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僕は林檎を持っている  作者: ブンピツ
12/12

I have an apple Ⅻ

 

       

       ○


 

 ずっと昼間なのかと思っていたが、そんなはずもなく、ようやく今日という日にも夕暮れ時がやってきた。(しば)し足を止め、僕は空を見上げている。

 

 空のてっぺんに近いほど色は濃く、地平線の(へり)では薄かった。おなじ空でも、夕焼けの空の赤色には変化があった。それに気付く。そしてその、赤々とした、炎のような鮮やかなグラデーションがやたら幻想的で、美しいと僕は思った。

 

 どこか心のなかを焼かれているような気分になるものの、不快にはならない。むしろ、山焼きが行われる原理と同じで、山が焼かれることで害虫の駆除や土壌の改善がなされ、山全体の萌芽(ほうが)が促されるといった風に、いっそ心のなかを焼かれてしまえば、僕の命を(ねら)ってくる毒性の強い害虫のような何かや、僕の生命力を過剰に吸いとってくる迷惑(めいわく)な雑草のような何かを、根絶やしにさせることができ、自分にとってもよい影響がもたらされる、と、まるでこじつけのようだが、そのように僕は感じていた。だから不快にはならない。

 といいつつ、そんな悪い虫や草といったものは実際、僕のなかには存在しないのだろう。存在するわけがない。けど、そんな弊害が心のどこかで(ひそ)んでいたり、深いところにまで根を張っていたりするから、僕の〈悪い癖〉はいつまでも治らない。そんな気がするのだ。いずれにせよ、心のなかが焼き払われることは僕にとっても、なんだか幸先がよくなる儀式の一種ように感じられた。


 とはいえ僕にとっての、良い兆しや幸せとは、どのようなことを指すのだろうか。今にもぱちぱちと音が聞こえてきそうな、燎原を思わせるような真っ赤な空を(なが)めながら、安らかな気持ちになりながら、僕は思いを馳せてみる。

 この美しい風景もどうせ、やがては黒く()まるのだろうけど。と、後ろ向きなことも思いながら。


「あ」と声が出る。あのおばあさんが死にたくなる時間帯だ、と半ば自虐的に僕は息を()らしている。心が押し潰されそうな気持になる。そして僕は、手に持っている、さっき買ったばかりの林檎を、青森県産の『ふじ』を、着ているコートに(こす)りつけている。意識しているわけでもないのにそうしている。擦りつけて、綺麗(きれい)にしたあと、僕はこの林檎を食べようとしているのだろうか。自分でさえもそれが分からない。


 ただ、次はどこを口にしようか、もし、これをひと口齧(かじ)るのならばと、赤い林檎を見つめながら、僕はそんなことだけを考えていた。

 ただし口といっても、そもそもだ、あの齧って(くぼ)んでしまった白いような黄色いような楕円(だえん)形をした部分から、林檎が声を出していたという根拠など、どこにもない。だからあの部分が口だったとは言い切れない。


 それにだ、今この中で眠っているのは、いや必ずしもこの林檎の中で眠っているとも、限らないのだけど、もしも、何者かが、僕が齧った瞬間に目覚めたのだとしても、もしかするとそれは、あの林檎とはまるで異なった人格の持ち主なのかもしれない。その可能性だって十分にあった。それでも僕は、構わなかった。

 あの林檎に何かいい愛称を与えてあげようと、(なや)みに悩んでいた時、そうそう、そういえばそういう僕の苦労があって「林檎ちゃん」という名前が生まれたのだけれど、それはさておき、まさにあの時のように、僕は次に、林檎に口を、いわゆる齧り跡をつくる位置は、どこにしようかなと、熱心に悩んでいる。

 

 そう、もしもまた次があるのならば、(うれ)しいなと、そんな年甲斐も無いようなことを今の僕は考えていた。なぜなら、だってまだお互いに、別れを告げていない。バイバイも、さよならも、僕たちは()わしていないのだから。

 

 それだから、(あたか)もまだ希望があるかのように、夢を見てしまうのだ。

 林檎ちゃんによれば、僕の知っている物語はリメイクされた作品のことだったらしいんだけど、とにかく、あの童話の中で、王子様の口づけでお姫様が眠りから目覚めたみたいな、わっと(おどろ)くような奇跡が、再び僕の身の周りで起きてくれるんじゃないか。そのようなことを、僕は夢見てしまっている。


「口づけだと、気持ち悪いこと言ってんじゃねえよ、オマエ」「じゃあ、チューはどう?」もしもこの場に、林檎ちゃんがいたなら、今後もそんなやりとりが続いていくのだろう。そんなことを考えると現状と比べてしまい悲しくなる。ただ、わずかに、気分が楽になったような気もする。

 

 いや待てよ、僕の場合は、口づけどころかひと口齧りつくんだから、歯型まで付けてしまうことになるのだ。大変だあ。そしたらまた林檎ちゃんに謝らないといけなくなる。じゃあ、そのとき僕はなんて謝ればいいのだろうか。あっけらかんとした態度で謝罪(しゃざい)してしまえば、またバカにされちゃうだろうから、といいつつ神妙な面持ちで謝罪したとしても、結局バカにされちゃうのだろう。どう転んでも僕はバカになってしまう。だが、それもまた、林檎ちゃんが目覚めてくれたらの話だ。


 ともかく、そんなふうに奇跡が起きてくれたら僕は嬉しい。そのような根も葉もない希望を、僕はかすかに持ち始めている。興奮してしまっているのか、今はあまり寒さを感じなかった。

 

 ちゃんとお別れをしていないから、これだけが原因だった。そうだそうなのだ。そうやっていつまでも曖昧なままで、はっきりとしてくれないからだ。

 僕は、いまだに(あきら)めきれず、期待なんかをしてしまっている。

 

 もしかするとまた林檎ちゃんに会えるのかもしれない、という期待だ。


 外套で擦られて、磨かれて、それなりに(よご)れが取れたのだろうか、今は心なしか林檎の表面が、(くも)りの無い、より明るい赤色に見えている。

 ほんのりとだが、甘い香りを感じとれる位置にまで、僕は林檎を自分の顔に近づけている。途端に、ぐぐうと腹が鳴る。口があんぐりと、開いていく。

 

 そうして口を大きく開けたまま、僕はすっと空気を吸い込んでいる。それから二、三秒ほどして、ひと思いに息を吐き出した。その息が早速白くなる。それが上へ上へ、まだ微妙に明るい空にゆっくりと上っていく。


 しかし反対に、たった今また降り出した雪は、下へ下へゆっくりと、空から延々と()りてきている。今まで降ってこなかったのに、何というタイミングだろう。

 そしてその(にわ)かに振りだした雪が、僕には、枯竭(こけつ)した砂漠に例外的に降りそそいだ雨だとか、バースデーケーキに降りかかるクラッカーの紙吹雪だとか、そういう、いかにも縁起の良さそうなものと同義なものに見えていた。偶然とは思えなかった。もしかしたらこれから起こるのかもしれない奇跡を、僥倖(ぎょうこう)を、神様が祝福してくれているのかもしれない。あまりに子供っぽい発想だが、気分が高揚してしまっている僕はそんなことを本気で考えてしまえている。


 あ、と思う。林檎にそっと雪が降りかかった。不意に目が()まってしまう。

 が、ひと欠片という表現がぴったりに思えてくるその、ごく小さな白い(つぶ)は、あっという間に溶けてしまう。初めからそこに無かったかのように消えてしまう。

 儚いものだなと、しんみりとしてしまう。そして僕は意味もなく(はな)をすすっていた。そのときだった。


 刹那(せつな)、ふわりと、僕の頭の中にも降ってくるものがあった。

 それもまさに雪のようなものだった。


 (たと)えばそれは、そう雪のように、ひとたび目の前から消えてしまえば、本当にそれは今までそこにあったのだろうかと消失したその瞬間からもの(すご)い速さで存在が曖昧になっていきそうな、そんな、薄ぼんやりとした何かだった。いや、そもそも、初めから無かったことにもなってしまいそうな、ひどく不安定な何かでもあった。


 僕の頭の中に降ってきたもの、それはあれだった。今の今まで忘れてしまっていた、いつかの記憶だった。危うく無かったことにしてしまうところだった。そうならなくて良かった。僕はほっとしている。

 それは白いアパートの、例の若い男のいた屋上を目がけて僕が林檎を投げ飛ばしたという、あの瞬間に聞こえてきた、若い女のよく通る声だった。

 そうだそうだ思い出したぞ、と僕は内心でどきどきとしている。こみ上げてくるものを必死に抑えている。その正体は林檎ちゃんの声だった。

 それが音も無く、ふわりと、僕の頭の中に降ってきたのだ。


 でも林檎ちゃんから声がしたあの時、僕は止まれなかった。車と同じで、すぐに止まれなかったのだ。その後悔が今になってやってくる。

 あの時、すぐに止まれていたなら、僕たちは離れ離れにならなくて済んでいたのかもしれない。しかしながら、「投げろ」、という林檎ちゃんの指示に、もはや人ですらない果物(くだもの)なんかの指示に、圧倒されてしまい、震えあがってしまい、しまいには頭の中が真っ白になってしまい、はっとした時にはもうすでに手遅れといった状態だった。なぜか僕は果物の指示に(したが)っていた。林檎ちゃんを投げてしまっていた。そんな風に後悔しながらも、僕は口元をほころばせている。


 そうそう、と僕は(うなづ)いている。たった今、不意に、とある構図が頭のなかに広がったからだ。手足の無い林檎ちゃんに、背中をつよく突き飛ばされたように感じ、つんのめる僕は、立ち止まることができない。そんな荒唐無稽(こうとうむけい)な構図だ。

 

 まさにそういうことの連続だった気がする一日を、ずっと林檎ちゃんに従順(じゅうじゅん)だった気がする一日を、どこか自分にも生きている価値があった気がする一日を、僕はひそかに、満ち足りた気分になって思い返していたのだ。

 同時に、ふわりと降りてきた林檎ちゃんの言葉の内容を思い出している。


『いいか、私たちの仕事を、増やすんじゃねえぞ』


 やっぱり林檎ちゃんはよく分からないことを言う。『私たちの仕事』とは、いったい何のことだろうか。僕には分からない。とぼけてみる。

 

 寒さが厳しいせいなのか、緊張しているせいなのか、分からないが、そういえば自分の開いたままになっている口はわなわなと震えている。そんなよく分からない震えを不気味に感じながら、僕は、林檎を持っている右手をさらに口元へと近づけていく。


 暮れ(なず)む空の下、独り林檎を見つめている。


 読んでもらえて、嬉しかったです。

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