I have an apple Ⅶ
「は、走れ?」どうして? というか何処に? その前に誰が?「僕が?」
その主旨は、僕にも、うっすらとだが予想できていた。
噓だ。林檎ちゃんが何を言いたいのか、僕にはもう確信が持てていた。でも。「だからって」
「走れ!」
一瞬、雷が鳴ったような、空気に罅を入れるような重たい音が響いた。霹靂一声、といった感じだ。
林檎ちゃんの声はこの時まで、いや僕の声も含めてだが、交差点を行き交う人々の喧噪、おもに婦人や女学生たちの甲高い声に、ちょうど紛れていた。なので僕らが平然と会話をしていても、とくに怪しまれることはなかった。
しかし今の大声、というより叫び声では、思った通り、人々の関心はこちらに集中してしまっている。夥しい数の人間が、一斉に、こちらを見つめている。
と、勝手に思い込んでいた。
変だ。四方にある横断歩道を行き来する、通行人は、誰一人としてこちらを振り向かない。顔を向けたとしても、それは、あの人はなぜあんな場所で立ち止まっているのだろう、と訝しんでいるといっただけで、女の叫び声に対する反応とは到底思えない。
まるで、石が投げ込まれた水面に一切の波紋が生じないというような、嫌な違和感に、僕は薄気味悪さを感じている。
そして、こうも感じた。もしかすると林檎ちゃんの声は、他の人間には聞こえていないのではないか。そしてそれは、裏を返せば、林檎ちゃんの声は僕にしか聞こえていないということの、表れでもあるのではないか。
なんだろう、すごく重要なことに気付けた。そんな気がする。
が、今はそれどころではなかった。林檎ちゃんのあまりの怒号に、僕の全身は今、竦み上がっているところだったのだ。
体じゅうの筋肉が硬直して、そのまま思わず林檎ちゃんを手放しそうになっていた。でもなんとか、体の反応が間に合った。林檎ちゃんの落下は防ぐことができた。が、ひやりとした。
交差点の、歩車分離式の信号が今、色を変えた。通行の順番が歩行者から車輛に切り替わったことを報せたのだ。前後左右で待機していた車が、待ってました、と言わんばかりに一斉に動き出す。
視界の下のほうで、すっと、なにか黒いものが見えた。
靴だった。それは自分の履いていた革靴だった。意識するよりも先に、自分の足が一歩前に出ていたのだ。積もって間もない雪のように、純白な、横断歩道の白線にまず、片方の足が乗っかる。
右か、左か、どちらの足が先に出たのかを僕は既に覚えていない。とりあえず絡まらないように、まずは交互に、慎重さを意識して僕は足を動かした。
どんどこどんどこと祭囃子が始まった。と勘違いをした。臆面もなく、堂々と信号無視をする僕を標的にして、何台もの車のクラクションが、突如としてけたたましく鳴り出したのだ。まるで探し求めていた獲物にようやく巡り合えた肉食獣のように、激烈に、かつ荒々しくがなり立ててくる。「善悪の判断がつかない者は、この社会から追放する」ありえないことだが、車たちがそんなことを言い放っているようにも、僕には感じられた。
無重力を感じた。ふわりと体が浮いた。右側に、視界が傾いていく。身体の軸が、大きく傾いていく。どちらかの足がどちらかの足を蹴ったらしい。躓いたのだ。今にも、右半身全体を地面に打ち付けてしまいそうなくらいに、体勢が低くなる。このまま倒れてしまうのかもしれない。地面のマンホールに、右手を突きかける。その前に、危うく林檎ちゃんが潰れかける。心臓が、一気に萎縮して止まりかける。同時に、倒れまいと僕は抵抗する。
咄嗟の判断だった。重心を失った上半身を掬い上げるようにして、僕は、大腿部を無理矢理に前方へと押し出した。飛び膝蹴りでもするような身ぶりで、大袈裟に。そうすることで間に合った。が、もはやぎりぎりのところだった。寸前で体勢を保持することができた。危なかった。硬いアスファルトの上で派手に転がるところだった。安堵しつつ、とはいえ間髪を入れずに、僕はまたどちらかの足を、前方へと投げるように、振り出した。
たった今、長めの横断歩道を渡りきった。そのとき、背後で何らかの車輛の、荒ぶるエンジン音が聞こえた。と思った直後、ぶわっと、その車輛が猛スピードで風を切る音までもが、聞こえた。それだけ、僕の近くを、すれすれのところを走り抜けたのだろう。はっとした。が、すぐに苛っとした。危ないだろ、と。
何の前触れもなく走り出し、臆することなく信号無視をやってのける男の姿に、何人もの人々が目を丸くしている。そしていつの間にやら、景色の一部にあった交差点が、姿を消していた。
今度は、目の前に細長い裏道が出現する。しかしながら、またもや沢山の人間も同時に現れている。
ここも同じか。ずっと先のほうまで、この道もこれまた大勢の人間でごった返している。一見、どこにも通り抜けられる隙間など無いように見えてしまう。
交差点と変わらない騒々しさがここにもある。
「それが」僕の口から声が出る。唸っているように、重く低い。「どうした」
だんだんと交互に振り出す足に、心地よいリズムが生まれてくる。徐々に自分が加速していくのが分かる。
潰れたバッグを肩にかけた、男子高校生の集団。道路脇の、「鮨」と大きな字で書かれている大きな看板。
白い頭部が目立つ初老の男性。誰も入っていない電話ボックスの傍らで寝転がり、自分の股間を熱心に舐めている猫。それら全ての、ほとんど無いに等しいような間を縫うようにして、脇目もふらずに僕は、狭い路地を駆け抜ける。
そんな景色は次々と、後方に流れていく。車窓なんかを、彷彿とさせる。
ふと、どこからともなく、心臓が弾んでいるような音が聞こえてきた。
ごきゅごきゅと聞こえる。それはどこか飲み物を嚥下していく咽喉の音にも聞こえる。全く関係ないことだが、そういえば咽喉が渇いた。
いや合っている。心臓のような、ではなく、これは確かに自分の心臓が弾んでいる音そのものなのだ。
あまりにも突然すぎる運動が、原因なのには違いない。そのせいで、激しく心臓が脈を打っているものだから、蟀谷とか脳とか、首筋とかの血管を介して、その、本来は聞こえてこないはずの音が、耳にまで響いてきているのだ。
そうだそうなのだと、完全にそれを納得し終えるまでのほんの短い間にも、僕はまた何人もの人々のすぐ脇を横切った。
興奮しているからだろう、今はかなり視野が狭くなっている。たった今通りすがった人間が、男だったのか女だったのか、それすらも見分けることが出来ていない。しかも肩と肩とが、何度もぶつかりそうになっている。だが上手く避けようだとか、そんなことを考えていられる余裕すらも無かった。だって、あの林檎ちゃんが「走れ」と叫んだのだから。
みるみるうちに、空気を吸って吐くことさえもが、苦しくなってくる。まだ数分も経っていないだろうに、呼吸は荒く、喘ぐようになってきている。さらに、砂利でも詰め込まれたかのように、肺が、ぱんぱんに膨らみ、かつ重たくなったように感じられる。しまいには、痛みまでをも伴ってしまう。目いっぱい空気を吸おうとすると、とくに痛む。その痛みを和らげようとすると、今度は反対に、思うように酸素を吸えなくなり、次第に頭も痛くなってくる。
眩暈がしてくる。周りがよく見えなくなってくる。何かとすれ違うたびに、うわ、とか、おい、といったような声が、耳元を掠るだけになる。しかしながら、それさえもが、僕には煩わしく感じられていた。なにより、肌と服とのあいだに籠る熱気が、不快でたまらない。頭痛に拍車がかかる。
ただこの身体が前進しているのならば、それでいい。
この、熱を帯び始めた身体を前に進めることこそが、僕の存在している意味であり、価値でもあるのだから。林檎ちゃんからすればそんな理屈、理解不能な、戯言のようなものでしかないのだろう。だが、ふと僕はそんなことを思ったのだ。
スリーアウトがすでに成立したにも拘わらず、ランナーがホームベースまで猛ダッシュするのは、たしかに無意味だ。どうにもならない。
でも、まだ僕の成し遂げようとしていることは、そうじゃない。スリーアウトにはなっていない。塁審はまだ近くで、身を屈めながら、僕の猛ダッシュを見守っているのだ。突然、そう思った。そう信じたいとも思った。
そうなのだ、今の僕の行動は決して無意味なことではないのだ、と、ただ信じるしかできない。「必ず間に合いますよ」などと誰も保証してはくれないのだから。
ホームベース、すなわち白いアパートの屋上には、まだあの若い男がいる。そこへたどり着くことには、まだ意味がある。ひたすらにそう信じる。どうにもならないなんて、そんなことはない。まだ間に合う。間に合わせてみせるんだと。止むことなく、高らかに響き続けている自分の足音だけが、そうだね、そうだね、とテンポよく、それを肯定してくれているように感じる。
僕の頭にはそれしかない。迫って行っているのは当然、自分のほうなのだが、まるでこちらに迫って来ているように感じられる通行人たちを、片っ端から避けてやろうだとか、そんなことは考えていない。それなのに、僕は誰かと、一度もぶつかることはない。いやむしろ、ありえないことだが、目の前にいる全ての人間が、僕の事情を理解してくれていて、衝突する直前に避けてくれているのではないか。そう感じてしまえるほどに運が良い。
僕と誰かの、服と服とが擦れる音がした。さほど気にはならない。悪いが、気にしていられない。
もう冗談抜きで、神様か何かが僕にぶつからないよう、周りの人間の動きを操作してくれているんじゃないか。そんなことを本気で考えてしまえる。
僕の視界を遮蔽するようにして、目の前で立ちふさがっている通行人たちの、黒かったり黄色かったり白かったりする、全ての頭に、糸が下りてきている。
そんな糸に引っ張られて、人々は操られているのだ、人形のように。
そしてだ、磁石の、反対の極同士が反発し合うように、僕が前へと進むたび、操られた彼らは瞬時に僕に反発し、すいすいと仰け反っていき、道を開けてくれる。そんな光景をつい想像してしまう。それが思いのほか可笑しくて、僕の口元は緩み、つり上がる。
痛みが走った。
右側の肩だ。咄嗟に僕は自分の右肩を押さえている。自分の顔が強張っていくのが分かる。
何かにぶつかったのだ。ちょっとした角をひと息に曲がろうとしたそのときだった。
何かが倒れ込んだ方向へ、右斜め後ろへ、一瞬だけ首を振った。
背広を来た中年男性が、片膝を突いてこちらに手を伸ばしている。
「ごめんなさい」とひと言、謝ることもせずに、僕は止まらない。
即座に前を向きなおす。走る。
読んでもらえて、嬉しいです。




