一.夢の中の少女 (5/14)
「……んじ………」
蓮司は、意識の世界で自身を呼ぶ声を聞いた。
朦朧とした意識がその声を捉えようとするが、当て所なくさまよう意識と同じで、思考の焦点が定まらない。自意識にも関わらず、一切の自由と決定権が無いように、自分の意志とは異なる判断を都度行われているような感覚。
最も近いもの、それはテレビ画面を見ているとき。ただし、唯一異なるのはそこに蓮司本人が、自身と認識できる存在が主人公となっていることぐらい。
「…さい……れんじ……」
また聞こえた。今度は先ほどよりもはっきりと。
しかも聞き覚えのある、女性の声だった。自由の効かない思念の世界で、その声は女神の囁きにも聞こえる。美しく、眩いほどの光に包まれた、天上人からの誘い。
意志に反するのは何も精神だけではなかった。蓮司自身の腕が、足が、指先までもが、まるで怠惰の極みのように蓮司の電気信号を受け付けようとはしない。何かに抗うように、蓮司の意志を無視し続け、動かない。
「西郷 蓮司!」
次の瞬間、蓮司の頭部に触れたのは女神様の美しい御手でなければ、アポロン神話に出てくるような毛むくじゃらのゴツい手でもなかった。
それはある意味神が怒りを示すに等しい、容赦のない分厚い教科書『物理Ⅰ』による鉄槌だった。鈍いながらも「ガツン!」とはっきりとした音が、蓮司の後頭部で奏でられ、その勢いで蓮司は鼻をも机に打った。
「…………っ!」
思わず涙目になる蓮司の前に現れたのは、こちらはある種女神………であったかもしれない。が、今は白衣と下縁眼鏡を身に纏った、鬼の形相をした先生であった。
「おまえ……わたしの授業で堂々と惰眠を貪るとはいい度胸だ!」
火の神ペレも真っ青なほど、マグマの如き烈火の熱量で智美が怒りを露わにしている。
蓮司は突然呼び戻された意識の世界からまだ戻りきれず、唯一はっきりしている頭部と鼻の痛みを庇いながら呟いた。
「あれ? …………女神は?」
クラス中がなんとも言えない緊張感に満たされていた次の瞬間。限界まで張られていたその糸がプチンと切れたように、どっとした笑いが巻き起こる。
蓮司は周囲の爆笑に包まれながら、別の意味でキレた智美から、本日二度目の有難い鉄槌をくらった。
「ばっかだなぁ、おまえ。よりにもよって智美先生の授業で眠りコケるなんて。自殺行為もいいとこだろうが」
「そうだよ、蓮司くん。智美さん、男の先生よりも男勝りだって言われてるぐらいなんだから、みんな気を張って物理の授業だけは寝ないようにしてるぐらいなのよ」
二限目の物理の授業終了後、休み時間。いまだ引かない痛みを労わるように、頭頂部をさすっている蓮司に、同級生のとしずくが指摘する。
「しかたないだろう……。こっちは寝不足なんだから……ふぁあ」
言った矢先。それ自体が誘因にでもなったかのように、大きな欠伸をひとつする。
その吐息を当てつけのように、後ろの席の哲郎へと向かって吹きかけた。哲郎が、先ほどからの眉の不機嫌さに加え、拍車をかけたように口元までもが歪む。
哲郎が最後尾の窓側の席に、つまりは前の席に蓮司が座して、椅子の背もたれを抱くように座る。ひとり離れた席のしずくは、哲郎の机に腰を当てるように立っていた。
「春眠暁を覚えずって言うだろう?」
蓮司はしかつめらしく言うが、「それ寝坊のときに使う言葉だぞ」「しかも今もう6月だしね」と口々に二人からつっこまれてしまう。
「それにしても寝不足って、もしかしてまた例の悪夢でも見たの?」
これはしずくからの質問であった。
「そうなんだ、聞いてくれよ! 昨晩仕入れた見た夢はなかなかのネタだったんだ!」
呆れたように腕を組んだのは哲郎のほう。
「まぁた始まった……。しずく、あんまりその話題振ってやるなよ」
「だってぇ、聞きたいじゃないの」
哲郎に反してしずくは興味津々と言った様子で笑みを浮かべている。先ほどの話し方も、こうなることをわかっていてわざと水を向けた節がある。
蓮司と哲郎は昔からの幼馴染み。しずくは中学からの同級生であった。
千葉県立海輪高等学校。下の方とはいえ進学校に分類されるこの高校は、哲郎が第一希望の私学を落ち、しずくが順当に、そして哲郎は死ぬ気になって勉強した結果——ひとりを除いてかもしれないが——晴れて三人ともが同じ高校へ進学した。
「昨日はなんと……白亜紀に滅んだはずのティラノサウルスが現れたんだ!」
無駄にもったいぶるような蓮司の言い方に、哲郎はすでに聞く気が失せたような窓の外を眺め、しずくは「うんうん」と首肯しながら聞いている。
らんと光が差す蓮司の瞳は、先ほどのまでの眠気などすでに吹き飛ばしてしまったよう。
蓮司は今日日一ヶ月ほど悪夢と称して遜色ない夢を見続けているのだが、蓮司の反応には悲観的な色、一切が含まれていなかった。
常人であれば誰しもが恐い夢など回避したがるもの。おまけに寝つきまで悪くなるののでそれは当然なのだが、説明する蓮司の声色にそれらは一切感じられない。
むしろこうやって、話を向けられれば喜悦に満ちて話してしまうほど。
「それで、何人の人間が食われたんだ?」
蓮司の夢講義に飽きが来たかのように哲郎が水を差す。その表情は少しばかり愉快そう。
「あ、哲郎くん、またそんな意地悪言ってー。前に言ってたじゃない? 蓮司くんの夢、他に人が出てこないんだって」
「そうだよ、哲郎。ひっでぇこと言うなって。……当然人も、そしてオレも食われてはない! あいつスッゲェ速ぇのな。道端のバイクがなかったらオレも今頃あいつの腹の中だったかもしれないし」
蓮司は、哲郎が嘯いていることなど百も承知であった。哲郎の頭の出来で、話半分とはいえこの程度の話題を忘れようはずもない。聞いていれば、だが。
「昔の歌じゃあるまいし……。無免で、しかも他人のバイクなんか盗んで走り出すなよ」
哲郎は、口を揃えて二人から責められたので、また少し機嫌を斜めにする。
だが窓の外へ顔を背けて嘆息すると、程なくしてその歌のサビを口ずさんでいた。
「それで? 結局最後は、やっぱり変身したの?」
「あ……、うん、まぁね」
蓮司が悪夢を恐れない理由。それがここにあった。
映画などの画面越しならともかく、夢で出会う怪物は、やはり怖いものである。
誰しも一度は見たことあろう悪夢は、実体験のように感じることそれだけでも恐怖が増長されるもの。ましてや、自身がその場に居るにも関わらず、自意識とは異なる行動を取らされるものだから、その怖さはひとしおである。
ティラノサウルスの体高は四から六メートルとさえ言われている。考古学者の推定通りであれば、ビルの二階天井よりも高く、それから大口の牙を剥かれれば命の危険が全身の神経を逆撫でするだろう。人体など、容易く噛み砕くのだから。……だが蓮司は恐れない。
「どうしたんだよ、正義の味方様。ヒーローレッドに変身したんだろ?」
哲郎は先ほどの意趣返しと言わんばかりに、意地悪な物言いをする。
「いいじゃない別に? いくつになっても男の子は子供だって、わたしのママも言ってたよ?」
この話題、しずくに聞かれては、蓮司も思わず口ごもる。
高校生にもなって戦隊ものに——夢の中とはいえ——変身したなど、思わず口にしまったのが運の尽きかと思われた。
案の定、哲郎はそれをネタにいまだにからかってくる。一方のしずくは、まだフランクに聞いてくれたので、蓮司はわずかに救われる思いだった。
しずくが男子に、人気があるのはこういうところなんだうなと蓮司は納得する。
性格だけではない。やや小柄ながらも女性らしい体のライン。特に胸元のふくよかさなどは、本人に自覚があるのか無いのか、男ども視線を思わず捉えてしまう。はっきりとした瞳の大きさもその魅力のひとつであり、その容姿は思春期男子の好みに一致していた。
「ち、ちなみに、今回は海浜幕張だったから、道が広くて助かったよ。最初は逃げやすかったし、戦うときは、広かったし!」
蓮司は話題の向け先を変えようとする。
「たしか前に、別の敵と戦ったときは船橋って言ってたよな」
これを言うのは哲郎だった。ほうらやっぱり、覚えてる。
哲郎は、しずくはもちろん蓮司よりも長身で、背の順で言えば後ろから数えた方が早い。女子から持て囃されても良いようなものだが、いかんせん、頭がキレる分性格が素直じゃない。というか、端的に言えば意地悪なのである。
その性分が眼鏡の奥の双眸にも表れているように、切れ長の目尻が下がっている。
どうしてこんな性悪そうな人間と——だが平々凡々な蓮司自身も含めてだが——しずくが一緒にいてくれるのか、たまに疑問にさえ思うほど。見た目はまぁ置いておくにしても、蓮司の夢の話を馬鹿にせず聞いてくれることも含めてである。……まぁ、聞いてくれるだけなら、哲郎も蓮司の話に耳を傾けてはくれているが。
最近の蓮司が見る夢には一切の他人が出てこない。蓮司と、リアルな街並と、そして悪夢だけ。悪夢は、今回のように一体のときもあれば、複数体で襲いかかってくることもある。
そんな話をしていると、休み時間の終りを告げる始業のチャイムが鳴った。
「じゃあまたあとで続きを聞かせてね」と、しずくが手を振りながら席へと戻って行く。蓮司も力と間の抜けたような手と表情でそれに応えた。
「あんまりへらへら手ぇ振るもんじゃないぞ」
「なんだ哲郎? ヤキモチか?」
だが蓮司の意図とは反して、哲郎は彼らしく冷静に言った。
「ばーか。妬いてなんかいないよ。それにオレはもっと大人な女性がいいの」
「例えば?」
「イニシャルは『T』だ。…………なんだ? わからないって顔してんな。じゃあ大ヒント、『とも』……?」
哲郎は何の躊躇もなくそこまで続け、そしてその先を「言い当てな」と言わんばかりに手振りで蓮司を促そうとする。
「とも? ……とも……ともだち?」
「…………そうだな。オレもお前が『ともだち』で良かったと思ってるよ」
嘲るような呆れるような笑えるような。呆れの比重が大きい微妙な顔で哲郎は答えた。
『あぁ、まただ』
蓮司は毎晩繰り返される、「例の夢」の始まりを自覚する。
高校生に似合わず、蓮司はもともと夜更かしするタイプではない。「健康に気を使って」などではなく、十一時を回る頃には、起きていられないほどの眠気に襲われるからだった。
以前それを哲郎に言ったら、「ガキだな」と一笑に付されたことがある。
腹を立てたその晩に、わかりやすく起きていようと試みたがことがあったが、結局ベッド以外で寝落ちしてしまい、翌朝痛くした背中を引きずって通学した覚えがある。
だが規則正しいサイクルはそれだけではない。
午前二時四十五分。
それが毎晩悪夢を見た後に蓮司が目覚める時間であった。
当初は、「見たくもない夢を見れば夜中に目が醒めるのは当たり前のこと」ぐらいにしか考えていなかった。だがその悪夢が連日連夜、四日ほど続き、しかも起きる度に時計の針がその時刻を指し示すのである。季節は夏に差しかかろうとしているにも関わらず、蓮司はうすら寒い想いを覚えた。
夢が始まるとき、蓮司は黒く深い暗闇に落ちてゆく感覚に苛まれる。
「まるで死ぬときみたいな感覚」などと、一度も死んだこともないのにそんな感想を抱いた。
そして気づくと、蓮司は街の遥か上空からスカイダイビングのように落ちている。
最初こそ、そのまま死ぬ運命なんだ、と理解した。
だが地上に近づくと急激にその落下速度を落とし、見えない空気の腕に支えられているようにふわりと地面に降り立った。そのときばかりは心から胸を撫で下ろし、大きく息を吐いた。
妙にリアリティのある夢の世界。だが誰もいないため、現実感には乏しい。——夢なのだから当たり前だと、ひとりツッコむ。
これでもしファンタジー要素盛りだくさんの家屋が並んでいればむしろ心が踊る。だがあまりに現実と同じ街に、自分の想像力乏しさを覚え、安心もするし、がっかりもした。
だがそれを裏切るように、非現実的な存在が目の前に現れる。
それがまさに『悪夢』の始まりだった。
最初に現れたのは、地球外生命体、エイリアン。
子供の頃、戦々恐々と見た映画。そのままの姿で映画を抜け出し、それが蓮司の地元であり、眼前に現れたときは、笑えばいいのか、怖がればいいのか、それとも泣くべきだったのか。
いずれにしても、こちらへと細長い手足を駆動させ一直線に向かってくる様子に、当然ながら戦慄が走る。一気に恐怖へ天秤が傾き、その素早さは蓮司の知る映画以上、ゴキブリ並。
本物同様、宇宙船内であれば、蓮司は発狂していたかもしれない。
だが幸いにも左には駅へと続く歩道橋があり、右手には『OEOE』のロゴを掲げた商業ビルがあった。
駅まで走っては追いつかれる。そう判断した蓮司は、ぶつかるようにマルエのガラス扉を開け、入ってすぐ左の階段を駆け上る。安全地帯に身を隠し、声をひそめた。
安全地帯——「試着室」。随分と安上がりなそこでしばらく身を隠すと、敵は蓮司を見失ったのか、程なくして一階から聞こえる喧騒、ガラスの割れる音や鉄製の棚が倒れる音は止む。
『土地勘があってよかった……すっげぇ怖かったけど』
そこで目が覚めた。
眼前に本物のエイリアンがいたかのような寒気と、それから解放された安堵感に襲われ、凍りついた体は身動き一つも許されずにしばらくの時間を固まっていた。
ようやく首を動かせるまでになっていたとき、時刻は二時五十五分を指していた。
その後何度となく、繰り返される悪夢。
『所詮はただの夢だ、戦えないことは、ない』
そう考え気持ちを奮い立たさられたのは、相手が比較的動きの鈍い敵だったからだろう。
『ゾンビか……』
仮にゲームや海外ドラマのように、無数の奴らが群がっていたらそれはもう逃げの一手のみであっただろう。だが幸いにも、相手の動きはノロく、しかも四体に数えられる。
手近にあった工事現場の鉄パイプに手を伸ばしたのは偶然だった。
これまでの散々怖がらされたことへの義憤をぶつけるように敵を殴り倒す。遠目から他人が見たら、ちょっと危ない光景だったかもしれない。
そもそも現実では工事現場へ簡単に立ち入れないし、手頃な鉄パイプが転がっているとも限らない。そんな都合の良い展開は夢ならではなんだろうと、目を覚ました後の蓮司は思った。
ベッドに体を起こした蓮司は、戦闘に疲弊した兵士のようにぼーっとした頭で考えた。
いずれにしても、徐々に悪夢の恐怖へと立ち向かえるようになった蓮司。夢であることの自覚と、戦うための手段を多様化していった。
端的に言えば、夢を夢として楽しみながら敵と戦えるようになっていったのだ。
手近にあった物を次々と武器にする。パイプに始まったそれは、木の椅子、居酒屋の前のメニュースタンド、時にはインテリアコーナーにある包丁まで手に携えた。
包丁だけは絵面的やばいと思い、次からはやめた。
そしてある時ふと気づく。
『夢の中なんだから、もっと自由が効くんじゃないか?』
そう考えた蓮司は思考力ではなく想像力のほうを働かせ、妄想を膨らませる。
『敵と戦うなら……どうせなら強くて、カッコいい存在になれないかな』
それに加えて「せっかくだから」と一滴の欲望をイメージの水面に垂らし、集中する。
蓮司の体がイメージを具現化するように、数瞬眩い光に包まれた。
そして拍子抜けするほどに蓮司の願いは聞き届けられる。期待を裏切ることなく、想像した格好へと変身が完了した。
それは蓮司が幼少の頃に大好きであった、戦隊もののヒーローの姿。
『本当になれるなんて……夢みたいだ』
そして蓮司は戦闘へと身を投じる。ジェイソンとの戦いへ、と。
『ジェイソン VS 剣舞戦隊・ソードレンジャー レッド』
そんなB級映画臭漂う構図に、蓮司は肉体で戦いを挑み、なぜか勝利までを収めてしまった。
『次は武器も一緒に出そう』
戦い終わってそれに気づいたところが蓮司らしかった。
蓮司の世代にとって、彼がその姿へと変えた、『剣舞戦隊・ソードレンジャー』は少年達の憧れの的だった。特にリーダーのレッドは、戦隊の「ごっこ」遊びになった際は必ず取り合いになるポジション。少年五人が遊ぼうものなら、三人はレッドに名乗り出るほど。
ちなみにあとの二人にうち、一人はポジション争いに負けるのが嫌で最初からブルーを選ぶ、ある種狡猾な少年。レッド役の取り合いに負けた二人に、「オレが先に取ってたー」とか言って絶対譲らない意志も併せ持つ。
もう一人はブラックが好きというニヒルな少年。ブラックも格好いいことは事実なのだが、レッドよりもカッコいいと思えるほどその魅力に気づける少年はわずか。妙に大人ぶった雰囲気を醸し出し、それがクールだと思っているのだが、マザコンが多い。蓮司調べ。
そしてレッドを争った三人は、ほぼ九十七パーセントの確率でガキ大将ポジションの少年が勝利を収める。小学生の割にガタイが良くてちょっとメタボリックな少年に。
「三人でレッドやろうよー」と言ったころで絶対にそんなことを許さない。自分が強いことを理解しているので、「徒競走、みんなで走ってみんなで一番」などのゆとりは絶対に許容などしないのだ。
そして争いに負けた少年二人は、残りのイエローと、辛くもピンクに配属される。ピンクになった暁には翌日教室で「女が来たぁ、女が来たぞぉー」と、同級生から無駄に持て囃されるのだった。
蓮司はそんなピンクだったほろ苦い記憶を思い出しながら、真っ赤に染め上げられた自身の立派になった姿を眺め、ぐっと握りこぶしをつくる。
憧れのレッド。図らずも夢の中でまさに夢のような存在になれるとは思ってもみなかった。
『世界平和を守る』など大層なことを言うつもりはないが、少なくとも目の前の悪とは戦うことを、深く決心するのである。
おまけに他人がいないこの世界であれば、自身の格好についてとやかく言う人はいない。
全身タイツ……もとい、全身を赤い特殊なスーツで身を包み、大手を振って街を歩けるのだ。
ある種の快感に目覚めそうになったが、悪夢の存在が蓮司の精神を正しい方向へ修正する。
歩く死体に続き、金曜日の殺人鬼。今時分少ないビデオから出てくる呪いの少女。地球外生命体。絶滅したはずの肉食恐竜。悪魔の取り付いた少女。包丁を持った殺人人形……。
蓮司にとっての正義の戦いは続く。そして悪夢に対する戦慄、恐怖は徐々に遠くへ。次第に慣れていったのだ。
戦う相手が組織の幹部でないことが残念ではあるが、その点を除けば蓮司は悪と戦うヒーローになれた。
自分には倒せない敵はいない。夢の中なら自分は正義の味方だ。
自分ひとりだってこの世界なら戦い続けられる。
そう思っていたある晩の夢に、ひとつの変化が現れた。
「っはよう、哲郎! なぁ! 聞いてくれよ、昨日見た夢の話!」
翌朝。すでに学校の机に向かい、何かを書いて俯いている哲郎に蓮司は声を掛けた。
作業に集中しているのか、哲郎は「もう何度目だっつうの」というメッセージを、軽い一瞥に乗せて蓮司に送る。
勢いに任せ前のめりに声を掛けた蓮司は、その目つきに怯まない。むしろ半ば無視して哲郎に聞いて欲しかった話題を続ける。
「昨日初めてのことがあったんだよ! ずっと悪夢しか出なかったのに、それがなんとさぁ」
「あぁ、はいはい、それはよかったねぇ」
「まだ何も言ってねぇだろう!」
朝からテンションの高い蓮司は、本気で怒っているわけでもないのに、ノリツッコミの芸人のようにして哲郎の肩を叩いた。
若干むっとしてまたも睨めつけた哲郎であったが、今の蓮司に効果はない。
「ここんところずっと怖いやつしか見なかったのに、初めて違うのが出て来たんだよ!」
哲郎はシャープペンを持った手を止めることなく「へぇー」と生返事で答えた。顎を手首に乗せ、机上のプリントを見つめて珍しもなく眉根を寄せている。
一限目の数学で宿題が出ていたことを思い出す。それかと思い蓮司は目線を落としたが、紙質が学校の藁半紙ではなかった。おそらく哲郎の通う予備校のものであろうと蓮司は推測する。
「あー、くそ! 計算間違えてる!」
哲郎は引っ手繰るように消しゴムを取りぐしゃぐしゃと計算式をもみ消す。
蓮司はと言うと、哲郎が問題を解く様をただただ眺めていた。それは哲郎の勉学に対するストイックさに感心しているのが半分。あとの半分は何も考えずただぼうっと眺めていた。
だが哲郎にはそれが、「オレの話を聞いてくれ」オーラに見えたよう。書きなぐっていた手をいったん止めて、蓮司を一瞥すると、肩を落とすように嘆息しながら椅子に寄りかかった。
「わーかったよ。聞いてやるから。はぁ…………で、夢で何があったって?」
メガネをクイと上げながら、降参したように腕組みして聞く体制をとる。
そのつもりがなかったと言えば嘘になる。だがやはりそのつもりでもなかったので、蓮司は口をポカンと開けて意外そうな表情を浮かべていた。そして、すぐに居住まいを正すと、「聞いてくれよ」と、話を続ける。
「それがさ、昨日も変身して貞美と戦ってたんだけど」
「ちょっと待て。まず貞美って誰だよ」
「貞美を知らない? 『ロングシリーズ』の……幽霊、かな? 人を呪い殺せる、黒くて長い髪が膝ぐらいまであって、顔は隠れてて、白いワンピースを着てる」
「あぁ、はいはい」
そういう映画と、象徴的なその登場人物のことぐらいは哲郎も知っている。ポスターやテレビの広告で目にしたことがあるので、どういった様相かは哲郎の記憶の引き出しからも容易に取り出された。映画自体を、哲郎は見たことはないが。
「それで、貞美さんとカンフー対決してたんだけど」
「待て待て。なんで幽霊なのに武闘派なんだよ」
「意外と強かったよ? 長いスカートなのに動きが俊敏で」
「そこは呪い殺しておけよ。 ってか、それでお前はいつも通りのレッドの格好で戦ったのか?」
「そうだけど?」
想像力の乏しい哲郎でもその二人を配置するのは難しくなかった。人を呪い殺せる貞美が、ファインティングポーズの拳を上げる。もう一方のヒーローレッドが、両手と片膝を高らかと上げ『白鳥の舞い』と言わんばかりの体制で対峙している。
その異様な光景を想像して眉間に指を当てる哲郎。B級映画を通り越して、高校生が悪ふざけで作った学園祭の出し物を見るような心持ちになった。
「もうどこから指摘していいかわからん……」
「そう言うなって。それで、貞美に勝ったあとなんだけどさ……」
本来夢らしい夢は、言葉など必要としないのかもしれない——。
貞美との戦闘に勝利した蓮司は——現実の自分は寝ていることもすっかり忘れて——今日もヒーローとしての一仕事終えた達成感を味わっていた。
『任務完了!』
大きく息を吸い込み、そして誇るように空気と言葉を吐き出した。口元のメッシュの面積には限りがあるため、生暖かな空気が逃げ口を探して目元のメッシュからも吹き出す。
そのときふと、その視界の端に黒い影が動いたように見えた。
『…………?』
首ごと視線をそちらに向ける。影の見えた先を、両目を細めるようにして見つめた。おそらく相手からしたら目の挙動までは判別しようがないが、明らかに見られていることを察知したのか、その影はわずかに間を置いて姿を隠すように素早く路地へと戻る。
これまでの蓮司の悪夢は、複数体いる場合でもまとめて姿を現していた。そのため断続的に襲来するというのは珍しいことでもある。
だがそこまで考えたわけではなく、単純に「次の敵だ」と即応する蓮司。内心で警戒感を高める。蓮司の夢の世界では、蓮司か、蓮司以外の悪夢しか見たことがないのだから。
『でも……あれ? ちょっと様子が違う』
姿を隠すように戻った様子が、これまでのどの敵にも当てはまらない挙動だった。
蓮司の姿を認めた敵は例外無く彼に襲いかかってくる。その動きに速い遅いはあれど、姿を隠したり一旦後退したりといった、駆け引きをする輩はこれまで一体たりとて存在しなかった。
孕んだ警戒感のレベルを若干にだけ下方修正しながら蓮司は近づこうとする。だがもう一体の貞美の可能性も考慮し、決して油断はしない程度に。
『もし本当にもう一体いて、しかもこっちが見たら路地に隠れるって、どんな奥ゆかしいんだよ。ニュー貞美は』
蓮司は、自身の言葉で変な連想までをしてしまった。女子高生がラブレターを渡そうとして、想い人を校舎の影から見ている、そんな情景を。
その姿を呪いの貞美と重ね合わせる。思わず口角に薄ら笑いを浮かべながら、目では「勘弁してほしい」といった訝しげな薄目を浮かべる。
蓮司はを振ってそのイメージを払拭した。くだらない妄想をする前に、「この世界には自分と敵しかいない」という大前提に立ち返り、思考を冷静なレベルまで引き戻す。
その足取りは、トラップで痛い目を見てきた盗賊が、新たな迷宮へと足を踏み入れたときのよう。じりじりと、慎重に足を運んだ。
悪意。敵意。害意。それらが具象化して爪や牙や、包丁やチェーンソーといった形で、これまで何度も蓮司に示されてきた。
「蓮司を見たら襲い掛かれ」そんな命令が、まだ見ぬ敵の親玉から下知されているかのように、例外なく蓮司の身を脅かそうとする悪夢。
『まぁ毎晩なのはともかく、悪夢っていうのは大体そんなもんだよな』
そう自分を納得させる蓮司であった。
いずれにしても、知恵のついた敵が蓮司を油断させているのかもしれない。
兜の緒はもちろん、繊維らしい繊維などほぼ皆無の格好を見返し、せめてベルトぐらいは締め直そうかと思った。そして敵の前へと躍り出る。
その程度のことを考える余裕はあるのだから、油断はせずとも悪夢との戦いを楽しんでいる蓮司も、一方ではいる証拠。だが無駄に戦闘意欲満々の蓮司に対し、敵のそれは全く違った。
というよりも、一目では悪夢であるかさえ怪しい出で立ち。
蓮司が見たのは、明らかに攻撃の間合いには入らない、遠くにいる白いシルエット。姿だけなら一見するに貞美のようではある。事実コピーしたように白く、だがノースリーブの、ワンピースを着ていた。
明らかに異なるのはそれが背中を向けていること。そして長い黒髪は手入れを欠かしたことのないようにまとまり、光を白く反射していた。ぼさぼさヘアの貞美とは大違い。
そして何より、背丈が明らかに小さい。遠目に見てもわかる、そう、
『おんな……の子?』
大人のそれとは異なる早い足並みで、まるで蓮司から逃げるように遠ざかっていく。
そして背後の様子を伺うように少しだけ顔を傾けると、蓮司の姿を確認したのか、急激にその足を止めた。
「来るか?」——そう思った蓮司であったが、少女らしき存在は背中を見せたまま立ち尽くして動かない。そして何かを見上げるような、そんな素振りさえ見せ始めた。
後ろ姿からではあるが、その様子は考えを巡らせているようでもあり、また何かを諦めたような、観念したようにさえ見える。
『夢の世界の人も考えるのかな?』
言葉に出したつもりはなかったが、彼方の少女はそれに応えるように首を横に向けた。
その存在を『悪夢』ではなく『人』と表現した蓮司の心情を表すように、蓮司もいつの間にか攻撃体勢を解いてしまっていた。行き場を失った蓮司の両手が、直立するよりもやや中途半端な角度に曲げられている。
彼方で振り返った姿を見て、その心情は確信へと変わった。
ゆっくりとではなく、何かを決心したかのようにくるりと振り返る少女。
腰までありそうな長い黒髪と、膝下まである白いワンピースのスカートが、上下対照的な色彩を際立たせるように、ふわりと半回転し、浮かび上がる。
少女は、幼いながらも端正な顔立ちをしていた。目はライトブラウンの瞳。年齢の割にどこか大人びた印象を与える不思議な容姿であったが、振り返りざまに一瞬だけ浮かべた笑顔が年相応の愛くるしさを物語っている。
そうかと思えば、蓮司の姿を認めてからわずかに眉根を寄せた。蓮司にはそれが、嬉しさを讃える口角に対し、ひどく物悲しい心情を表しているような、複雑なものに見えた。
後ろで組まれている手は、何かの照れ隠しのようにも見える。
『……………………』
どうやら意思疎通が可能であるように見え、声を掛けようかとさえ蓮司は思った。
あれが悪夢で、油断させているのであればもう十分。いつ襲い掛かられても、呆気に取られた今の蓮司なら反応が一拍も二拍も遅れるだろう。
だがそれはない。そしてそれがわかっている蓮司であったが、意に反して声は出なかった。
別に夢だから声が出ない、ということではない。単純になんて声をかければいいかがわからない。そして逡巡の末にたどり着いた答えは、少女が背負う夜空をから連想された、ごくごく単純なものであった。
『こ、こんばんは!』
……馬鹿かオレは。蓮司は無性に羞恥心に襲われる。マスクを被っていなければ、暗闇でも頰が朱に染まったことが認められただろう。
一方の遠くの少女は、先ほどの寂しげな表情を打ち消し、意外そうに目を丸く見開いている。
そうかと思うと今度は、自然で、淡い微笑みを浮かべて蓮司を見つめた。
一瞬、見えない温度に包まれたような心持ちになる蓮司。心なしか、彼女の上空の星々が一斉に瞬いたようにさえ見えるほど。
その光景に目を奪われる。少女は次いで、後ろに組んでいた右手をゆっくりと前へ持って行き、人差し指を立てて口元に当てながら左目を瞑った。
口元の動きまでは見えなかったが、おそらく「静かに」と伝えたかったのだろう。
変わらず優しい表情を讃えている様子に、怒られているでもなく、ただいたずらした子を嗜めるように。穏やかに窘められたように。
一方でどこか、彼女が前かがみな姿勢は何かに対して「内緒ね」と約束してほしそうな錯覚までも覚える。
おそらく両方の意味なのだろうと、蓮司はひとり勝手に得心していた。
彼女の一挙手一投足に目を奪われ、行動する意志を吸い取られるように動きは止まっている。
彼女は一体何者なのか。何故蓮司の前に現れたのか。何故逃げるようにして離れていってしまうのか。そんな疑問が瞬時に浮かんでは消え、その一つだけでも答えを求めたいとの欲求が心情に浮かんでくる。
問うてしまったら最後、目の前の光景が壊れてしまうのではないか。そんな反作用に抗うように、蓮司が決心して言葉を発しようとしたそのときであった。
路地の向こうにいた少女は、それこそ煙に巻くように、ふっと消えてしまった。
少女の頭上には、綺麗な円を描いた満月が煌々と彼女の消えた跡を照らしていた。
「……っていう夢だったんだよ!」
「あぁ、はいはい、それはよかったねぇ」
蓮司が手に汗握って語る熱い夢講義を、同級生の哲郎は明らかに興味の薄い反応を示した。
「ここんところずっと悪夢しか見なかったのに、初めて出てきたんだよ、人が!」
「それで、その女の子とやっちゃったの?」
「人の話を聞けよお前は!」
蓮司は机を叩いた。哲郎は長々とした蓮司の説明に飽きがきたように揶揄いながら、再び机上のプリントに目線を落としている。
「会ったところで消えちゃったんだって! しかも全然知らない子なんだよ!」
「なんの話してるの?」
大層な盛り上がりを見せる様子にしずくが興味津々といった様子で混ざってきた。
哲郎が躊躇なく、蓮司の話を掻い摘んでしずくに説明しようとする。
「蓮司の夢に女が出てきて初体験したって話」
「え、まさか蓮司くん…………エッチな夢?」
「ばっ…………違うんだよ! 誤解だって! 哲郎! お前何適当につなげ直してそれっぽく話してんだよ!」
「でも嘘は言ってねぇだろう?」
哲郎は底意地の悪そうな笑みを浮かべている。手にしているシャープペンをカチカチとノックしながらさらに嘯いた。
「女が出てきて、初めての経験があったんだから」
「何故だっ! 言葉を前後させただけで全然意味が違う! ……違うんだよ。初めてのことがあったって言ったのは本当だけど……」
「思春期の男の子の欲求を全力でぶつけちゃったんだぁ? 蓮司くん、いやらしいなぁー」
大仰に反応する蓮司に対し、しずくはそのノリに乗っかるように喜悦の表情を浮かべ、しかも食い気味に言った。
「だから違うんですって! それに夢に出てきたのも、女じゃなくて、女の子だから。そう女の子だった、小学生ぐらいの!」
蓮司は言い放った。そして笑顔が張り付いたしずくを見て後悔する。
「へ、へぇー…………。蓮司くん、小学生の女の子と夢で…………」
どこを間違えた! 蓮司が誘導したわけでもないのに、しずくの思考がおかしな方向へと変えられる。普段微笑みを湛えている口角が、今ははっきりと引きつっていた。
双眸も口元も穏やかなだが、他人と距離を取ろうとする感が拭えない。
「違うって! その子には何もしてな……」
「まぁ男子の欲求をぶつけてっていうのは間違ってないな」
掘った墓穴を慌てて埋め直そうとする蓮司の言葉に、哲郎がさらに掘り返した。
「哲郎、テンメェ!」
両手を叩きながら食ってかかった蓮司の顔が鼻先三センチのまで近づく。
哲郎がペンのキャップ部分で蓮司のおでこを、冷静に押し返すように小突く。
カチッという音を伴い、蓮司の顔は後退するが、代わりにペンの芯が頭を出す。
「だからぁ、嘘は言ってないって。お前のヒーロー欲求を悪夢退治にぶつけてるんだから」
すでに表情を氷解させたしずくが、話の方向性を変えたがるように水を向ける。
「でも怖い夢ばっかり見て、嫌になったりはしないの?」
しずくの質問に、蓮司は紅潮した頰を落ち着けるように間を置いてから平然と答えた。
「別に? 今は怖くないかな。最初はやっぱり……まぁ、そりゃあねぇ。逃げたりしたこともあったけど、毎日見るようになったら平気になってった。今は好きなように動けるから、戦うこともできるし」
蓮司は右手を首筋に当てながら、どこか照れを隠すようにする。
哲郎はと言えば、眼鏡を外して鼻パットに触れている。
「明晰夢ってやつだな」
と、しかつめらしく独り言ちた。そして蓮司は知っていた。哲郎がもっともらしい言葉を使うとき、その挙動には照れと格好つけの両方を含んでいることを。
眼鏡をかけ直し、視力の戻った哲郎。輪郭がはっきりした聞き手の二人が、いかにも『わかりません』と回答を待つ生徒ようにきょとんとこちらを見つめている。ため息をつくと、
「……明晰夢っていうのは、夢だとわかっていて自由に動ける夢のことだよ。普通の人の夢っていうのは、自分の体なのに自身の意志では動かせないだろ? 他人の劇を見てるみたいに。でも明晰夢っていうのはそれができる。だから蓮司が見ている夢は明晰夢なんだろうよ」
二人は得心したように哲郎の説明に首肯で返した。哲郎は続ける。
「それにしても、毎晩悪夢を見るっていうのは、お前なんか精神に問題抱えてるんじゃないか?」
「そんなことないっての! 少なくともオレに自覚はない!」
「夢なんてもともと無意識下の願望とかが表現されているんだよ。フロイトだって言っている。 だからお前に自覚があるとかないとか、そんなの関係ないわけ」
「ぐっ…………」
言葉に詰まる。無意識のものだと言われてしまえば、誰だって反駁できない。
「で、でも、オレはそれと戦ってるんだから、別に悪夢自体が悪いってわけじゃないだろ」
理屈が通っているわけではない。いかにも蓮司らしいと思う哲郎が苦笑する。嘲笑にも似た鼻息を吐くと、そのまま悪戯っぽく返した。
「それで最後に少女が出てきて、自由に動けるのをいいことことにおいたしちゃったんだ?」
「蓮司くん……」
「哲郎っっつ!」
取っ組み合いになる二人を見ながら、しずくは口元に手を当て控えめに笑った。今度こそ、本当に可笑しそうに、笑っている。
そこでまたしてもチャイムが鳴る。蓮司はを覚えながら、しずくが机に戻る後ろ姿を見送った。酷い眠気に襲われながら。
「…………………………」
蓮司は夢に出てきた少女のことを朧げに思い出していた。毎晩の自分の夢には、自分と悪夢以外の存在は登場しないという前提に立ち返る。
そもそも、毎晩悪夢が続くこと自体が稀有であるのは、蓮司自身もわかっていた。
哲郎の言い草ではないが、この世には夢診断があるぐらいなのである。無意識とはいえ、彼の言う通り自身の精神に何らかの異常を来していないとも限らない。
だからと言って毎晩見るか? そんなシンプルな疑問が浮かぶのも当然であった。
だが蓮司はそれほど悲観もしていない。何故なら、哲郎の言う「明晰夢」が、夢見ることそのものを、彼にとって楽しものにさせていたからだ。
「…………………………」
夢の中ではヒーローとしていられた。例え現れる敵が、『スーパー戦隊』の敵らしい存在でなくとも。小さい頃の、夢にまで見ていた存在になれる。例えどんなに怖くとも、悪夢と戦うことは厭わない。むしろ自ら進んで臨むほど。
そしてこう言うのだった。
「剣舞戦隊、レッドリーダーこと西郷蓮司見参! 覚悟しろ! このや……」
ガタリと椅子を引かれ、セリフに合わせて蓮司は立ち上がっていた。完全に寝ぼけた状態で、気づいたときには物理の授業が始まっていた。
「さいごう……っ!」
声の主は戦慄いていた。白衣が震え、眼鏡までがガタガタと音を立てそうなほど。
「あれ? ……敵は?」
周りの皆が一様に席に座る中、蓮司だけが立ち上がった状態でそんな言葉を吐いた。
後ろでは哲郎が、両手で文字通り腹を抱えている。必死笑いを堪え、悶えていた。
蓮司の眼前には夢よりも恐ろしい敵が立ちはだかる。
大魔神。それが黒板の前で白い弾丸を補充しているのが確認できた。
これが夢なら、特殊なスーツが身を守ってくれるだろう。ではそうもいかない。
使い下ろしたばかりの白いチョークが蓮司の額から脳天を貫く。
「あとで職員室へ来いっ!」
そんな前時代的な白弾を眉間に受け止めながら、蓮司はさきほどまで夢の世界にいた自身と比べポツリとつぶやいた。頭から真っ逆さまに倒れながら。
「智美先生、悪夢よりぱねぇ……」
「先生、ここって……」
放課後、智美に指示され、蓮司は年月を感じさせる古い長椅子へと座らされていた。
職員室を経由して、強制的にこの場所へと連れて来られた。
智美はと言うと、蓮司と彼の眼前にある金網フェンスとの間を落ち着いた足取りで往還しながら、何かを物色している。
「さっき言っただろう、おまえに罰を与えると。……これが良さそうだな」
金網フェンスは蓮司の眼前だけではない。危険地帯を隔離するように、その周囲をぐるりと囲んでいる。
智美の手には、明らかな凶器となりうるものが握られ、フェンスの向こうではすでにそれが行使されていた。
「すみません、先生。 ……帰ってもいいでしょうか?」
「ここから一人で帰れるなと思うなよ。……あともうここは学校ではない。すなわち私も、すでに先生では、ない」
その言葉はまるで自分にも言い聞かせているような、独特の間を持って言い渡された。座して待つ蓮司を嗜虐的な瞳で見下す智美。ゲームのラスボスが不敵な笑みを浮かべるように、ふっふっふっと押し殺した笑い。
一般的な家屋ではありえないほどの高い天井。窓から入ってくる斜陽が、蓮司の下半身を朱に染める一方、陽の当たらない顔面には暗い影が落とされていた。
「やっぱりやめたほうがいいです。……今ならまだ引き返せますよ。仮にも先生なんですから」
「だからわざわざ、きみを車に乗せてこんな遠くまで来たのではないか」
智美は蓮司の制止に聞く耳持たず、一歩も引くつもりはない。選りすぐった得物を右手に握りしめ、その感触を確かめるように一振りする。そしてその先端を左の手のひらにも納めると、大きく一呼吸するように嘆息して満足げに呟いた。
「ふぅむ……悪くない」
これまで何度も、その攻撃力を遺憾なく発揮してきたのであろう。智美の手に収まるそれには、歴戦の跡が見て取れる。
「せめてその格好ではやめたほうがいいですよ、智美さん」
智美の手には一本のアルミ製バッドが握られていた。
金網フェンスの扉を開けると、智美は構えるとともに一言高らかに宣言する。
「そんなのは関係ないな。……さ、ばっちこーい!」
バッターボックスに立って高らかに宣言する智美。
蓮司が指摘した智美の格好は、白衣のみを脱いだ姿で、あとはそこいらのOLと変わらない白のブラウスに黒のタイトスカート、少し薄目のデニールのストッキングとパンプスであった。
大人びたスタイルに対し、容姿はともかく服装だけは就活生に近いかもしれない。
「蓮司ぃ、早く、早くコインを入れてくれ」
「はいはい、わかりましたよ。子供ですか、全く……」
甘えるように促す智美に、ぶつくさと不平を鳴らしながら蓮司は立ち上がる。預かっていた百円玉を二枚取り出し、フェンスのこちら側、待合室スペースに設置されているマシーンに投入する。そして「70km/h(低速)」のボタンを押した。
「おぉ、来る来る。きっと来るぅ」
子供のように燥ぐ智美を見ながら、蓮司はやれやれと言わんばかりに肩で一息つき、再びベンチへどかっと腰掛けた。長い年月が刻まれた椅子は「もう少し労われ」と不平を言わんばかりにギチリと音を立てる。
智美の物理の授業を華麗に居眠りしたうえ、起き様にヒーローの台詞まで吐いてしまった蓮司は、智美の命令でバッティングセンターへと連行された。
投擲された白いチョークには赤いインクが付いていた。……そう思わせるほどに、蓮司の額に見事な斑点を記す。蓮司はそれを涙目でさすりながら、授業後素直に智美の仰せに従った。
そして智美より大声で一言、「放課後、罰を与える」と宣告された後、彼女が通勤で使用している車に乗せられ現在に至る。
「罰ってこれですか……」
「そうさ。私の憂さ晴らしに付き合うこと」
智美は蓮司に一瞥もくれずに言った。工事現場のドットの映像に似た、粗目の投手が振りかぶっているのを凝視している。背中からでも、ボールに対して神経を研ぎ澄ませていることがわかる。
次の瞬間、放たれたボールはまるで椅子に座る蓮司への顔面デッドボールを狙うかのようにまっすぐ飛んできた。蓮司は思わずびくりと肩を震わせる。
智美は「待ってました」と言わんばかりに大きくバッドを振る。だが大振りになっている時点でバッドがボールを捉えることは難しい。智美も例に漏れず、ボールは智美のバッドをすり抜け、背後に設置された鉄板へと衝突。虚しく金属音を響かせる。
「だあぁっ! 失敗失敗」
羞恥心から誤魔化すように笑みを浮かべ、バッドを構え直す智美。
おそらく智美の脳内では華麗はホームランが打たれたことであろう。それくらい見事なフルスイングであったが、結果はさもありなん。
「智美さん、脇が開きすぎですよ。もっとしめて」
「こ、こう?」
蓮司が胸の前で両手を握り、開いた脇をしめるようなジェスチャーをする。
智美もそれを真似しながら、おずおずと再び立ち位置を確認し、構える。
「そんなにきゅっと脇を締められるとバストが強調されて目のやり場に困るます」と、口には出さずにそんなことを考えながら、直接的な視点は外してボールの動静に気を配った。
ボールが放たれ、今度はわずかにバッドに当たる。後方へのファール。
当たったことだけで少し満足げな横顔を見ながら、蓮司は思い出したように話題を戻した。
「オレはてっきり、廊下に立たされるか、ペナルティで個別授業を受けさせられるか、トイレ掃除か、はたまた逆立ちで校庭一周でもやらされるのかと思っていました」
蓮司は職員室を出た後の教室へ戻る過程で思いついた「罰」の限りを列挙した。
「そうでも言わんと周りの教師や生徒に示しがつかんだろう」
智美はそう言いながら次のボールを打ち返した。綺麗なクリーンヒット、とはいかないまでも、かろうじて前には飛んで、ぼてぼてのゴロとなる。
「居眠りしてたのに、随分と優しいんですね」
「ん? うん……まぁ、そう、だ、な!」
次の投球に集中していたためか、智美は奥歯に物が挟まったような言い方で返事をする。当たって前に飛んだボールに、相変わらず子供じみた、嬉々とした表情を浮かべている。学校での雰囲気とは大違い。
「きみが寝不足なのは、まぁ、仕方ない、こと、さ。 親類縁者の贔屓目というのが入っていないこともないが」
カーンと小気味のよい音が聞いて取れ、低い弾道で地面を擦りながらボールが走った。
智美は、蓮司から見てはとこに当たる。彼女が現在の海輪高校へと赴任してきたのは昨年の四月。蓮司が入学する、ちょうど一年前であった。
東都工業大学、物理理工学部で学業に勤しんでいた彼女は、遠縁とはいえ係累にあたる西郷茂之の勧めで彼の研究室へと身を置くことになる。
西郷茂之。すなわち蓮司の父親である。
「仕方ないこと、ですか……」
蓮司は寝不足を「仕方ないこと」と評された意図を捉えきれず、腕を組んで小首を傾げた。
「それよりもだ! 寝不足で居眠りをしてしまうのはまだ許す。だが私の前でばかりというのはいかがなものだ! たまには、そう、例えば、あくまで例えばだが、そういうのは児玉……先生の前でやりなさい!」
智美は蓮司にバッドを向けながら憚ることなく言い放った。智美の言葉には何か義憤に満ちた感情が込められている。
「智美さん、それもうすでに例えでもなんでもないです。レーザーで狙い撃ちです」
それで今日はいつもより口調が厳しいのか。とそう蓮司は一人納得していた。
蓮司の家系はどうやら理系の血が濃く流れている。蓮司の父親や、遠縁とはいえ智美に代表されるように、その多くが理系で名を馳せた大学へと進学していた。蓮司だけが、現在のところ華やかなる学歴の系譜、その例に漏れそうなのである。
まるでそのことに危機感を覚えたように、蓮司の父親が遣わしたのが智美であった。……と、少なくとも智美からは説明された。
蓮司の父親はろくでなし。そう表現するのは蓮司であるが、そう評する理由は、父が家に寄り付かないからだ。そのくせに冷たい声で蓮司の生活や進路には口出してくるものだから、蓮司は心底父親を嫌っている。
ちなみに蓮司の母は五年前に他界している。そのため研究所に篭りきりな父茂之が、親としての責務を果たせないことを危惧して、「だから私が一緒に住むことになった」というのが智美の説明である。
「そんなの建前だろ」、そう蓮司は思っていた。単に親権を案じた父親と、教員としての社会人生活をスタートさせようとしている智美の利害が一致しただけ、と。
本当に我が子が心配なら、ほぼ他人である人間を寄越さず自分で家に帰ってこればいいものなのに。
「同僚の教師に対してそんな言い方していいんですか」
「いいんだよ、別に」
そう言うと智美は何か黒い感情をぶつけるように、投げられたボールをバッドの芯で捉える。心地よい金属音とともに、クリーンヒットが上空へと放たれた。
「当たったぁ! ざまみろぉ!」
喜悦に満ちた声を聞いて蓮司は思い出した。
なんでも、「児玉が胸ばかり見る」とか、「あからさまに目を逸らそうとしている」とか。
智美曰く、「目を逸らすということ、そのこと自体が意識を向けている証拠であり、逸らそうとしているということは、それは結局見ているのということなのだよ」だ、そうだ。
同じ男の立場から、体育の児玉の援護に回ってやろうかと思った蓮司であったが、短髪ジャージの彼が、智美に対して目を細めたり、顔を逸らしたり、また眇めたりを繰り返している様子を勝手に想像し、気持ちの悪さを覚えて援護は中断。
「うんうん」と首肯し、智美に対する同情のほうを色濃くする。
だが、たしかに智美のスタイルは抜群のものがあった。蓮司の周囲では同窓の女子生徒はもちろん、知己の範囲が狭いとはいえ、大人の括りでも智美ほどのプロポーションを誇っている者はいない。
あからさまなのであろう児玉は置いておくにしても、男子生徒が彼女に熱視線を送るのは止むを得ない事情である。
智美の一挙手ごとに揺れ動く胸だけではなく、女性の平均よりも高いであろうスラリとした身長も智美の魅力だった。先ほどまでは膝丈であったタイトスカートが、スイングの一投足ごとに徐々に上へとあがり、そこには艶やかなストッキングが纏われた健康的な太腿が姿を露わにしている。
「智美先生、やっぱりその格好でバットを振るのはやめたほうが……」
「ん? なにか言った?」
蓮司が顔を逸らしながら気恥ずかしそうに小声で言った。智美は聞こえないようだが、次のボールが来る手前だったためにあまり気にしている素ぶりではない。
本来、美貌から男子生徒の好意を集めるような教師は、一方で女子生徒からのやっかみに合うことも多いものである。酷いものでは教師いびりにまで発展することがあると聞くほど。
だが智美は、その竹を割ったような性格のために女子からの人気も上々であった。
そんじょそこらの男よりも漢らしい気質は、その美貌と相まってむしろ羨望の眼差しで見られるほど。妬みもそうだが、同じく尊敬も、一度得た人気はなかなか覆らない。
総じて智美は男女問わず生徒から人気があるのだった。
そんなことを考えていた蓮司はふと、いやそれよりも先ほどから、智美のことで何か引っかかるものを感じた。喉の奥まで出かかっているのに、一向に顔を出さない。
「なんだろう?」
蓮司は独り言ちながら腕を組んだ。智美に関することで……?
「あっ!」
声に出てしまったため智美が何事かと振り向く。その間に一球が智美の脇を通り過ぎた。
「あぅぁ……。こら蓮司! 一球損してしまったじゃないか! 急に大声なんか出すな!」
智美はいきり立って不平を言った後に、「……で、どうしたんだ?」さりげなく問う。
「あ、ううん、なんでもない、です。すみません」
智美は「そうか」と言って再び構え直した。蓮司はその後ろ姿を眺めながら哲郎のことを思い出していた。哲郎が言わんとしてたことが結局なんだったのか、疑問のわだかまりとして胸に残っていたものの、ある種の天啓を得たように解がもたらされたのだ。
「哲郎、智美先生のこと……」
そう考えれば哲郎の答えと、不機嫌さに辻褄が合う。証拠など何もないのだが、不思議なもので一度そう思いついてしまうと、そうとしか考えられなくなるのも人間の情理。
もし、それこそ本当に、蓮司の結論が当たっていたとしたら、今後蓮司は哲郎に対する智美の話題については注意しなければならない。
それこそ同居していることなどバレでもしたら、怒りに任せてバッドを持ち出すのは次こそ哲郎になるかもしれない。しかもそのボールは蓮司である。「ボールは友達」などの有名な標語があるが……いや、シャレにならない。
まぁそれは半分冗談だとしても、と蓮司は思いながら、
「智美さん、本当、内緒ですからね」
「ん? あぁ。……何がだ?」
「智美さんがオレの家に間借りしていることですよ」
「そんなの今に始まったことではないだろうに。っというか、私は以前から言ってるだろう? 別に話してくれても構わないって。私自身、別に不都合は無いし、隠す方が面倒だ」
「オレは構うし、知れたら今後もっと面倒なことになるかもしれないんです!」
智美は蓮司の意味するところを捉えきれずにきょとんといた表情で首を傾げたが、蓮司の熱に気圧されて「わかった」と一言だけ漏らした。
『西郷』の姓を持つ蓮司に対し、智美の姓は『橘』であった。
苗字からして——いや、仮に苗字が同じであったとしても——智美が蓮司のはとこに当たることなど申告しなければ、学校側は知るべくもない。
智美はあえて学校に言わなかったわけではなく、単純に報告の必要を見出せずに周囲には言わないでいた。それこそ、同僚教師との雑談の中で親類の話題でも出ようものなら話すこともあるか、その程度である。
だが蓮司が明確に止めた。自分で同級生に言わないことはもちろん、智美にも「言わないでほしい」と手を合わせて懇願するほど。
当然のごとく「どうして?」と智美に聞かれる。男子生徒も、それはそれで面倒な心理が同性に対して働くものである。すわなち、智美のように見目麗しい、しかも未婚の女性と一つ屋根の下にいるなどと流布したら、足首をぐるぐる巻きに縄で縛られ逆さに吊るし上げられてもおかしくはない。あくまで最悪のケースで、だが。
「そういえば、最近夢で変わったことはあったか?」
そう言いながら智美が一度フェンスから出てきた。十球が打ち終わったようで、まだ足りなかったのか、自身の財布を取り出す。
「いや、とくには………」
哲郎のことを思案していた蓮司は、ふと智美から投げかけられた質問に生返事を返す。
智美も、哲郎と同じく蓮司の奇異な夢について知る人物の一人だった。いつだったか、ふと夢について聞かれて以来、雑談の中で度々質問されるのがお決まりとなっていた。
普通の親が「今日学校どうだった?」と、話題を振る程度のもので、蓮司も、哲郎に話すほどは熱が籠らなくとも、話題のひとつとして淡々と答えるのが日課となっていた。
智美は自身で連コインをすると、先ほどよりも早い90km/hを選択して再びバッターボックスへと戻った。わずか十球の間に打率と、気分までも良くして一段上のステージを選ぶ。
「さぁさぁ、気合い入れていくゾォ!」
残念ながらスカートの裾は元の膝丈にまで戻されていた。
また短くなることを期待しよう、そんなこと考えていると、蓮司は夢について思い出したことを口にした。
「あ! そういえば。今日珍しく夢に人が……女の子が出てきました」
ドット絵の投手が先ほどよりも目に見えて速い球を投げ、鈍い音と共にそのボールが後方に配置された網へと当たる。
速い球であったがために、またしても空振りかと思った蓮司。だが智美はバッドを構えたまま微動だにせず、ボールが脇を通り過ぎると少し間を置いてフォームを解いた。蓮司のほうへと振り向く。
「智美さん、どうしたんですか? さすがに九十キロは早過ぎました?」
「……何歳ぐらいだった?」
「は?」
「女の子は何歳ぐらいだったかと聞いている」
先ほどまで子供のようにはしゃいでいた智美が、みるみるうちに堅い表情になる。
「どうしたんですか、智美さん。そんなマジな顔しちゃって」
笑って誤魔化そうとする蓮司だが、智美はそれに取り合わず剣呑な表情を浮かべたまま。
バッターボックスを無言の球が通り過ぎる。自己の存在を主張するかのように、ポンポンと音を立てて転がっていった。張り詰めた空気に押され、蓮司が口を開く。
「えっと……たぶん、十歳ぐらいです」
えも言われぬ沈黙が空間を包む。智美はそのまま何か思案するようにし、またしてもバッドが振られることの無いボールが、智美の横を通り過ぎた。
「こんなことをしてる場合じゃなかったな……」
智美は呟くと、荒々しくフェンスを開け、無造作にバッドをビールケースで代用された箱へと放り投げる。
「ちょ、智美さん、どうしたんですか?!」
「急用ができた。悪いが一人で帰ってくれ。タクシー代は…………、ほれ、これを使え」
そう言って智美は五千円札を取り出し、蓮司に突き出した。タクシー慣れしていない蓮司にだってわかる、歩いて帰れないとはいえ、明らかに多額。
「急用ってなんです? それにこれも多いですよ。……って、あ、ちょっと」
「今日は帰れないと思うから、残りは夕飯に使ってくれ!」
智美はすでに、出口に向かってヒールをかき鳴らしながら歩いていた。振り向きながらそんなことを言い放ったかと思うと、ピタリと足を止め、そしてくるりと半回転して蓮司の元へと足早に戻ってきた。そして一言告げる。
「それと、今日はしっかりと寝るように」
「はぁ。……まぁ、子供じゃないんですから。そんなこと言われなくたってちゃんと」
「絶対に! 寝るように」
「わかりました、わかりましたから! そんな顔近づけないでくださいよ!」
眉間に皺を寄せて詰め寄るように智美は言う。まるで遅くまでゲームをして一向に寝ない子供を叱りつけるようだ。そしていい匂いがする。
最後に智美はバッターボックスを指差し「残りを打っといて」と言い残して立ち去った。
妙に律儀というか、理系らしく数をさない智美らしいというか。そう思いながら蓮司は先ほどまで智美が使っていたバットを引っ張り出し、バッターボックスに潜り込む。
と言ってもすでにカウンターは残り二球を示している。蓮司は次の初球を空振りすると、何かを思いついたように、バッドを剣道の竹刀ように上段に構えた。そして揚々と叫ぶ。
「覇王爆炎斬!」
言うと同時にバッドを地面へと振り下ろされる。ピッチングマシーンのバネで弾かれ飛んできた球は、見事にバッドをすり抜け、またしても虚しくポンポンと跳ねた。蓮司の足元を悲しげに転がるボール。この日の蓮司は、2打数0安打に終わった。