I have an apple Ⅱ
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いつからそこにあったのだろう。
ふと、赤い林檎が目に入った。林檎は、部屋の真ん中にある背の低い卓袱台の上に、置かれてあった。
いつからか僕は腹を空かせていたらしい。林檎を見た途端、ぐぐうと腹が鳴った。さらに、無意識のうちに僕は左手を床に突いて、身を乗り出している。ぐいぐいと全身を伸ばすようにして、そのまま反対の右手を林檎へと伸ばしている。無理な体勢になっているのか、背中の辺りから鈍い音が鳴った。普段から身体を動かしていないからだろう、音が鳴ったのはいいが、そのあと数秒動けなくなるほどの痛みが腰に飛来した。そのうえ、一瞬だけだったが呼吸ができなくなった。
それでも、呻き声を出しつつ僕は、手に取ったひんやりと冷たい林檎を顔に近づけていっている。それだけ、空腹は耐え難いものだったのだろうか、艶のある黒ずんだ赤色を見つめていると、自然と咽喉が鳴った。
だがそれを台所で、洗ったり剝いたりする気力が僕にはもうなかった。
何とはなしに、台所のほうに目をやる。まず、引き付けられるようにして包丁が視界に入ってくる。大股で近づき、それを手に取る。林檎を剝くためではない。前回使った時に拭き切れていなかったのか、黒い柄の部分が少し湿っていた。
ひと呼吸はさんで、包丁の刃の部分を服の上から、自分の胸に当てる。こりっと、硬いものに当たる。骨だ。肋骨、それなら、と躊躇なく刃を真横に回転させる。屋内の照明で輝いている先端を、骨と骨の間に丁寧にずらす。わずかだが弾力のある肉に、当てる。ここに沈ませれば、急所を抉ることが出来るだろうか。考えるよりも先に息を止め、目を瞑っている。これから起きる一瞬の出来事に、集中する為に。もし思い切れなければ失敗に終わる。
胸部の肉を、刃先で軽く突き刺した。すぐに黒く、雨粒が染み込むようにして、血液が服に滲んでくる。それから、空いているもう片方の手の平で、包丁の黒い柄の部分を、力いっぱいばんっと叩くように、押し込んだ。仰け反ってしまうような、自分でも驚くような衝撃のあと、銀色の刃が自分の体内へと消えた。そして筋繊維や、堅い肉をきりきり、と切り開いていく感触がして、痛みは感じないが、その直後、ずる、ずるりと、なにか柔らかいものに刃先が吞み込まれていく手触りが、震える手の平に伝わってくる。湿った柄がそれを伝える。ぴちぴちと新鮮な魚のように鼓動している、心臓の膜を引っ掻き、そしてその、つるつるとした表面を破いて、中身の血溜まりにずるずると鋭利なものが滑り込んでいく。そんな手触りだ。ぞっとして、吐き気がする、が、さらに押し込んだ。全身に激痛が走り、息ができなくなった。柄を摑んでいる両手に、満遍なく生温かい何かが触れる。そこで目を開ける。両手が真っ赤だ。というより、床が近い。迫ってくる。ぶつかる、と思った時には派手な音を立てて、僕は無様に俯せで倒れている。
いやいや何を考えているんだ。と僕は、首を横に強く振っている。
湿っているのかどうかは置いておくとして、柄の黒い包丁はもちろん、まだ元の場所にある。手元には、黒っぽい林檎がある。頼むから変な気を起こさないでくれ。自分に言い聞かせる。すかさず視線を逸らす。次に、壁に掛けてある円い時計が目に入ってくる。
最後に見たときから長針が二、三周ほどしていた。長い時間が経ったのだ。それは僕が懲りもせずに、またもや彼女に電話を掛け捲ってしまっていたということを、物語っていた。
ありえないような話だが、また、何度も何度も、僕は彼女に電話をかけ直していた。そしてそのせいで、僕はもう憔悴しきってしまっていた。嘘みたいだ。が、まるで広い街中を駆け回った直後のように、今は気怠い。本当に。
でも何というか、体力というより、今の僕は精神的に参っている。人間こう嫌なことばかりが続くと、鬱蒼とした暗い気分になってしまうものだ。仕方がないことなのだろうけど、とりあえず、今度は頭が痛くなってきた。
どうして彼女は、電話に出てくれないのだろうか。そんな疑問が今、寄生虫が臓器の隅々(すみずみ)にまで猖獗してしまっているかのように、自分の頭の中でとぐろを巻いてぎゅうぎゅう詰めになっている。そのような感覚が、まさに今の僕を暗い気分にさせている、原因といえる。
「彼女が、電話に出んわ」思わず口に出してしまった。が、もはや駄洒落を悔いる気力もなかった。
疲れた。今すぐにでも眠ることができそうだった。まだ昼間なのに眠気で目がかすんでくる。自分の手のなかにある林檎の赤色が、一瞬ぼやけた。二、三回まばたきをする。
何度もかけ直した電話は、とうとう繋がらずじまいだった。
だが僕はというと、かけ直すたびに、次こそは繫がるはずだと信じていたのだ。必ずうまくいく。そう信じ込むことで、そして、いつも通りの彼女の優しい声を想像することで、僕は頑張れていた。万が一電話が繋がったとき、自分の「もしもし」という第一声に嫌な疲労感がにじみ出てしまわぬようにと、僕は気合を入れて、構え続けることができていた。僕と彼女の関係に、もうこれ以上、軋轢を生じさせるような原因をつくるわけにはいかない。そう思いながらかけ直していたのだ。
感じの悪い挨拶で彼女が機嫌を損ねてしまっては、本末転倒だと、思いながら。
とはいいつつ、べつに僕と彼女が衝突していた時期なんてひと時もなかったし、それに、そういえば口論になったことだって一度もなかった。ましてや、彼女はその程度のことで感情的になるような人ではない。分かっている。
そもそもだ、あの人はむきになる方法さえも理解できていないような、天然屋さんでもあるのだから。
だからこそ、最期の最後まで自分がどうしてそんな気配りを続けていたのか、今となってはその行動の意味が分からない。そう残念なことに、全ての苦労が、無駄だったのかもしれない。
しかしながら、ひょっとするとその無駄な努力が良い方向に作用するんじゃないか、たとえば「明るい声が出るようにして待ち続けていれば、彼女は必ず電話に出てくれる」と前向きな気持ちで身構えていさえすれば、もしかすると思わぬところで、ふとした瞬間に電話が繫がり、彼女の元気な返事が聞けるのではないか、などと、ついさっきまでの僕はというと、そんな根も葉もない自信や、過信に取り憑かれ、面白いように振り回されていた。
そのおかげ、というべきか、それだからさっきまでの僕は無心に、まるで操られているかように一生懸命になれていたのだ。無論、その頑張りに意味など無いのだろうが。そしてこれは、どうでもいいことなのだが、「不毛」という二文字がたった今僕の頭をよぎった。
とにかく、だ。もう彼女とは会えないのかもしれなかった。
これまでの熱心な気遣いが、期待が、見事に空回りしてしまった感じが、なにか大事なことが終わってしまった感じが、急にしてくる。波のようにどっと押し寄せてくるようでもあった。
でももう、仕方がないのかもしれない。僕はすでに諦めかけている。
あれ、と思う。またか、とも思った。
思ったときには、目の前に忽然として靄がかかっている。
また、僕は変な気を起こそうとしている。だとしたら危険だ。
警戒心で一気に眠気が吹き飛んだ。気がした。が、しかしその眠気というのは、実は相当深刻なものだったのかもしれない。そのいきなり訪れた違和感に、僕は、何一つとして抵抗することが出来ていない。やはりまだ眠たかったのだ、多分。今のこの状況は、熟睡していたところ急に起こされて、しかし不信感よりも、眠気のほうが勝っているので、なかなか現状についていくことが出来ないという、まさにそのような感じであった。なにもできない。というよりも、なにをする気になれない、という感じだ。怠い。だんだんと目の焦点が乱れてくる。
高熱に魘されている時のように、僕の視界はすでにまっ白に濁っている。
そのまっ白な頭の中に、雪の塊を楽しそうに転がしている、あの彼女の姿が浮かんでくる。
彼女は、呆然と立ち尽くす僕のもとへ、向かってくる。大きな雪の塊をゆっくりと、押すようにして転がしながら、近づいてくる。すぐそばまで来て、微笑みかけてくれる。その無邪気な笑顔にうっとりとしてしまい、彼女に出会えて本当に良かったな、と思う。僕も、出来る限りの笑顔をつくって返す。が、そのまま、僕の目の前を横切り、彼女は足を止めない。雪の塊を転がすのに夢中なのかもしれない。積雪を踏み潰すざざく、ざざく、という音が遠のいていく。彼女の背中も、いつの間にか遠くなっている。声をかけようにも、もうすでに届くような距離ではない。もう遠いのだ。
「嫌だ待ってくれ」僕は声を出している。妄想の中で立ち尽くす自分の背中を押したかった。鼻水を流しているだけの自分に、一体どの道を行こうとしているのかは分からないのだけれど、遠くの、雪で白く、薄くなった景色に紛れていく彼女を、追わせたい。
その時だった。視界にふと濃い赤色が紛れ込んできた。
目の焦点が一瞬にして、手のなかの真っ赤な林檎に定まってしまっていたのだ。その時はとりあえず、赤いな、とだけ思った。
そのようにして、不本意にも僕の意識は、夢も希望も残されていない現実に引き戻されてしまっていた。
僕は強く舌打ちをしていた。ぢゅっ、と品のない音が鳴った。しかしその憤懣を込めた舌打ちの、ぢゅっと鳴った音にすら、僕はいつかの、彼女とのキスの音なんかを重ねて聞いてしまうのだった。もう、うんざりしてくる。
「もう疲れた」思わず声が漏れた。生気のない声が、弱々しく。
本当に自分の声だったのだろうか。疑わしくなるほどにそれはとても暗い声だった。疲れた。ぐぐうと、また腹が鳴った。何か食べたい。だがもう疲れた
部屋の中が非常に冷たい。だったら暖房を入れなければ、と頭では分かっている。にもかかわらず、リモコンを操作することすらも、もう億劫に思えてしまうほどに疲れている。
目の前の、手のなかにある林檎を台所で洗うことすらも、包丁で剝くことすらも、もうしたくなくなってしまうほどに、疲れている。
とくに用事はないのだろうが、僕はただ台所を見つめている。
もう生きている意味なんてない。今思えば彼女は生き甲斐だったのだ。
そのことにやっと気づけた。でももう手遅れだった。
「だったら今すぐに、生きることから逃げてしまうのが、一番いい」と声がする。神父なんかを思わせるような優しい声だったように、感じた。台所にある、あの柄が黒い包丁がそう言ってきていた。そんなことは常識的にあり得ない。それなのに、僕は甘い言葉につい釣られるようにして、その言葉の内容に納得してしまっている。はいその通りです、とでも言わんばかりに、深々と頷いてしまってもいる。
それから僕は、そっと腰を浮かせた。包丁が待っている台所へと、一歩を踏み出している。そのとき、薄い板張りの床が、悲鳴を上げるようにして、苦しそうに軋んだ。
冷静に、真剣に、そうした行動をとってしまうほどに、僕は疲れている。
もう何もかもが面倒だった。とくに、今こうして生きていることが面倒だった。けど、今のこの空腹な状況だけは、どうにかしたい。人間とはそういう生き物だ。こんな時でも欲求だけは満たしておきたい。
ひとまず僕は、着ていた黄色い服で、赤い林檎を適当に擦っていた。
大股で歩きながら、齧っていた。
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