I have an apple Ⅰ
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いなくなってしまった。突然のことだった。
もう、会えないのかもしれない。
僕には彼女がいた。三十代前半で、僕とは二つ違いの、年上だった。肩に付くか付かないかというくらいの短めな髪と、極端に長い睫毛が印象的な、物腰のやわらかい女性だった。くわえて、具合でも悪いのだろうかとつい心配になってしまうほどに、つねに穏やかな口調で話していたり、つねにゆったりとした言動を見せていたのが、まさに僕の知る彼女の姿だった。
だから急に、僕の前から颯爽といなくなってしまった彼女に、僕はかなり驚ろかされた。そんなことが出来たんだ、と感心すらしてしまった。正直のところ、今でも僕はひどく当惑したままで、落ち着くことができない。
第一、納得できなかった。せめて事前に相談してくれてもいいじゃないか、と思った。相談する暇もないくらいに、彼女には何か理由があったのかもしれないのだけど、とも思った。が、結局何も分からないままだ。
僕は二週間前から、何度も何度も彼女に電話をかけていた。ちゃんと事情を聞きたかったからだ。百回以上、覚えていないがしたかもしれない。だが残念なことに電話は一度も繫がらなかった。これほどまでに電話に裏切られたと感じたのは、生まれて初めてかもしれない。
しかし電話がだめだというのなら、実際に会いに行って話でも何でもすればいい。考えてはみたものの、それでもまず、僕は電話を介して彼女と話をしたかった。電話さえも繫がらないような相手の家を、いざ、唐突に訪ねることに、僕は乗り気になれなかったのだ。なぜなら、百回近く、何度も彼女に電話を掛けなおして、でも結局は駄目だったように、何度も彼女の家の呼び鈴を鳴らして、何時間も立ち尽くして、待ち続けて、それでも会えなかった場合、僕は相当へこんでしまうだろう。それが怖かったから僕は、臆病風にでも吹かれたように、彼女に会いに行くということをしなかった。それにだ、それどころかもし万が一、運よく玄関の戸が開かれたとしても顔を覗かせた彼女に「もう会いたくない」と追い払われるといった可能性だって、完全に無いとは言い切れない。なにより、どうしてだろう、それ以外の可能性は無いだろうな、とか、ああ絶対にその通りになるだろうな、とか、今の僕はそんな後ろ向きなことしか考えられないでいる。
そのようなことは僕にとって、想像するだけでかなり辛いものだった。だから、そういった最悪の事態を未然に防ぎたかったから、僕はまず彼女と、電話を通して連絡を取り合いたかった、というわけである。
ストレスのせいなのか、さっきから胃の辺りが痛い。ぐいぐいと、消化中の食べ物なんかを搾り取られているような痛みは続いた。といいつつ、今日はまだ何も食べていないのだが、とにかく締め付けられているような痛みが、続く。一応、胸に手をあてて治まるのを待ってみる。
とりあえず、電話越しで話が出来れば、もうそれだけでよかった。もう一度会えるということさえ確認できたら、それだけで僕は十分だ。大いに安堵できるだろう。それにもし「もう会いたくない」などと彼女に言われてしまったとしても、耐えられる。たぶん、電話越しだったら。たぶんだから分からないけど。
いま手を突いている板張りの床は、ひんやりと冷たい。床から離した手の平をそっと裏返してみる。うすく埃が付いている。その、ここのところずっと掃除をしていなかった床の上で、何か黒いものが見えていた。鼠やゴキブリの死骸、ではなく、暗い色をしたケータイが転がっていた。そのプラスチックの本体の角で反射している、真昼の日光が、その光の加減にはすこし力なさを感じたが、僕にはまばゆかった。目を細めつつも、反射的に向かって左側、弱い日光が入ってきている窓に目がいく。外では、もう少しで太陽を完全に覆い隠してしまうといった、厚い雲の鼠色を背景にして、細かい羽毛みたいなものがたくさん舞っていた。気づけば、雪がちらついている。だがこの程度ではしっかりと積もりそうにない。
二週間前、その日は珍しく雪がしっかりと積もっていた。
そうだそんなこともあったな、と僕は思い出している。
僕たち以外は誰もいない、閑静な児童公園での出来事だった。雪合戦をしようと誘ってきたくせに、掬った雪を丸く固めたというその時点で、すでに遠慮してしまい、その場に立ち尽くし、こちらを見つめたまま一向に雪玉を投げ返してこなかったあの時の彼女の姿が、脳裏によみがえってくる。
そしてその遠慮の理由というのが、これまた変だった。「私が、この雪玉を投げるとするじゃん? そしたら君は投げ返してくるじゃない? で、私は、負けるもんかーってむきになって、君の倍は投げ返すと思う。すると君も自棄になりはじめて、本気になってしまう」「それはないよ」「そうかもしれないけど、でね、君にたくさん雪玉をぶつけられた私は、なんでそこまでするの! って怒鳴っちゃうの。それで君は、雪合戦しようと誘ってきたのはオマエなんだから、自業自得だろ、って怒鳴り返してくるの」「それはない」「そうなのかもしれない。だけどね、それでもし、万が一、私たちが別れることになっちゃったら、嫌なの。お別れだけは嫌よ。私は」そんな理由を聞かされた僕は本人に悪いと思いつつも、思わず噴き出してしまっていた。別れる? 僕たちが? そんなことある筈がない、とあくまでその時の僕は「お別れ」という言葉に笑えていた。対して、彼女はというと眉を八の字にして、僕がどうして笑っているのかが分からないといった困ったような顔をしていた。
その時に限っては鋭い意見だったんだろう、けど、ともかく彼女は、いつもそのような感じで、突拍子もないことばかりを言うような人だったのだ。すこし不安になってしまうくらいに、どこか抜けていた彼女だった。彼女がそばにいることで、僕はこのままこの人と恋人同士でいて本当に大丈夫なのかな、と正直はらはらさせられていた。が、皮肉なことに、今ではそんな日々が愛おしく感じられてしかたがない。
例の『雪合戦事件』は、たかが二週間前の出来事なのにも拘わらず、いや、わざわざあの『雪合戦事件』の日に限定しなくてもいいのだが、普段からずっと変だった彼女がいた、約十日前までの日々が、今ではひどく懐かしく感じられるのだった。
あの『雪合戦事件』の後はたしか、僕たちは結局、公園でちょっとした雪だるまを作って遊んで帰った。
ちなみに雪の塊を転がす彼女は雪合戦のときとは打って変わって、かなり積極的だった。いつもいつも入院患者を思わせるような、よたよたとした動きを見せていた彼女が、こんなにも動き回るなんて珍しいじゃないかと、そのときの僕はただただ感心していた。
彼女と過ごす時間というのはそういうものだった。ふつうに楽しかった。あまりに安っぽいが、それ以上にふさわしい評価が存在するとも思えない。
そんな中別れ話や、それに発展しそうな予兆など一切なかった。
あるはずがない。そう思いたい。だから本当に僕たちは、別れたことになってしまったのだろうかと、いまだに僕は頭を悩ませている。彼女が僕の前からいなくなってはや十日以上が経とうとしている。それなのに、それはずっと疑問なままだった。
この二週間のあいだ、さぞ当然のことのように向こうからの連絡はない。言うまでもないが、なぜかこちらから連絡を取ることもできない。寂しい。それに、それではいつまで経っても、残された疑問は晴れてくれない。
バイバイとか、さよならとか、一言だけでもいいから、せめて何かお別れを告げていなくなって欲しかった。でないと、もしかするとまだ希望があるんじゃないか、あるのならば嬉しいな、などと、年甲斐もなく夢を見てしまう。
そうだそうなのだ。いつまでも曖昧なままで、はっきりとしてくれないからなのだ。僕は、諦めきれずに、この期に及んでまだ期待なんかをしている。
もしかするとまた彼女に会えるのかもしれない、という期待だ。
まずは電話からだ。
床に転がしていたケータイを、手に取る。まるで氷を触るようだった。端末のあまりの冷さに思わず変な声がでた。
ぎろりと睨むようにして、僕は再び、向かって左側を見ている。窓のある壁の、高い位置に取り付けてあるエアコンに目を向ける。「そうか、だからか」溜め息がでる。自分でもわざとらしさを感じるほどに、いやわざとなのだが、吐き出された息は重っ苦しいものだった。
彼女のことで動揺し過ぎていて、うまく頭が回っていなかったのだろう、今が冬まっただ中にもかかわらず、暖房を入れることすらも僕の念頭にはなかったらしい。冗談だろ、とその動揺ぶりには自分でも驚いてしまう。
寒気がしてきた。今さらだが、ぞっとしてきて、悪寒のようでもある。おまけに、よくは分からないが何か嫌な予感までしてきた。これから僕が望むものは、何一つとして叶わないのではないか。そんな怖い予感だ。
ずっと部屋は冷たかったはずなのだが、いずれにせよ僕は今になってようやく寒いと感じたのだった。
そんな寒気のせいなのか、はたまた緊張によるものなのか、分からないが、そういえば自分の両手はわなわなと震えている。少し様子を見てみたが止みそうにない。
そんなよく分からない震えを不気味に感じながら、僕はケータイを持っている手の親指を、ぎこちなく動かしている。
すでに指が覚えてしまっている番号を、ぴぽぱぽと押していく。
読んでもらえて、嬉しいです。