I have an apple Ⅲ
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尻餅をついてしまい、そのまま僕は床に座っている。驚愕のあまり大きく仰け反ってしまい、バランスを崩してそのまま、という感じだった。
信じられないことが起きた。そしてそれは突然のことだった。
それはあれだ。今みたいに寒い時期になると、わりと頻繁に起こるあの現象に似ていた。ドアノブに触れたりした手にばちりと、不意打ちで襲いかかってくるものそうまさにそれは、いわゆるあの静電気の痛みのようなものだった。
それは身構えることの出来ないものだった。思わず、悲鳴を上げてしまいそうになるものだった。
わっ、と実際に、僕は軽く悲鳴を上げてしまっていた。
ひと口齧って、数秒して、気づいたときには林檎が喋りだしていたのだ。
「ああよく寝た。というか、こりゃあ寝すぎだな。頭がいてーよ、って、オマエ誰だ?」
「だれ、誰?」
「見かけねえ顔だな。あ、テメエ、涙流して泣いてただろ。目のまわりが赤いからな、分かるぞ。いい歳してやがるくせに、めそめそと情けねえなあ、まったく。情けねえよ」
「だれ、誰?」
「おい、それにしても何で泣いてたんだよ。話せよ、さっさと、この私が特別に聞いてやろうじゃねえか」
「だれ、誰?」
「だれ、誰? じゃねえよ。この私が喋ってんだよ。この、ダレダレ、いや、ダラダラ野郎が。毎日毎日、延々と怠けてやがるから、ほらみろ、部屋が埃まみれじゃねえか、だから順応性まで鈍っちまってんだろうな、オマエ。適応させろ、自分自身を、この世界の不条理にな。生きづらい地球で生きていくために、キーキーとうるせえだけの猿から、必死の思いで人間へと進化しようとした、あの頃のことを思いだせ。いち、に、さん。よし、思い出したな? だったらいい加減、現実を受け入れてこっちを向けって」
この部屋には僕一人しかいなかった。はずだ。どこをどう見回しても誰もいない。初めから僕しかいないのだから当たり前だ。それなのに女の人の声がしている。
そしてその声は、あきらかに林檎からしている。
だがそれはないだろうと確認のため、手の上でぺちゃくちゃと図々しく喋くっている林檎を、恐る恐る遠ざけたり、近づけたりした。残念ながら声のほうも、遠くなったり、近くなったりした。
「で、どうしてオマエは泣いていたんだよ。言えよ」
「いや、大したことじゃないんだよ」あたかも余裕のある風を装いつつ、しかし内心では自分が涙を流していたという事実に、僕は驚いていた。試しに目元に触れてみる。なるほど確かに、ほんのわずかではあるが濡れている。そこそこ落ち込んではいた。けど本当に、そこまで僕は悲しんでいたのだろうか。
「それよりさ、よく寝たって、そう言ってたよね。ならキミは、ようするにそれなりに長い時間眠っていたって、そういうことになるんだよね?」あまりの驚きに感覚が有耶無耶になっているのか、果物の林檎に対して、自分の口からごく自然に言葉が出てきている。
第一、鬱蒼としていたはずの気分が、今はなぜか普段通りに戻っている。
「で、キミは声からして女性だ。それで、男である僕のおかげで、長い眠りから目を覚ました。しかもだよ、もしキミがさ、べつに長いあいだ眠っていなかったのだとしても、果物なんて滅多に、いや、ふつうは絶対に目覚めるものじゃないよね。それなのに、おそらく女性であるキミは、奇跡的に目を覚ますことができた。もちろん、男である僕のおかげでね。なんかさ、そういう流れが、童話の、なんだっけ、あれ」「ああ、あれか」「うん、あれ。そうそう、『白雪姫』によく似てるよね。いろいろと違っているところは、あるんだろうけど」
「お姫様が毒林檎を齧って、仮死状態になるって童話だろ。知っている。だが原作は、そんな、いかにもハッピーエンドといったような結末じゃあなかったぞ。『白雪姫』はたしか、身体を何かで打ち付けたりした拍子に、毒林檎の欠片をげろっと吐き出して、目覚めたんだ。そう考えると下品だよな。まあ、オマエの言うそっちのほう、リメイクされたヤツも知ってはいるんだがな。でもなんだ、あの話の中では、仮死状態にさせられたお姫様を、めちゃくちゃカッコイイ王子様が目覚めさせてやるんだろうが。オマエまさか、自分がイケメンだから、だから今、自分を取り巻いている状況がまるで童話に出てくる王子様のようだとか、考えてるんじゃねえだろうな。自惚れているんじゃねえだろうな、あ? だがまあ、たしかに、それ以外に違っているところも無いんだけどな。とりあえず鏡、見て来いよ。鏡よ鏡、ってな。情けねえ自分のツラを、現実を見て来い」
まさに歯に衣着せぬ、というふうに林檎は喋る。
いやいや僕の言いたかった「いろいろと違ってる」部分というのは、そういうところじゃない。僕がイケメンなのかそうじゃないのかとか、そんなことは別にどうだっていいことじゃないか。つまり間違っていると思われる部分は、もっと他のところにある。
確認する必要なんてないのかもしれないけど、そもそも『白雪姫』というのは人間の女性なのだ。林檎ではないのだ。いくら女性であったとしても、果物はありえない。
たしかに僕の顔立ちなんか、王子様を務めるような男と比較すれば、それはもうかなりの差で劣っているのだろう。悔しいけどそうなんだろう。しかし今この現実に起きていることと、僕の知るあの童話の一番の相違点といえば、寝て目覚めたのが人間の女性ではなくて、本来はお姫様を眠らせる役割だったはずの林檎だった、というところになるんじゃないか。
この、毒があるのかどうかは定かじゃないけれど、今僕の手の中にある林檎だった、というところだ。そう、間違っているのはそこなのだ。
ああそうに違いない。そこは間違いないと思う。
ただしひと口齧って、飲み込んで、それから一時して分かったのだけれど、僕がまだこうして意識を保っていられている事実からして、この林檎は、人を仮死状態にさせたりするようなああいった毒林檎ではないらしい。
「でもでも、イケメンでも、王子様でもなくったってさ、もしも僕の口づけじゃなかったら、というかまあ、実際はひと口がぶりと齧って、歯型まで付けちゃったんだけど、あ、もしかして痛かったりする? 齧っちゃったところ。だったら大変だあ、どうしよう、ホントごめんね。だけど、それじゃなきゃキミは、目覚めなかったのかもしれないよ」
「べつに、痛くも痒くもねえよ、このくらい。ただ、齧るの前、オマエ何て言った? 口づけ、とか言ったか? いま口づけって言っただろ、オマエ。気色悪いこと言ってんじゃねえよ、オマエ」
べつに痛くないのか、と、その点に僕はまず安心している。
そして僕は、なんとなくだが、先ほどから林檎の齧られて歯型に窪んでしまった部分から、声が聞こえてきているような、そんな気がしてきている。本当になんとなくだが、赤い球体の中の、その白いような黄色いような楕円形が、だんだんと口のように見えてきたのだ。
「じゃあキス」口づけが気に障るなら、と僕は適当に言い換えてみる。
「じゃあキス、じゃねえよ。呆れたヤツだな。そんでもってバカだな、テメエは。人間界バカ代表だ。そんなんじゃな、たとえ運よく、奇跡的に女ができたとしても、すぐに逃げられちまうだろうな。つまり、気づいたときにはお互いに遠く、離れ離れになっている。そんな間抜けたラストが相応しい。オマエには、きっとな」
林檎はなかなかきついことを言ってくる。そして何より、それは、まるで今の僕にとっての嫌味を見透かしているような、鋭い口ぶりでもあった。
その時だった。そうだそうだと、僕はあることを閃いていた。
「そうだよ、毒林檎でいいんじゃないか」そんな言葉が僕の口をついて出ている。「悪口とか、ひどい言葉を口にすることを、毒を吐く、って言うでしょ? だから毒を吐く林檎で、毒林檎」
たとえ僕を深い眠りに陥れることがなかろうと、毒林檎。
「何が、毒林檎なんだよ」
「だから、キミが毒林檎」
「私が? そうか、私なら構わないぞ、それで。勝手にそう呼んでくれ」
林檎の口調は依然として淡々としている。冷たい。人のぬくもりというものが微塵も感じられない。果物なのだから、当然なのかもしれないけど。
「あ、いや、呼び方はべつに毒林檎じゃなくてもいいよ」
「そうか。まあ、何とでも好きに呼ぶといい」
「それじゃあ」いたって真面目に、僕は考えを巡らせている。眉間に指をあてて、わずかな間をつくっている。沈黙がすこし続く。そうしてふと思いついた愛称に、我ながら惚れ惚れとしてしまう。「りんご、ちゃん、でいいや。これからもよろしくね、林檎ちゃん」
「は? そんなバカな」
林檎ちゃんがやれやれと、左右に首を揺らしている。そんなことは果物なのだからありえない、が、そんな気がする。
読んでもらえて、嬉しいです。