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勇者がヒモになったなら  作者: ひーらぎ
5章「勇者の使命・ヒモの役目・おれの人生」
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5章「勇者の使命・ヒモの役目・おれの人生」7

今作品は、C90「よろづ屋本舗」にて販売した作品となります。


「まだ来てないな……よかった」

 アルベルトが外を覗き込むために少し開けていた引き戸をそっと閉めた。途端にボロボロのちゃぶ台へ乗せたロウソクが頼りの薄暗い空間へ戻る。

 たまたま駆け込んだ民家は、人の営みが皆無のおんぼろ空家だった。現状一時的な隠れ家としてはこの上なく最適な場所だ。

 アルベルトは塗装が剥がれた壁へ背を預け、すぐ傍で眠る深雨の寝顔を見下ろす。

「ここもいつまで持つか……」

 見つかるのも時間の問題。

 それまでに何とかヤツをやり過ごす方法を考え出さなければならない。が、全くその手立てが浮かぶことはない。並木通りへ置き去りにしたギブソンとコトハも心配だ。

「あの時……おれがもう少しまともなこと言えてたら」

 別れていなければこんなことにはならなかったのに!

 悔しさに奥歯を噛み締めて、少しでもイライラを晴らそうと自身の太ももを殴る。濡れたジーンズから水の弾けたような音が聞こえ、

「……あ、アルト……?」 

 深雨を起こしてしまったらしい。

 まだ本調子と呼べない顔色で起き上がった深雨はロウソクの炎がゆらゆら揺らめく居間へキョトンと首を傾げた。

「ここどこ……?」

 不安に惑う瞳で訪ねられ、アルベルトは改めて部屋を見渡す。先の恐怖を忘れようと腕へ寄り添った深雨へ不器用に微笑する。

「中学校の近くに桜並木の通りがあるじゃない? その近くの住宅街の空き家。ちょっと雨宿り」

「雨宿り……。ねぇアルト」

 冷えた身体同士が触れ合い、その部分だけが熱を持ち始めた。

 絡まった二人の指先はロウソクが揺らぐたびに強く握られ、互いを求め合うように密着面を増やしていく。濡れた肩へ深雨の頭が乗る。

「……キス、して?」

 耳たぶを撫でた吐息に、アルベルトは唾液を喉へ押し込んだ。

 急にやって来たとは言え、実に甘美な響きなのは間違いない。しかし驚く程に心音が乱れることはなかった。

 不思議なほど冷静なのに、深雨を直視することも、何か言い応えることもできない。ただ沈黙を守って固く繋がった手を見つめ続けた。

「わたしじゃいや……?」

 細い声にアルベルトがおそるおそる乾いた声を絞り出した。

「おれじゃ……ダメだよ」

「彼女だよ? 彼氏とキスするのは当たり前だと思うな」

「だから……お、おれは」

 ――品田アルトじゃないんだって。

 喉の奥で掠れた声が出かけた途端、深雨に強く手を握られる。

「アルトは……アルトは死んでないよ」

「だからそれは……」

「こっち見て。ちゃんとわたしを見て」

 それができたらどれだけ楽か……。

 アルベルトが口の中へ鉄を覚えていると、

「ダメかぁ。なら、こっちも考えがあるよ」

 瞬間――あれ?

 気付いたときにはもう何もかもが終わっていた。

 正面へ穴だらけの障子を捉えていた視界はロウソクの炎で怪物のような影を作る天井を仰ぎ見ていたのだ。そして腰へ跨って座る深雨はやけに官能的に頬を染めており――濡れた瞳でとろかすような笑みを結んでいる。

「やっと見てくれた。嬉しいな」 

「……ダメだって」

「どうして? わたしがいいって言ってるからいいんだよ? 嫌なら逃げていいよ?」

 ふふ、口辺を艶っぽくてさせた深雨の身体が迫ってくる。腰へ乗っかられているだけで逃げることはそう難しくない。簡単に拒めるにも関わらず――アルベルトは深雨の背中へ手を回していた。

「嫌じゃないんだね。あのね、わたし……アルトが欲しいの」

「……冗談」

「冗談でこんなことするほど尻軽じゃないよ。よく知ってるでしょ?」

 吐息が耳へ掠るたび、深雨の声が弱々しいものへ変わっていくのに気づいた。それと対照的に服を握る力が強くなっていく。冷たく冷えた手が首筋を謎って頬を舐めた。

「女がこんなことするのは本当に好きな……愛してる人だけ。恥かかせる気?」

「……それでも。お、おれは……」

 唇が乾くのが腹立たしい。そのせいで言葉をつっかえてしまい、舌先で湿らせる。

「品田アルトじゃないから」

 ついに言ってしまった――もっとドキドキしたりハラハラしたりするものと思っていたが、特に波風立つことのない穏やかな心持ちで告げることができた。

「ごめん……」

「それでも……いいよ」

 長い瞬きの末、こちらを見つめ直した彼女の瞳は柔らかい、それこそ聖母のような微笑みに彩られていた。今まで積み重ねてきた全ての罪まで許され、肯定されそうな危うさが込められており――アルベルトはそれを何より恐れ、深雨の視線を拒絶した。

「よくないよ。おれは品田アルトじゃない、別人なんだよ」

「それでも……わたしはいいよ」

「記憶喪失でもなんでもない……。深雨さんとなんの関わりもない男なんだよ!?」

 上へ跨った深雨を退かそうと両肩へ手を置き、ゆっくり押し上げる。

「一回冷静に……れ、冷静に……」

「冷静に、なに?」

「あ、い、いや……」

 ポロポロ泣き続ける彼女を拒むなんてできわけないじゃないか……・

 深雨の肩を掴んでいた腕から力が抜け、再び彼女を受け入れてしまう。胸板に埋めた横顔から生暖かい吐息が肌へまとわりつく。鼻を啜る音が、涙を堪える声が何度も聞こえるようになり、アルベルトは彼女を強く抱き締めていた。

「ごめん……」

「どうして謝るの?」

「おれが品田アルトじゃなくて……」

「それを謝るのはおかしいよ。だって……だって……」

 溢れる涙を懸命に堪えた深雨が僅かに顔を上げる。ロウソクの影で暗くなった横顔は息が触れるだけで崩れてしまう繊細なガラス細工のような脆さを思わせた。

 アルベルトが指先で雫の一つを拭うと、困ったように笑われてしまう。

「そういうところ……本当にアルトみたい。でも違うんだよね……」

「ごめん……」

「いいの。あなたのおかげで……わかったから」

 くしゃくしゃの顔を拭った深雨が、それでもこれから先の言葉に耐え切れなかったのかアルベルトの胸板へ顔を埋め直した。

「アルトは……もういないんだもんね」

 そう――もうアイツは、品田アルトはいない。

「……うん」

 噛み締めるようにアルベルトが頷く。

「死んじゃったんだもんね……わたしを庇って……守って」

 失った、封じ込めていた記憶を思い出したのか、紡がれる言葉は破片のように至るところへ弾け散った。

「でもね……まだ生きてる気がするの」

 少し笑って聞こえる声へ相槌する。

「不思議だよね。すぐ近くにアルトを感じるの……あなたがアルトとそっくりだから……わたしの心が勘違いしちゃってるのかな」

「どうだろう……」

「……ちゃんと聞いてる? って、答えにくいよね」

 目尻を垂れ下げた深雨がもぞもぞアルベルトの上を動いて、耳元まで顔を近づけた。こそばゆさに耐えながら横目で近い唇を見つめる。

「……こういう時、なにを言えばいいかわからないんだよ」

「いいの……だから我がまま言っちゃう。今日だけ……今だけでいいから、アルトの変わりになって」

「……おれでいいの?」

「あなただからいいの。今だけ……わたしの足りないところが埋まるまででいいから」

 そんな破けそうな顔をされちゃ断れるわけないだろ……。

 黙って頷くと、身体を起こした深雨が安心したような、それでいてちょっぴり困った複雑な顔で目を細めた。

「ありがと……それじゃあキス、しよっか」

 ゆっくり近づく唇を拒まず、そっと触れる。

「んっ……アルト」

 とろけそうな唇の温もりを手放したくなくて。強くなる頭痛を忘れたくて、アルベルトが背中へ回していた腕へ無意識に力を込めていた。息苦しさに深雨の爪が胸板へ刺さる。しかしそれすら無視して彼女をより近く、ゼロ距離よりも近いところまで抱き寄せた。

 じわじわ胸の内側が温まる感覚が心地いい。

 失ったものが、欠けていたものが満たされていくようだ。

 満たされていく? 

 あぁ、そうか……今、自分は彼女から力、生きる力を分けてもらっているのか。

 ――ただ幸せだった。

 そんな幸福感を彼女も味わってくれているだろうか?

 この時間が永遠に続いてくれればいいのに――そう願った瞬間、


『ひとりにしないから。何があってもおれがずっと傍にいるから。だからおれと……』


 ピンクの花びらが舞う穏やかな風景が脳裏へ過ぎった。平屋のような施設からは子供たちの笑い声と賑やかな歌声、楽器のメロディが聞こえてくる。

 なのに、隣の少女だけは泣いていた。

 なんだこれ……。

 ふいに浮かんだ映像に両目を開けると、ロウソクの明かりを押し返す赤い頬の深雨が未だ貪るように唇を交わしていた。甘え喘ぐ吐息の感覚が短くなっていることに気付く。

 どこかで経験した懐かしい感覚が遠のき、深雨が照れた顔を隠すように口元へ手をやった。

「ぷはぁ……。こんなに長いキスしたの初めてかも。唇まで同じなんて……」

「あ、あぁ……」

 今の感覚……なんだ、今のは。

 アルベルトは唇へ残る温もりを指先で確かめながら、まだ鮮明に思い出せる光景に思いを馳せた。前にも似たような経験がある――深雨の記憶の一部だろうか? 

 考えれば考えるだけあの映像が記憶の海に流されていく気がして、アルベルトはもう一度深雨を抱き寄せた。今度は自分から耳元で囁く。

「もう一回……いい?」

 最低だ。

 深雨の記憶を知りたいがために、品田アルトを利用して再び彼女を求めようと、汚そうとしている。なのに、罪悪感よりも再び深雨を知れる喜びの方が大きい。

 本当に最悪だ……。

 本当の魔王は――実は自分なのかもしれない。それでも、

「いいよね……」

 どうしてこんなに愛おしく感じてしまうのか。

「うん……もっとして。あなたでいっぱいにして……」

 柔らかい微笑みが吐息と共に近づいて、再び唇が繋がった。

 今度はより感触を確かめるように唇を動かし、吐息を交換して、それから、それから、それから――、


『――おれはいいから!!!』


 鉄がぶつかり合う音に紛れて、必死に叫ぶ男の声が脳裏に弾けた。さっきのような映像は浮かんでこず、太い声が何度も脳裏を反復するだけ。

 思わず深雨から唇を離してしまった。

「アルト?」

「い、いや……」

 今のも深雨さんの……?

 いつの間に滲んでいた冷や汗を拭って深呼吸で息を整える。心配する瞳へ微苦笑で応じると、『もう一回』と唇を突き出された。

 アルベルトは先程まで触れ合って湿っている箇所を見つめたまま、ドクンドクンと高鳴る鼓動に耳を貸す。

 ――また、いいのか?

 好奇心と恐怖が綯交ぜになった心境を察したのか、深雨の手が左胸へ触った。何も言わずに微笑みだけが送られる。アルベルトは祈るようにピンクの果実へ舌を這わせる。

 全身へなにか温かいものが流れてくる。

 体温が、鼓動が、息遣いがシンクロする優しい感覚に身を委ねる。

 ――今度は聞こえてこない……か。

 少し残念に思っていると、深雨の舌が侵食を始めた。ぬらぬら踊る舌が自分の何もかもを絡め取ろうとしている錯覚に陥る。

 けど不快じゃない。より深雨との一体感が増した安心感が心へ平穏を齎す。

 頭痛が遠のいていく。

 アルベルトが安心しきった吐息を吐き出すと、


 ――よかった……怪我とかないみたいだな。み……う。


 なにも見えない、聞こえない、底抜けに深い闇の中で精一杯絞り出した男の声が耳の奥でハウリングした。

 深雨の中の記憶が流れ込んできているはずなのに。どうして胸の中へ広がるのは温かい幸福感なのか――。

 一切の涙がない奇妙な感覚に薄目を開けた。しがみつくようにしてシャツを握り、唇を蹂躙していた深雨が乱れた呼吸のまま頬を緩ませる。

 ゆらゆら踊るオレンジ色の明かりへ照らされた橋が途中で見えなくなり、また繋ぐために軽く触れ合う。

「このまま……あなたがアルトだったらよかったのに。なんて我がまま、今は許して」

「……うん。でも、もう魔法はおしまいみたいだよ」

「へっ……?」

 両目を見開いた瞳になにかを感じ取ったらしく、深雨が畳へ下り座った。

 アルベルトがゆっくり立ち上がると共に、雨戸の向こうで水溜りを踏み締めて歩き進む音が聞こえてくる。そして、


「ここに隠れてたのね」


 雨戸が斜めに切断――崩れる木片の隙間から雨粒ひとつ受け付けずに赤い輝きを闇にばらまく魔王が立っていた。

 炎を圧縮した剣の切っ先がこちらを睨む。

「見逃してあげてもよかったんだけどね。でも、ここまで来たら、もう殺し合うしかないじゃない」

「……そんなこと言える状況じゃないからね」

 深雨を庇うように立ち上がる。

「深雨さん。いや――深雨」

 自然と口をついた呼び名。どうして今まで言えなかったのか。

「えっ……」

「少しでいいから……目、閉じてて。すぐ終わるから」

「終わる……えっ? なにが、ねぇ……」

「大丈夫。もう……今度は必ず一人にしないから」

 ――絶対に、もう絶対に。

 アルベルトが畳を踏みしめた。

 迎え撃つように振り払われた斬撃が頬を掠める。薄く肌を濡らす鮮血を腕で拭い、意識を深い水の底へ沈めるように目を閉じた。


『深雨……ごめん』


 あぁ、本当にその通りだよ、クソッタレ!!!

 どうして今の今まで気付けなかったんだ。

 どうして忘れていられたんだよ。

 どうして、死んじまった――この世界からいなくなっちまったんだよ、おれは!!!

 アルベルトは重なり、繋がり始めた何もかもに舌を鳴らし、不安定な形で生成されたメルクを左手で抜刀。

「ま、魔力はもう尽きたんじゃ!?」

「一度はね……でも」

 火炎の弾丸を切り落とす。

「お前には一生わからないよ、クシャナ」

「ゆ、勇者の分際で!!」

 畳をひっくり返して飛び込んだ彼女の影が塗装の剥がれた壁に新たな怪物を生み出す。穿つように放たれた斬撃をメルクで受け流した。

「それで終わり?」

「まさか。ここからよ、本当の殺し合いは」

 乱れるように次々と斬撃が襲ってくる。

 アルベルトはそれを間一髪のところで避けながら彼女の隙を探すべく、眼光を鋭くさせた。しかし、メルクが彼女の身体へ傷をつけることはない。

 もう何度赤い髪が、修道服の切れ端が散っただろうか。

「あら、口だけかしら?」

「そんなわけないだろ!」

 ダメだ、こんなんじゃ倒せない! 

 斬撃を防ぎきれず、アルベルトの身体が外へ転がった。首を曲げて眉間へ刺さる攻撃を回避。よろけたクシャナの身体へメルクを突き刺す。しかし刃が捉えたのは彼女の両手首を縛っていた透明のストールのみ。

 ダメだ……もっと早く!

 雨粒、その一つ一つを切り払うように繰り出される斬撃と相対したアルベルトが奥歯を噛み締めた。

 薄く! もっと鋭く!! 

 喉笛を狙ったアルベルトが炎の壁で夜空へ吹き飛んだ。片手片足で地面を蹴って下段にメルクを握る。

 一秒、いやそれより短くたっていい!! 早く、早く――早く!!

 アルベルトの強い思いに呼応し、一振する事にメルクの形状が変わっていく。

 ノイズのかかったシルエットは一度形としてはっきり固まった。そして爆発したような魔力が刃を黄金一色にしたかと思えば、あっと言う間に輝きが暗闇に沈む。最後は薄ぼんやり光るロウソクのような輝きにまで留まった。

「一瞬で終わるよ……もう、お前は終わりだ!!!」

 眼前へ迫る魔王へメルクを居合のように構える。

「カスカスの魔力をかき集めた程度じゃ無理よ! やるなら、あたしみたいに効率よく魔力を吸い上げるんだったわね!」

 迎え撃つ炎の剣が再び燃え上がる――二人の魔力が交差した。



「よかった……助けられて。ごめん……最後までいられなく……て」

 確かにその瞬間――いろんな足場や鉄骨に潰された品田アルトの人生は終わりを告げたはずだった。視界が暗む出血に、死を自覚できたのにどういうことか。


「こ、ここは……」


 目を開けると、石、水、石と内側から三重丸を描くような場所へ転がっていた。

 どんな鉱石で磨かれたかわからない柱や壁が目に付く。凛と張り詰められた空気、自分を見下ろす白ひげを蓄えた老父と綺麗な宝石とドレスに身を飾る女の子を見て、ここが神殿のような場所であることだけは理解できた。

 ――神殿?

「ほぉ……こやつが次の勇者か。名は?」

 ――名前?

「あなたはどこから迷い込んで来たのですか?」

 ――ど、どこから。お、おれは……あ、あれ?

 どうして自分はこんなにぼろぼろなのか? 

 身動きするたび痛む身体へ声も出せず、イモムシのように地面を這うのが限界だった。 名前? なんだそれ……。

 充血した双眼を二人へ上げると、

「またか……」 

 深い溜息が投げられる。

「どうして異世界から転移してきた勇者は皆記憶を無くしてしまうのでしょう……。でも仕方ないですね、あなたに新しい名前を授けます。今日からあなたの名前は」

 ――アルベルト・シュナイダー。

 その日品田アルトの人生は終わりを告げ、アルベルト・シュナイダーとしての人生が、勇者としての人生が始まった。



 赤黒い体液がコベリ付いたメルクの刃から光が消えた。

 アルベルトは大きく乱した息を整えながら、地面へ伏して倒れる魔王へ歩み寄る。

「おれの勝ちだ」

「……服とか、髪とかぼろぼろで最悪。あの女になんか手を出さないで大人しくしてればよかったかも……」

 虫の息同然なのにクシャナの顔にはまだ余裕を思わせる笑みが張り付いていた。だが、反抗する様子は見られない。

 アルベルトはメルクを下ろし、クシャナを半身で見下ろす。

「お前の敗因はただ一つ……」

 ようやく……ようやく終わるんだ。

 アルベルトの手からメルクが抜け落ちそうになる。それを既のところで堪えながら、

「すごく簡単で……シンプルな理由だよ」

 怒りに染まり上がった双眼を閉じた。

「俺が勇者でお前が魔王だからだよ」

 右手の鞘へメルクを納めた。

「そう……みたいね。悔しいけど……あたしの負けよ。じゃあね……」

 敗北宣言――しかし最後までクシャナの顔から薄笑いが消えることはなかった。

 アレボスで何度も見た、魔獣が消滅していく瞬間。それを真似るように彼女の身体が青い炎に焼かれていく。足から侵食を始め、瞬く間に胴体を、首を、顔を、彼女のシンボルである赤い髪まで焼き尽くされ――最後に残ったのは灰のみ。しかしそれも風へ巻かれてどこかへ飛ばされていく。

 アルベルトはそれを見えなくなるまで追いかけ、夜空に溶けたところで深雨へ振り返った。

「ごめん、深雨。もう大丈夫だよ」

「う、うん……」

 空家の中で膝を抱えるように座っていた深雨が夢の続きを見ているような呆けた顔で立ち上がった。何かを疑いながらも期待する控え目な笑みがすぐ傍まで寄る。しかし触れることができないギリギリの位置で止まった。

 距離にして数メートル。深雨の中で期待から不安を引いた数値がこれなのだろう。

「あ、アルト……なの?」

 伺うような声へ小さく頷く。

「う、嘘……じゃない?」

「本物だ。ちょっと世界救ってて、帰るのが遅くなった」

「ほ、本物……。ほんとうに、ほんとうにアルトなの?」

「だから何度も言ってるだろ、深雨」

 微苦笑を口辺へ滲ませてそっとその名前を口にした途端――不安で出来ていた距離が埋まった。さっきもしたはずなのに、もう何年も触れ合っていない暖かさに、アルベルトがしがみつく様に深雨を抱き締める。

「ただいま」

「お帰り……お帰り。三年……三年待ったよ。アルト」

「あぁ……ほんとうに――」


 帰ってきたんだ。

 ゆっくり空を見上げる。

 なんだ、いつの間に雨まで止んで――終わったんだな……本当に。


 アルベルトは深雨を抱いたまま、全ての役目から解放された安堵感に目を閉じた。

「ねぇ深雨……。俺は品田アルトだけど……勇者でもあって。えっとアルベルト・シュナイダーって名前で戦ってて……こんな俺でも傍にいていいかな」

「どこにいてもアルトはアルトだから……でも勇者なんて似合わないね」

 クスクス笑う深雨へ笑みを送る。

「これでも結構頑張ってたんだけどなぁ。まぁいいや、深雨。深雨さん……」

「もぉ、どっち?」

「いや……どう呼べばいいのかわからなくなった。あのさ」

 彼女の後ろ頭を撫でながら、背伸びで耳元へ唇を近づける。

「もう絶対……今度こそ一人にしないから。だから……俺の彼女になって欲しいんだ。ダメ……かな?」

「同じ人から同じセリフで二回も告白されるなんて思ってなかった。うん……今度は約束守ってよ、アルト」

「約束……絶対守るよ、今度こそ」

 どちらからともなく見つめ合い、気づくとすぐ傍までお互いの唇が迫っていた。

 ここまで来るのにいろんなことがあった。けれど、今元通りの形へ帰結しようとしている。ある意味、これはやり直しを意味するキスでもあるのだ。

 まるで初恋のような緊張を覚えていると、

「魔王はどうした!!!」

「アルくん!!!」

 どうしてこうも空気を読んでくれないのか……。

 アルベルトは――いや、品田アルトはズタボロの格好で滑り込んで来たギブソンとコトハへ微苦笑を投げる。

 危機感むき出し、いつでも戦闘可能なテンションのギブソンがアルベルトの顔を見て、気が抜けたのか構えていたリボルバーをコートの中へ押し込んだ。

「終わったんだな、アルベルト」

「うん。もう終わった、全部」

 アルベルトは深雨を抱き止めたまま夜空を仰いだ。

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