I have an apple Ⅹ
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若い男を見送ったあと、僕はそそくさとアパートの裏側から住人たちが出入りする表口へと場所を移して、少しばかりねばってみていた。
つい先ほど、数分前に、細い路地を走っている最中に男性とぶつかったからなのか、それとも、林檎を思いきり投げた時におかしな方向にひん曲がってしまったからなのか、分からないが、今になってずきずきと痛みはじめた右肩を左手で念入りに揉みながら、僕は待ってみた。
しかしながら、十分ほど経ったところで僕は諦めた。寒かったからだ。
とくに今日の寒気には、あらゆる意欲を削いでくるといったような、人間を駄目にしてしまうような鋭さがあった。だからそれ以上は待てなかった。
雪は降っていない。しかし、どういうことか体感的に暖かく感じない。ある程度気温が冷えていなければ雪は降らない、だから降っていないときはそれなりに暖かく感じる。家を出たばかりの時はそのようなことを考えていたのだから、その考えは、現時点でもう矛盾してしまっていることが分かる。雪が降っていないだけ、まだましなのかもしれない。が、少しましになっただけで、いきなり夏のような気候へと一変するわけでもないのだ。寒いものは寒い。焼け石に水、という言葉が思い浮かび、それから、連鎖するように表裏一体、という言葉も思い浮かんだ。
十分くらい待っていると、その間アパートを出入りする住人の三人ほどとすれ違った。無論、その住人のなかに、お目当てだったあの若い男は含まれていなかった。
そういえば数分前にスーパーに寄った。ちょっとした用があったのだ。
今はスーパーの袋を左手に提げ自宅に向かって歩いているところだった。ちなみにスーパーに寄ったあとなので、来たときとは違う道を通っている。
避けなければ、と反射的に身体の軸を左にずらした。今、フレームが赤い自転車に乗った女性と、すれ違った。長い髪が靡いていて、それに惹かれるようにして僕は視線を右側に移している。通り過ぎた女性のものなのか、色濃い花をすり潰すシーンなんかを連想させるような匂いが、鼻に入ってきた、のはどうでもいいが、右側に首を向けている僕の視界の、背景の一部が、気づけば広い河川敷で上書きされている。
土壌の酸性度が高いのか、春まで時間を早送りしたら、そこら一帯はものの数秒で黄色い菜の花で埋め尽くさせるのかもしれない、そんなことを思わせるほど雑草だらけなそこには、二人の人がいた。二十代前半と思しき男女が、何やら口論になっていた。その様子がわりと気になったので、どうせなら見物していこうとわくわくしながら、僕は足を止めた。
別れるの別れないのどっちなの。興味本位でその様子を眺めていると、女性の口から急にそんな言葉がとび出した。やや距離があったが、声が大きかったのでよく聞こえた。おそらくは彼氏なのだろうが、女性と向かいあっていた男性のほうは、その彼女の問い掛けに面喰ってしまったのか、ピッ、と何者かにリモコンの一時停止ボタンを押されてしまったかのように、しばらく固まってしまっていた。
あれ、と思う。フリーズした男性ばかりに注目してしまっていて、気付けないでいた。彼女のほうの体が、一回り大きくなっていたから驚いた。と思ったら、走っていた。ゆるやかな勾配を上ってくる。彼氏から逃げるようにして、こちらに向かって駆けてくる。つまり遠近法の関係で、僕には、迫りくる女性の身体が、画像を拡大したように巨大化して見えていたのだ。なんて考えていたら次は彼氏のほうまで、女性を追いかけるようにして、ノイズのような、わけの分からない言葉を喚き散らしながら、こちらに向かって爆走してくるではないか。なぜわざわざこちらに向かってくるのか、と思い、僕は少しだけ慌てている。
その意味不明な光景を鼻で笑いつつ、でもさすがに彼らと鉢合わせるのはまずいと感じ、僕は止めていた足をまた動かし始める。出来るかぎりの早歩きをする。二、三秒ほどして、しっかりと、二人の人間の足音が背後を素通りしてくれる。暴走した男性の声と、女性の「バカ、来るな!」という声が遠のいていく。ミュートを掛けたみたいに、身の周りが静まり返る。よし、と思う。
彼らはこの先どうなるのだろうか。ワンシーンを想像してみるだけでも、僕は愉快な気分になっていた。
結局、身投げ未遂に終わったあの若い男とも、あの林檎とも、あれっきりだった。
身投げ未遂男に関しては、僕に一言くらい礼はないのか、命の恩人なんだぞ、とわりかし本気で説教をしてやりたい気分だ。
だがたしかに、根本的にあの若い男を救ったのは、僕ではなく、あの林檎なのかもしれない。ついついそう納得しかけてしまう。でも、それにしたって、この僕がいなければあの白いアパートにまで、そもそも、辿り着けなかったのではないだろうか。地べたを駆けようにも、林檎には手も足も、無いのだから。でも本当に、そうなのだろうか。いや、林檎を片手に疾走する役はもしかすると、僕じゃなくても良かったのかもしれない、けど、それでも、僕だって一役買ってやったぞ、という思いではいる。だから、今ごろ林檎だけが若い男に感謝されているんだろうな、というようなことをひとたび想像してしまうと、自分が精一杯頑張ったぶん、なんだか歯痒くなってくる。羨ましくもなってくる。
ずるいな、とも思う。
なにより、あの林檎のいた、ついさっきまでのあの非日常的にも思えるような、いや林檎が喋っている時点でそれはもう非日常以外の何物でもないのだが、とにかくあの、ひと時も落ち着けないくらいに目まぐるしかった、狂騒曲のようなあの時間が、今は僕でなく、例の身投げ未遂男のそばで騒々しく流れている。
その、一端を想像するだけでも眩暈がしてきそうな、ごちゃごちゃとした場面が、ふと、僕の脳裏に浮き立ってくる。今に雑音までもが伴ってきそうなその光景は、導火線に、火を点けられてしまった爆弾や、よたよたと身体を揺すりながら歩いていたところ、何に躓いたわけでもなく転んでしまった赤ん坊の、その後の光景と同じく、その続きは疲れるからあまり想像したくない、けど、怖いもの見たさのようなもので、その先を想像することを理性では止めることができない。ふと僕の頭に浮かんできた、身投げ未遂男と罵詈雑言を得意とするあの林檎の、未来の光景は、そのようなものだった。その行く末を想像するのは面倒だが、興味をそそられるのだから仕方がない。
そんなことを思いつつ、あ、そういえば、とも僕は思う。
その、単なる僕の想像上ではあるのだが、口が悪い林檎と、身投げ未遂男が、今もこの広い地球の何処かでどたばたと駆け回っているといった光景が、どこか、なんとなくだが、広い河川敷を駆け抜けていたあの男女の姿と、ぴったりと重なり合うような気がしたのだ。
巻き込まれるのだけは、さすがにもう勘弁してほしい、けれども、そんなことを考えながらも、身投げ未遂男にはやはり羨ましい、ずるい、と僕は心のどこかで、嫉妬のようなものを抱いてしまっている。ただそれを自覚してしまうと、僕の胸は今にも、もどかしさで弾けてしまいそうになるのだ。
そうだそういえばと、僕の思考は切り替わっている。
僕は口を開けていた。あの若い男だけではなくて、林檎のほうにも同様に言いたいことがあったんだと。
「いなくなるなら」つい声に出してしまう。
それから少しの間が空く。少しだが長く感じた。吐息は白くなり、ただ上っていった。露出した肌が痛くなるくらいにこの辺りは寒かった。顔全体の冷たさや、赤みが格段に増したかのように思えた。洟を何度か啜った。が、大して音はしなかった。「せめて一言くらい、言ってくれないと」
囁くような僕の声が、遠くの景色を埋めつくす高いビルやマンションに、静かにぶつかった。声はひらひらと、傷付いた蝶のように力なく舞い、それから何の抵抗もなく硬い地面に落ちて、そっと息絶えた。
そんなことはありえない。が、そんな気がした。
もしかしたら自分の発した声があまりにも弱々しく、薄っぺらく感じられたから、そのように錯覚してしまったのかもしれない。
帰路を辿っているうちにふと気が付いた。なぜか僕は俯き気味だった。
小石が転がっているのが、見えた。蹴った。空振りに終わった。
それをごまかすように、素早く顔を上げている。それから僕は、後ろを振り向いている。そして遠くのほうにある、背の高い建造物の集まりを、じっと見据えている。たった十数分前の出来事に、僕は懐かしさを感じている。
つい先ほどまで、あの厖大な街並みの中に自分はいたのだ。しかしこうして距離を置いてみると、案外、なかなか実感が湧いてこないものだ。
例の白いアパートはだいぶ離れたここからでもまだ見えた。
ただしその屋上には、もうあの若い男はいない。
しかしその代わりに、誰かがいた。落下防止用の柵を越えた所、狭い足場に、男が立っていた。噓だろ、と思う。
後ろの柵を強く握りつつ、近くを飛んでいる鴉の品のない鳴き声に、哀愁を感じながら、身を投げるタイミングを見計らっている、僕が立っている。
いやいやと大袈裟に首を振りながら、僕は、左手に提げてあるスーパーの袋の口を、悴んだ右手で、慌ただしく押し広げている。何を考えているんだ自分は、と、焦っている。動作の一つ一つに慎重さが欠けている。半透明袋を、危うく手放しそうになる。だからとりあえず、例のアパートから視線を逸らそう思った。手元の皺だらけな袋に視線を移す。袋の底から、さっき買ったばかりの林檎が一つ、覗いて見えている。どうでもいいが、この林檎は青森県産『ふじ』という名称で、青果コーナーに陳列されていたものだった。
無意識のうちに、僕の右手は林檎に伸びている。そして不本意にも考えてしまうことがある。これから帰ってどうしようか。どうすればいい? これから僕は、どうなってしまうのだろうか?
僕の意思とは別に、頭の中では言葉が生まれる。そんなものがあるのかどうかは知らないが、もしやこれが心の声、というやつなのかもしれなかった。
帰ったところであの部屋には誰もいない。だったらまた孤独だ。寂しいだけだ。刃物が、台所にはある。いまの僕には危ないし、それにきっと寒いだろう。
いや寒いのは暖房でどうにでもなるだろうと、冷静さを失いつつある自分に、僕はそうしっかりと言い聞かせる。が、早速、視野は狭くなってきている。
また、だった。この感覚は悪い兆候だ。自分でも分かっている。自分で勝手に軽躁や、鬱に似た状態に陥ろうとしてしまっている。そういう、〈悪い癖〉だ。
この時だけは生きている意味とか、人が死ぬ悲しさとか、そういう大事なことがよく分からなくなってくる。偶にだが、なぜかこうなってしまうのだ。身投げ未遂に終わった、あの若い男とは違って、今の僕はもしかすると、死を躊躇ったりしないのかもしれない。実際、その時になってみないと分からないのだけど。
半透明袋と右手の甲とが触れ合って、音がする。ぱりぱりと鳴る。それから、林檎の黒っぽい赤色をした表面に、そっと右手を置いたら冷たかった。
あれでもう、お別れになってしまったのだろうか。バイバイもさよならも、何も無かったのに、本当にそうなのだろうか。あの林檎はもう戻ってこないのだろうか。
もしそうだとしたら、今まで大変な思いをして積み上げてきた、自分の生きている意味が、価値が、多分、今この瞬間から、足下から崩れ去っていってしまう。そんな気が急にしてくる。
あのゆったりとした天然屋さんな彼女が、颯爽といなくなってしまったときのように、僕はまた、独りぼっちになる。そんなことを考えると、だんだん不安になってくる。
そのとき、吸い込まれるかのようにして、僕の目線は再び河川敷に移っていた。その、雑草で地膚が隠れてしまっている土地の、もうすこし先のところで、僕には大きな河が見えている。そこでやっと、動いていた僕の視界は静止した。足を止めたのだ。
その、気が遠くなるほどに長い河は、左にも、右にも、どこまでも続いている。そしてその、その気になれば何だって吞み込んでしまえそうな河の流れは、左から右に向かって流れているのは、確認できるものの、しかし流れ始めも、流れ終りも、地平線と直に繫がっているように見えてしまうものだから、どのあたりから流れ始めていて、どのあたりで流れ終っているのかが、まったく分からないのだ。何だろう、それはまるでこれまでの自分の人生みたいだ。ふと、僕はそう思っていた。
どこから流れてきたのか、そして、どこに向かって流れていくのかが分からないまま、今の僕は歩いているのだから、似ていると思った。いいや、歩いているというより、無理矢理に歩かされているといった方が正しいのかもしれない。
僕は運命に、悪戯に弄ばれているだけなのかもしれなかった。
希望に背中を押された瞬間、僕は歩きはじめる。しかしふり返ってみても、僕の背中を押した張本人はどこにもいないのだ。なぜかあの、穏やかな口調だった、雪の塊を楽しそうに転がしていた彼女の姿が一瞬、思い出される。かといって、僕は歩くことを止められない。なぜなら、繰り返し同じようなことが続いてしまうからだ。
ここらでお終いにしよう。いざ止まろうとすると、駄目だ止まるな、と突如として現れる次の希望に、僕は背中を突き飛ばされてしまっている。またなぜか、一瞬だけだったが、今度は乱暴な口調の林檎ちゃんを思い出した。でも僕は知っている。結局、歩き続けた先には何もない。洞穴のような仄暗い虚無感が待っているだけなのだと、知ってしまっている。そもそも、何度も何度も背中を押してくれる希望は、いつだってふと姿を消してしまう。出会えた、と思ったときにはいつの間にか、知らず知らずのうちにその姿は消えている。
希望とは絶望の裏付けである。夢を見ることも期待することも、無意味である。そのような事を、僕は、事あるごとに繰り返し思い知らされてしまう。きっと同じような事が、これからも同じように繰り返されるだろう。それがまさに自分の行く末には何もないという証に、恐らくなる。すると、僕の想う希望とは既に、希望とは呼べないものだったのかもしれない。だとしたらその正体はいったい何なのだろうか。もう知っている。詮索したところで無駄なのだと知っている。それは元々、希望でも絶望でも何でもないものなのだから。
随分と抽象的だったが、そんなことを考えるだけでも案外、僕は傷付いていた。
そのときだった。いったいどこから流されていて、どこへ向かって流れているのかが分からないといった、そんな河の流れの中に、人型の何かが見えた。
底が深いのだろう、水中に、肩のあたりまでが浸かっている人がいた。だが、その人は今、河の奔流に呑まれてしまった。最近、雨が降ったのだろうか。引きこもりを続けていた僕はそれを知らないのだが、とにかく、河の水嵩は高く、流れは速かった。河底をしっかりと踏んでいた、両足を、強い流れに掬われた直後、ちゃぽんと、小さな水しぶきを上げて男の頭は消えてしまった。と思いきや、その、どこか見覚えのある男は、水面を叩き割るようにして、一心不乱に水を搔きだす。しかし残念なことに、努力むなしく、どうにかして呼吸をしようとする男の口も、肺も、すで冷たい水で満たされてしまっている。もう、助からないだろう。
まだ微かに浮いてくる泡が、すいすいと流されていく。心細くなる。ずっと遠くのほうへと、泡は、妥協を受け入れた人間のように真っ直ぐに、下っていく。その先はもしかすると、あの世に直結しているのかもしれない。痛い、と思った。
峭寒な冬の水の冷たさが、痛い。もう二度と、この体に浮力は働かないのだ。林檎ちゃんごめん、と思いながら、僕の体は沈んでいく。
「こりゃあ、始末書ものだ」その言葉の意味は分からなかったが、どこかで林檎ちゃんの声がした。がっかりしたような声だった気がする。元気出して、と声を出そうにも、僕はもう喋ることができない。努力しても口からほんの少し泡が出てくるだけだ。
いやいやと大袈裟に、僕は、再び首を横に振っている。
まただ、早く、危ない思考を紛らわせなければ。そう思い立って、本来は穏やかな河の流れから、瞬時に目を逸らした僕には、その河の向こうがわの土地で堂々と佇んでいる、総合病院が見えていた。僕はすぐに懐かしさを覚えている。
読んでもらえて、嬉しいです。




