早く行きなさい! ヒーローっ!」
言うと同時に智美は両手で蓮司の背中を突き飛ばした。
状況だけで言えば教師が生徒を、校舎から突き落とした構図である。今の蓮司の格好とも相まり、翌日の各局ワイドショーはこぞってこれをネタにするだろう。
だがその格好が幸いして、蓮司は落ちる過程で一回転すると最後は余裕綽々で地面へと舞い降りた。体への衝撃はおろか、足への負担も感じられないほど。
大した重力を感じていないにも関わらず、格好をつけるように片手を地面へとつく。
「これなら戦えるかもしれない」と、蓮司は思ってしまった。この運動能力と防御力があれば、鈍重な敵に対し、少なくとも大きな怪我は免れそうである。それに、ただの刀とはいえ、撹乱しながら回数を切れば倒せるかもしれないとまで考えるようになっていた。要は、デカいだけのトカゲだ、と。
特殊な赤い全身スーツがそうさせるのか、それともリアルにギラリと光る刀がそうさせるのか、はたまた数々の例の夢が実績となって自信に繋がっていたのか。いずれにしても蓮司は「何とかなりそう」という気持ちにさえなりつつあった。心なしか、仁王立つ姿が威風堂々、他人が勇ましさを覚えるほどに。
知ってか知らずか、巨大なティラノサウルスは蓮司の気配に気づいたようにピタリと破壊活動を止めた。そして何かを悟っているかのように、ゆっくりと蓮司へと振り向く。ビルを破壊する重機のような巨体が、ゆっくりとした足取りで振り向く様はやはり、現存する地上生物と比して雄大さにおいて圧倒している。
蓮司はその様子を見守るように、ゴクリと唾を飲み込む。そして右手にある「まさむね」とやらを両手握り、構えた。膝の武者震いが止まらない。
図らずも睨み合う両者。共通するのは赤。燃えるような恐竜の体躯と、テカテカと光を反射させる蓮司。大きさだけは桁違い。
震えが止まらない。スーツの力で妙な自信だけはあるが、恐怖まで抑える機能は備わっていないよう。自身で克服するしかない、「正義の味方なのだから」と呟く言葉は、もはや自身に言い聞かせることと、ただの強がりとが共存している。
蓮司はそう思うと敵に敬意を表するように、同じく雄たけびをあげる。
「うぉぉおぉうひぃぉぃおぉおおっ!」
発声途中で声が裏返りながら、同時に、校庭へとダッシュをきった。
赤い全身スーツの男が、両手に日本刀を持ってティラノサウルスへと向かいカチコんでゆく。
怪物も迎撃せんと、完全に蓮司のほうへと向き直った。
校庭の長さ。ティラノサウルスまでの距離はおおよそ四百メートル。全力疾走でも常人なら六十秒ほどはかかるはずだが、スーツの補助があってかその半分もかからずに間を詰めてゆく。
蓮司はメッシュ状のマスクから巨体を睨んだ。ジャンプ力がどの程度備わっているかわからないが、飛びつけば首筋まで届くだろうか。それが不可能なら、攻撃できるのはあの巨体の足しかないだろう。または地面に向かって露出している腹部を狙うか。
敵の頭部が、蓮司を喰らおうと近くことだけは注意しなければならない。映画ような、咥えられて貪られて体が真っ二つになることだけ御免だ。何としても避けなければならない。
距離が近づき、蓮司は刀を右手のみに持ち直した。相手の挙動に合わせて動きやすように。
近くで見ると校舎の高さほどもある巨体がさらに映える。
意外にも、ティラノサウルスはこちらの攻撃を待っているかのように、吠えもしなければ身じろぎ一つさえせず、蓮司を凝視している。
(このまま、いけるか……?)
だが同時に違和感も覚えた。あれほど敵意に満ちて暴れまわっていた敵が、今は微動だにしない。わずかな動きさえ抑制するに努めているようにさえ見える。何かをじっと、待っているかのように。
そうかと思うと、蓮司は左側方から気配を感じると同時に、左脇腹に強烈な衝撃を覚えた。
「うぐぉっ!」
左半身を硬く大きな何かに横殴りにされた。内臓が口から飛び出るかと思うほどの圧。
呻き声を上げ、予期せぬ衝撃に蓮司の体は空中に放り出された。その勢いのまま一直線に、校舎の壁へと叩きつけられる。その衝撃に再び悶えるような声を上げ、さらに二メートルほどの高さから地面に落ち、そのままコンクリートに倒れこむ。
「いったいどこから……」
そう蓮司の脳裏を過ぎる。何に攻撃されたのかもわからず、薄れる意識の中でわずかに頭を擡げて敵を見る。——そして理解した。
敵の、ティラノサウルスの尻尾が、両生類の蛇のように長く、目線で追ってもなお先が見えないほどに長く変形しており、その先っぽは大きく膨らんで球状になっている。
ジュラ紀から白亜紀にかけて実在したと言われているよろい竜の特徴、それに似ていた。
異なるのは蓮司の死角に及ぶほどの、異様な尾の長さだけ。武器で例えるならそれはモーニングスターのようだが、直径は解体工事に使用されるクレーンにぶら下がった鉄球のよう。
ティラノサウルスはその長く変形した尻尾の先だけを、ひけらかすように胴体近くに寄せる。
ずりずりと、重量を誇るように校庭の土を抉りながら。
もし恐竜に表情というものがあるのなら、まさにしてやったりの顔と言ったところか。それでも無表情の敵を見て、蓮司は勝手にそう読み取った。
「そんなのありかよ……」
一般的に認知されているティラノサウルスにはそんな特徴は備わっていない。巨大な顎と強力な牙があると言われており、草食恐竜の捕食や外来の敵と戦うにはそれで十分であった。
だが眼前の敵は自然界で復活した恐竜ではない。智美の説明ではタピルスと呼ばれる存在が現出させた怪物だと言う。
しかも元々は蓮司の夢に出るはずだったと智美は説明した。夢ならば現実と乖離した、まさに離れ業もあろうが、智美はここが現実であるような口ぶりをした。蓮司は再び口にする。
「そん、なの、ありかよ…………」
堪えきれないほどの痛みが上半身を襲う。マスクの下では血反吐が吐かれ、透過する素材ではないために気持ちの悪い粘液が顔面から、首筋へと伝い、流れてゆく。このスーツでなくとも、今なら全身を真っ赤に染め上げていただろう。
現実離れした状況であるにもかかわらず、体の痛みは現実であることを蓮司に思い知らせるよう。大部分の骨が砕かれたような感覚で、凄まじい痛みが体内を駆け巡る。
「夢から覚ますなら、頬を、つねるぐらい、だろうが………」
誰に聞いてほしいわけでもなく負け犬のような皮肉を口にする。
「夢なら、こんなこと、なかったのに、な…………」
薄れゆく思考の中で、蓮司は考える。夢なら一度たりとも悪夢に負けたことはないのに、と。負けたどころか、手酷いダメージを負ったことさえないのだ。
それに比べて、蓮司はあまりにも呆気なく敵に、現実に負けた。負けるだけならまだしも、近づいてくる敵は蓮司を捕食しようとしているのか、こちらに猛々しい牙を剥いている。遠くで、智美が叫んでいる声が聞こえるような気がする。
これが現実。当たり前だが、理不尽な結果。
自分一人の力ではどうしても敵わない存在がいる。無謀に立ち向かって、玉砕するような。
意識が手の届かない距離へと離れてゆく中で、蓮司は現実へと落胆し、徐々に瞼が下がっていく。そして、また、今度は智美とは異なる、聞き覚えのある声が聞こえたのだった。
————意識が戻ったとき、蓮司は自身のベッドの中にいた。
窓のほうを眺めると、太陽に照らされ光が溢れたカーテンが視界に入る。急激に覚醒した頭を押さえながら、蓮司はヘッドボードにある淡いブルーの時計へと視線を向ける。
午前六時三十五分。
「…………夢か」
いつもなら七時過ぎまで寝ている蓮司。二度寝に興じようと頭までを毛布すっぽりと覆う。
だが覆ってしまったことでの熱気と息苦しさのためか、はたまた珍しくスッキリと起きてしまったためか、寝付けそうにない。わずかに重たい体を引きずるように、蓮司はベットから飛び起きると、億劫そうに制服のハンガーへと手を伸ばした。
何の変哲もない、いつもと変わらない平和な朝。
異なる点といえば、寝起きの悪い智美を部屋のドア越しにノックして起こすのだが、今日は返事がなかったことぐらい。「今日は帰れない」と、昨日のバッティングセンターで智美が言っていたことを思い出す。
蓮司は身支度を終えると玄関を出る。いつもより重い足取りで、物思いに耽る。
「夢…………だったんだよな?」
変わらぬ通学路を歩き、左手を眺めながら、蓮司は自身の左脇腹を右手で抑えた。
あまりにリアルな夢——だった。肋骨を始め上半身の骨という骨が折れたのではないかと感じるほどの負傷を負って、それが一晩で治るはすがない。
だから夢だとしか考えられない。
というよりも現実的な感覚がない、というほうが正しいのだろうか。
蓮司はあのときの智美の言葉を思い起こした。夢の中で、ここは現実だと言われた。その矛盾を内包した言葉を、蓮司は信じられなかった。
「そんなわけないだろ…………」
否。蓮司は自身に言い聞かせるように言葉を吐いた。ついでに悪ぶって唾でも吐いてみようかと考えたが、考えるだけで気持ちと一緒に唾液も飲み込む。
そう。蓮司もあれは、としか思えなかった。毎晩悪夢とヒーローごっこを繰り広げる夢見がちな蓮司とはいえ、さすがに夢と現実の区別ぐらいはつく。
智美を信じなかったのではない。自身が体感した痛みと、眼前にかり襲いかかってきた存在が、現実であると信じさせない。信じられないのだ。
そんな思考の迷路に陥る蓮司の前に、手に収まるほどの参考書を片手に読み歩く哲郎の姿が映った。そんな思考を振り払うように、歩調を早めて蓮司は哲郎へと追いつく。
「よぉ、哲郎」
努めて明るい声音にする蓮司に、哲郎は特段合わせようとはせず低いトーンで言った。
「……蓮司か、はよぉ。珍しく早いじゃないか。 調子でも悪いのか?」
手に持っていたのは物理の参考書。難解な公式でもあったのか、声をかけるまでは不機嫌そうにそれを睥睨し、その表情のまま蓮司まで睨まれたような感覚になった。
「別に……夢見が悪くて、ちょっと早く目が覚めただけだよ」
蓮司はふいと顔を背ける。
「お得意の夢のことか? どうせまた女の子が出てきたとか言い出すんだろうに」
哲郎は参考書から完全に目を離し閉じて手に提げた。蓮司のいつもの話が始まると踏んで、いくらか聞く耳を持とうとしたよう。たが一方の蓮司はむっつりと黙っている。
「どした? なんか嫌なことでもあったか?」
哲郎は言いながら、左肩に背負っていたリュックを下ろし参考書をしまう。
「嫌なことっていうか、自分でもよくわからない」
右肩にリュックを背負い直した哲郎。蓮司は左で後頭部を掻きながら続けた。
「ちょっと……というか、かなりリアルな夢を見たんだ。リアルっていうか、感覚としては現実としか思えないんだけど、でも現実じゃあり得ないというか」
「…………」
「なんつぅんだろう。夢の中にいたんだと思うんだけど、それを、現実と同じような感覚でいたと言うか、もしかしたら逆に、現実で夢のような出来事があった? ……いやいや、ベッドで目ぇ覚ましたからそれはない。やっぱりあれは夢だったんだろうけど」
哲郎は真面目に聞こうとしたが、同時に眉間のシワも深くする。
「…………言ってる意味がよくわからん。要は変な夢を見たってことなんじゃないのか?」
「そうなんだよなぁ! 普通はそうとしか考えられないんだよなぁ!」
蓮司は俯けて両手で頭を掻いた。
「哲郎の言う通りなんだよ。夢とした考えられないんだけど、いや、むしろ夢だと思いたいんだけど、夢じゃなかった。夢だけど、夢じゃなかった、というか」
「おまえはメイちゃんか」
哲郎は蓮司の後頭部に軽くチョップする。
「いくら夢が楽しいからって、あんまり現実とごっちゃにするなよ。オレだから聞いてやるけど、普通の人からみたら変だぞ、おまえ」
蓮司は顔を上げると、哲郎を見た。相変わらず眉根を寄っているが、片方の口角だけ上げて苦笑いしているようにも見える。蓮司は下を向きながらも、姿勢だけは正した。
「そうだよな……」
哲郎の言う通り、こんなことを他人から聞いたら蓮司だって「この人大丈夫か?」と思ってしまいそうだ。哲郎の言わんとしていることを理解し、わずかに聞こえるぐらいの小声で言う。
「さんきゅうな」
哲郎も「ん」と応える。
そう。あれは夢だった。現にあれだけの痛みが嘘のように消えている。吐いた血の感覚も、あの格好も、そしてその後の事も、何より……あの怪物も。全てが夢だったとしか考えられない。うん、あれは夢だった。そう、自身を納得させる。
蓮司は胸のえが取れたように、わずかに晴れた面持ちを前に向けた。もちろん完全に腑に落ちたわけではないが、そう理解した方が気持ちは楽である。
学校へ向かう足取りまでもが軽くなったよう。一人分ほどの間を空けて哲郎を置いてゆく。
切り替わった気持ちで、首だけ哲郎へと降り向いた。
「そういえば哲郎、さっき物理の参考書見てたけどさ、哲郎ってもしかして……」
そう哲郎に水を向けようとしたときであった。海輪高校の正門に差し掛かった蓮司は、そこから見える校舎を瞠目し、言葉を失った。
「どうした?」
門のレール上の上に立ち尽くした蓮司を、哲郎が訝しげに伺う。
蓮司が見つめる先。西校舎の周囲を、建設現場と同じ白く高い壁が覆っている。
この学校は南に位置する正門から見て正面に北校舎と、右と左にそれぞれ東校舎、西校舎が位置している。各校舎同士は連絡通路で結ばれているのではなく、一階から三階まで壁伝いに繋がっていた。その他体育館や音楽議事堂などもあるが、校舎だけを表現すればいわゆる「コ」の字型をしている。
南門に立つ蓮司の目に映ったのは、校庭を隔てて左手に連なる白壁だった。昨日までは、なかった……。血の気が引くように蓮司の顔が青ざめる。
それはまさしく怪物が、昨晩の「夢」で破壊した場所に他ならない。
「蓮司、どうしたんだよ。いきなりだんまりして」
呆然と立ち尽くす蓮司。さすがの哲郎も訝るより不安の割合が大きくなってゆく。
「……哲郎、やっぱり昨日のは、夢じゃなかったんだ……」
「は? 急にどうした?」
「だって、ほら、あの白い壁。きっと校舎が壊されたからだ……。昨日までは無かった」
仮囲い、または万能版などと呼ばれる白い鉄板の壁を蓮司が指差す。
その仮囲いが北校舎に差し掛かる手前まで、教室にして一つ分ほど間を置いて、残りの西校舎全てを囲んでいる。壁より上は、足場やメッシュですっぽりと、校舎を隠すように。
「おまえ、何言ってんだ? 昨日まではって……」
哲郎が怪訝な顔をしながら、蓮司が力なく「だって……」と言うのを遮るように続けた。
「何言ってんのかわからんけど、工事ならオレたちが入学してたときからずっとあのままだろうが。建て替え工事とかで、今月中には完了するんだろう? ほら、入学式の時にも校長が言ってたじゃないか」
「へぇっ?」
間の抜けた声を発する。目の生気までもが抜け、虚ろになっている。
「中はほとんどできているから不便はないけどさ、あの外のは早く外して欲しいよな。太陽が入ってこないから暗くもなるし、やっぱり閉塞感があってよくない。ま、授業中に工事の音がしないだけ、まだ配慮はしてくれてるんだろうけど」
そんなの、記憶にない。昨日は確かにいつもの校舎が、そこにあった。
「やっぱり、夢じゃなかったんだ」
「なんだって? …………あ、おい、どうしたんだよいきなり。……蓮司!」
呼び止めようとする哲郎を振り切るように、蓮司は昇降口のある北校舎へと向かった。上履きを履き替えると、教室のある西校舎とは逆の、東校舎へと向かう。
東校舎三階。職員室。
この時間、一日の授業の準備で自身の作業机に向かう若手中堅の教師がいる一方、年配勢はコーヒー片手に窓際で談笑に耽っていた。
呼び出しでもない限り朝一で職員室に入ってくる生徒は稀で、それぞれに忙しくしている教師の目が、勢い良く引き戸を開けた生徒、蓮司へと集まる。だが別段問題視されている生徒でも無い。うやうやしく頭を下げる蓮司に、教師達の視線はすぐに外された。
だが一人だけ。蓮司の姿を捉えて話さない美麗な教師がいた。智美だ。
智美も机に向かう教師の一人であったが、蓮司の姿を見るとドアの方へと姿勢を直し、手と足を組んだ。眉間に皺を寄せてはいるが、口元は怒っているのではない。むしろ微笑を湛えている。蓮司から見て、『やっぱり来たのね』と、そう表情が物語っているようだった。
「先生、昨晩のことで聞きたいことが…………」
智美の元まで来た蓮司は挨拶も無しに開口一番にそう言った。
だが、智美も予想通りだったのか食い気味に返す。
「その質問なら、放課後に聞く。今朝は忙しくてな。いろいろとやることがあるから今きみの疑問に答えてあげられる時間はないのだよ。それに……」
智美は机に向き直り、生徒名簿のファイルに挟まったA4の資料に目を落とした。二、三枚ほどのコピー用紙がホチキスで止められている。
「たぶん、この後のことと、まとめて説明した方が早いしな」
にべもなく回答を断られてしまった蓮司は、智美に促され職員室を出た。仕方なく階を一つ下り、直通の北校舎を経由して自身の教室へと向かう。
歩く北校舎の窓からは東校舎が見え、そこには昨日までは無かった白い仮囲いと、足場の外縁を覆うグレーのメッシュ。それがに吹かれ、はためいていた。
その姿を呆然と眺めがら、ティラノサウルスに打たれた後に見た、同じくはためくようなワンピースを着た少女の姿を思い出した。
ティラノサウルスに必死の攻撃を受け、地面に横たわる蓮司。
朦朧とする意識の中で、再び蓮司は自身の名を呼ぶ声を聞いた。
「………って、……ンジ……」
先ほど遠くで姿を見せた智美へ視線を向けようとし、閉じかけた瞼をあげる。そこには一心不乱の足取りで一生懸命向かってくる智美の姿があった。
だが、先ほど聞こえた声と智美とでは明らかに距離感が違う。声はすぐ横で聞こえ、智美のものにしては遠すぎた。
体の節々が痛みに不興を訴えるのをなんとか跳ね除け、最後に振り絞った力で顔を上げる。
うつ伏せで横たわる蓮司の横に、白いワンピースを纏った一人の少女が立っていた。
「……き……は?」
自身の血でベトベトになった口で問いかけようとしたが、かすれてほとんど声は出なかった。
その意味が届いたかはわからないが、その少女は蓮司の様子を、眉尻を下げて心配そうに見下ろしていた。
長く、腰までありそうな長い黒髪が蓮司に向かい垂れ下がり、その真ん中には大人びた顔貌がある。端正な顔立ちで、幼くはないが、美しいよりも可愛らしいという言葉が似合いそうな。
そんな女の子が、蓮司の様子を伺っている。
「立って、蓮司」
立てるわけがないと、蓮司は思った。巨大な悪意で半身を砕かれ、ボロ雑巾みたいな体は今まで味わったこともないような痛みで悲鳴を上げている。
(そんな自分に立て、と?……無茶言うなって。仮に立てたところであんなやつどうやって倒せって言うんだよ……。それとも逃げろって言いたいのか……?)
「ううん、蓮司にならできるよ。蓮司じゃなきゃ、倒せない」
(いったい、何を言って……。それにこの子、どこかで…………)
「それに私だっている、から。一緒に、そばにいるから。心配しないで」
そう言うと少女は体を屈ませ、蓮司の右手へと触れる。幼子の頭を撫でるように、優しく、そっと置くように。少女が触れた蓮司の手には、辛うじて刀も握られていた。
「何を、して……」
そうかと思うと、蓮司の握る日本刀が、僅かに発光を始めぽうっとした淡い輪郭へと変わっていく。真っ白になった刀はそのシルエットは徐々失わせ、同時に光量が増す。
眩いばかりの光が四方八方へ飛び、暗く澱んだ世界を照射する。蓮司の取り囲む環境を一時的に昼間のような明るさへと変えていった。
悠然とした足取りで近づいてきたティラノサウルス。思わず足を止めた。自然界には存在しないような光に目を奪われているよう。
一方の刀はといえば、刀身が徐々にその幅を拡げ、柄と合わせた長さは蓮司の身長を超えんばかりに変形していく。
白く光る刀はシルエットしか確認できない。柄は蓮司の握る箇所をそのままに、その上下の太さを一周も二周分も太くし、柄の一番下、と呼ばれる部分が玉のように膨らんでいく。
鍔は一瞬、羽が生えたような変形を見せたが、最終的には機械的な角張ったギミック——刀とは異色の人工物——が配され、それが刀背にまで伸びていった。
蓮司の日本刀が特殊な大剣へと姿を変える。
強力な光がおもむろに収束していった。大剣自身が光を吸収しているよう。
その姿は、まさに戦隊ヒーローが扱う武器に酷似するものへと変わった。
傍に立つ少女がその結果に満足げな笑みを浮かべている。
刃は蓮司の姿を反射しそうなほどに磨き上げられた銀色をしていた。それ以外は赤と黒で装飾されており、現実に存在する剣や刀とは一線も二線も画す。
鍛冶屋よりもむしろ、おもちゃ屋でこそ陳列されていそうな。
だが蓮司の知るヒーロー番組の武器とも、蓮司が夢の中で扱っていた武器とも、特に大きさの点で異なっていた。図体の大きさだけなら中国の斬馬刀を彷彿とさせるほどで、全く初見の武器である。
共通点もあった。装飾部が赤と黒で施されていることと、鍔に中央に刻印された『炎』の一文字。それはあの剣舞戦隊で、まさにレッドが銃魔神を相手にピンチに陥ったとき、剣神から授けられた新たな力、その象徴として刻印されたものであった。
ぼろぼろで横たわる蓮司に寄り添うように立ち尽くしている少女。この少女が、蓮司の日本刀に力を与えたのだろうか。
わずかに下がった目尻に微笑を讃えていた。蓮司は地面に顔が近い状態で見上げていたため、少女の姿は実物より大きく見える。まるで後光を伴った女神のように。心が震える。
「さぁ、これで戦って。もう、立てるはずよ」
少女が促す。大剣の光は収まっていたが、今度は蓮司の体が柔らかい光に包まれていた。白の明かりを放つ蛍が、蓮司を包むように無数に舞っているような。
蓮司は一度大剣から手を離し、頬が当たっていた地面を、拒絶するように力を込めて押す。
軋むようなピリピリとした痛みが走るが、不思議に幾分と、いやかなりマシになっている。
膝に手を当て、残る力を振り絞るように立ち上がった。そして大剣の柄を掴み、持ち上げる。
剣の脈動が蓮司に伝わるよう。形状こそは違うものの、もし蓮司の知る通りであれば、炎の刻印の通りに必殺技を使うことができる。
まだ自身の体には力が戻りきらず、やや前かがみの姿勢のまま蓮司は頭頂部を引っ掴み、頭部のスーツを脱ぎ捨てた。
血で染まっていた顔面を露わにする。まだ声は出せそうにないが、それでもいくらか呼吸の通りはよくなった。
そしてそのまま顔だけを少女へと向けた。少女は変わらず、世の中の恐れを知らなそうな満面の笑みを浮かべている。
蓮司は出ない声の代わりにわずかに口角を上げてそれに応えた。地面に落ちた時に打った左目瞼が腫れ上がり、ブサイクな表情をしているのを自覚する。
次いで前へと向き直し、今度は敵を睨めつけた。立ちはだかる巨体と目が合う。
「ギゴォォオウゥォォォォーーーッ!!」
敵である悪夢が、応えるように雄叫びをあげた。
触れた大剣の威力を想像している蓮司には、その声が怪物の悲鳴のようさえ聞こえる。
誰に教えられたわけでもない。だが大剣が、蓮司の求めに応じてくれると信じて疑わなかったのだ。
「今度はお前が震える番だ」
相手に聞かせるためでもなく蓮司は呟く。それを聞いた少女のみが目尻をさら下げた優しい双眸を向けていた。
高々と、蓮司は巨剣を大きく振りかぶった。
剣の重みでわずかに左に傾くが、蓮司の想像ほどの重量ではなかった。掲げた剣は熱気をたち上げ、そして刀身を発火させる。
立ち上る火柱。まるで無形の炎に支えられているかのように剣は高らかと天を突くように掲げられている。
蓮司は知っていた。どうすればこの剣の能力を発揮できるか、子供の頃の記憶で。
自身の姿を、第三者的に見ていたテレビ画面の向こうのヒーローと、重ねる。
心が高揚する。為そうとする大事、必殺技に、心臓が踊る。レッド蓮司の口元には余裕の笑みが浮かんでいた。
「覇王爆炎斬!」
叫ぶと同時に蓮司は大剣を地面へ叩きつけんがばかりに振り下ろした。
ごうんっ! と空間を切る轟音が響く。大剣の切っ先から身長の倍はありそうな火球が飛び出した。恐竜の雄叫びとは異なり、無意の破壊力を誇る、小ぶりの太陽のよう。
それが一直線にティラノサウルスの喉元へと体当たりし、爆発した。
「ギィィヤッ」
巨体は金属同士を擦り合わせたような短い悲鳴をあげる。喉元を高熱で瞬時に焼かれ、先ほどまでの雄叫びとは似ても似つかない、声にならない声。
炎は悪夢の全身を駆け巡った。勢いよく燃え広がる様子はまるで意志を持つ生き物のよう。素早く生えずり回り、熱風が、生き物の灼き焦げる匂いを運ぶ。
敵は地面に体を擦り付けるように悶えた。だが瞬く間に体力と体の機能を奪われ、半ば諦めたように徐々に動かなくなっていく。
最後にわずか、声にならない「ギィ……」という声で短く吠えると、結果それが断末魔となった。燃え上がる炎だけを残し、怪物の体はガラスの破片のようになって四散する。
図らずも蓮司は、その光景をしばらく呆然と眺めていた。生き物の最後を見届けるように、または単に巨大な火の塊に目を奪われるように。
側には駆け寄ってきた智美が立っていた。火と相対するには少し熱そうにして、蓮司の後方へと身を寄せている。
「勝った…………」
蓮司は呟いた。と同時に、緊張の糸が切れる音を自身の中で聞いた。
次の瞬間、蓮司の見る世界が急転換する。
世界が変わったのではなく、蓮司自身がそのまま後ろへと倒れたのだった。
「「蓮司!」」
自身の名を呼ぶ二人の女性の声が耳に響きながら、蓮司は眠りに就くように意識を失った。