「治安維持法」復活にあたり
本日、2017年7月11日午前0時、復活を遂げた治安維持法(別称「共謀罪」)が施行される。
そのことに関連して、昨日読んでいた星新一のエッセイに面白いことが書かれていたので、ここにメモしておく。
(以下星新一の初期の創作メモより)
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ある男。わけもなしに警察へ連行される。そして地下室に放り込まれる。
「なぜ、わたしを逮捕した」
「おまえは、よからぬことをやりかねない人物だからだ」
「そんな、むちゃな。やったから捕まえるというのならわかるが、なんにもしていないのに」
「つべこべ言うな」
不当もいいところ。男は各方面に手紙を出し、そのことを訴える。その自由は許されているのだ。しかしどこからも反応はない。同情者はあらわれない。カフカの「審判」の主人公のような状態。
しかしそんな高級なものではない。やがて男は釈放される。すなわち、無事に終わったのである。
東京オリンピックが。
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これは、その当時(1964年)のことを知らないと、ぴんとこないかもしれない。こんなことがおこっても不思議でなかった。日本人はなにか大きな目標へあおられると、それがすべてに優先してしてしまうのである。そして、だれもがそれを当然と受け止めてしまう。
東京オリンピックを知らない世代の人には、それを大阪万博とかえればいい。それも知らない人は、エリザベス女王来日とおきかえてもらえばいい。
フォード大統領の来日の時に、わたしはひどい体験をした。その前日、新潟県の長岡から上野駅に着いた。国電に乗ればよかったのだが、荷物もあるのでタクシーに乗ったのが運のつき。高速道路が安全点検のために閉鎖されれ、一般の道が大渋滞。おかげで普通なら三十分とかからない距離に、長岡・上野間に匹敵する時間と金を費やした。
「まあ、仕方ないだろうな。万一、フォード大統領が暗殺されたら、えらいことだからな」
自分でもそう考えたのだから、わたしもまた、日本人としての国民性をそなえている。しかし、そこに気がつくだけ、少しはましではないかと思っている。
(中略)
将来、諸外国の元首を集めたお祭りさわぎの会議でも開かれれば、要注意人物はその期間ひっくくられ、誰もがそれを当然と認めるのではなかろうか。いいわるいではない。日本とはそういう国なのである。
ー 星新一『できそこない博物館』(昭和54年 / 1979年発行)より。
◇
・・・確かに「日本とはそういう国」であることはその通りだろう。
ところが、現実はこんな漫画のようにはいかない。これはあくまで日本人の陰湿さと残虐性・嗜虐性を捨象した、星新一が生きていた、平和だった時代の、ひとつの(SF的・悪夢的)「思い付き」「戯画化」に過ぎない。
そしてそんな彼のちょっとした「思い付き」、日本人気質へのカリカチュアライズが、好戦的かつ全体主義的な時代への逆流とともに、よりリアルな、より血生臭い形で、今日、再び、しばしの眠りから醒めたのである。