「彼」
頼ってきた。小学生の頃の辛い持久走や、どうしても合格したい大学の受験。延いては、彼女へのプロポーズでさえ、僕は惜しげもなく彼を頼った。
記憶には残っていないが、彼は僕が母とへその緒で繋がってる時分から、隣にいるのではないかと思う。少なくとも、小学校入学の時点では、彼は隣にいた。
幼い頃、母に訊いた。
「お母さんも、自分と同じ人が隣にいるの?」
始終怪訝な表情で、母は僕を心配した。
「どうしたの?風邪でもひいてるの?」「頭痛い?」「なにか見えるの?」「はやく寝た方がいいわよ」
僕にはそれがショックで、まして日常生活を送るなか、隣にもう一人の自分がいるなんて、他人からは微塵も感じないのだから、これは僕だけの特権なんだと、そう信じて生きてきたし、大人になっても疑う余地はない。僕のように、顔も背丈も体重も全く同じ人間が自分のまわりを徘徊しているような人間なんて、誰もいない。彼は、何故か僕の隣にいる。僕以外の誰も、それを確認できない。
僕と風貌が全く一緒――とはいえ、能力までが同じなのではない。彼はいつも僕の遥か先を行く。行うことに一切の失敗はない。スポーツだろうが勉学だろうが将又恋愛だろうが、完璧に仕事をこなし、傲らない。
僕が彼を頼りたいときはハイタッチをすればよい。僕の身体に彼が乗り込み、僕という存在は霊体として、さっきまでの彼のように己の肉体のまわりに居着く。彼がやるべき業務をこなすと、またハイタッチ、僕は自分の身体に帰化する。そんな循環で生活を送ってきた。これが何故、今までなんの問題もなく行うことができたのか、ただそれは彼が文句を垂れない、その一重に尽きる。
彼が霊体として、僕の周りを徘徊しているときなどは、全く、一言も言葉を発さない。身体に乗り込む時でさえ、タスク達成のため僕の口を借りて必要最低限しか話さない。僕がなにかを尋ねても、彼はウンともスンとも答えない。彼はあくまで模範解答であり、教師ではない。決して答えを教えてくれるわけではないのである。では、面倒事、厄介事、難解事、それらをほぼ全て彼に丸投げし、僕に何の罪悪感や未練もないのかと言えばそうではない。
人は完璧を目指したい。
人生は一度しかないのだから、態々人生の大勝負を自らに賭ける謂れはない。可能であれば、賭けは避けたい。安全な道があればそこを進む。重要な事は彼に任せるが、だが決して自ら何の経験を積まないはずもない。試験一つを例えるなら、日々の勉強は自分で行い、解答用紙を自分なりに埋め、ラスト十分で彼と交代し何が間違っていたのか、それを確認するという作業なのだ。怠慢だとか、言われる筋合いはない。完璧を目指す、それは生き物として本能であり、よもやそれを否定はできまい。
けれど、自分のアイデンティティを失いたくないなんて二律背反な思いも同時に発生してしまうから厄介だ。僕の身体を多分に彼に任せてしまえば、もうなんだか自分ではない気がするのだ。主導権は絶対的に僕にあるけれど、でも皆が想う僕が、もしかすれば彼の事を指しているのではないかと、そんな不安が押し寄せる。理想的な彼に、決して奪われてはいけない、そんな脆弱なプライドが、悪運を引き寄せた――
車の運転には自信があった。教習所の教官には絶賛され、嫁が俺に惚れた一因でもあるからだ。だから、この日も運転を彼に任せることはなかった。車の運転なんて僕のアイデンティティの中心と言えるだろう。だから意地でも譲りたくはなかった。でもそんな意地なんて棄てるべきだったのだ。眠たくて、疲れていたのだから。
週末の事だった。嫁と息子を連れ水族館で遊んだ帰り。疲れた二人は仲良く後部座席で寝息をたてていた。自宅まではおおよそ三十分の道程、俺は休憩を入れずに走らせていた。帰ってから休もうと。
突如、重なった二つのブレーキ音が鼓膜をつんざいた。それは鋭く轟く、魔女のような叫び声のようだった。
一つは目の前から迫る和柄とLEDで着飾った大型トラックからだった。トラックの運転手は気怠そうにタバコをくわえ僕の車からでも聴こえるまでに大音量の演歌を垂れ流していた。けれどその瞬間には、その男から余裕は一切合切なくなった。
そして、もうひとつのブレーキは言わずもがな僕の左足が目一杯に掻き鳴らしていた。脚の腱がはち切れんばかりの勢いで、どうにかトラックとの接触を避けようと死力を尽くしたのだが青信号の比較的長いこの十字路で双方ともにそれなりの速度を出していた。僕は右折する気だった。そこにトラックは真っ直ぐ突っ込んだ。もしかしたら僕はブレーキではなくアクセルを踏めばよかったのかもしれないし、そうすれば車体左側面への直撃は避けられたかもしれない。
いや、なにがどうであろうと三咲と健一は死んだのだから僕は間違った選択を行っており、いつも通り彼に頼っておけばよかったのだ。
この日以来僕の僕に対する自信を失った。
起きた瞬間から身を彼に託し、朝食を作るのも食べるのも彼であり仕事に向かうのも彼である。そして仕事そのものも彼が全てを行う。しかし、夜アパートのベランダで嫁が好んでいた銘柄のタバコを吸うときだけは、僕は僕でいる。でもどこか、自分に質量がないようである。
ふと、彼に頼んだことがある。
「僕は君と話がしたい。どうしたら僕という人間が円満に最後を迎えることができるのか、教えてほしいんだ」
タバコの煙がくらっと揺れた。
初めて彼は僕の口を借りて彼なりの意見を述べた。
「なにも難しいことはないです。僕をそのままにしてやってください。たったそれだけです」
彼が初めて、僕の口を借りて嫁のタバコを吸った。その行為には、現在までの想いが募り山積していたからこそ、意味があるのだと思っていたが、でも彼にもそれはできるのだ。哀悼のように僕がやってきたこれを、彼もできてしまうのだ。
それからすっと、全身の力が抜けた。
僕という人間を、彼は理想に導いてくれるのだ。なら、もういいじゃないか。なにも無理して僕がやる必要はない。完璧に近づきたいのであれば、ならそこに僕はいらないのだと、ようやく気付けた。
彼の生活を見送った。食事も睡眠も、仕事も遊びも、彼の一挙手一投足を、僕は見るに留まった。
もう、結論はついたのだ。
そこにある身体は、もう僕のではない気がした。いつしか、使いこなせないような気持ちになった。人間関係だって、以前のように形成できる自信がない。あのときのような環境のような気がしない。僕が身体を手放して二ヶ月、たったそれだけでも、「身体」を手放すということは、世界から遮断されることなのだ。
彼はそのことを知っていた。
「あなたがもし僕を頼らなければ、僕は消滅するはずでした。でもそうはならなかった。よもや、僕がこうして身体を主体的に動かしている」
仕事終りのことだった。彼は上司の飲みを断って、一人職場近くの自然公園へと立ち寄ると僕に焦点も合わせずそんな話を語り出すのだ。
「自分のその霊体を見てくださいよ」
僕は大人しくなんの疑いもなく半透明な身体に目を移した。
今までに体験したことはないことが起きている。僕は、僕のこの霊体の足先から少しずつ粒のようになって蒸発しているではないか。
「なにも恐がることはないんです。ただこの身体に一秒でも戻ればその減少は止まるんですから。けれど………」
けれどそれを聞いて僕はすぐさま戻ろうとはしなかった。拒んでしまっているのだ。もうその身体は僕には使いこなせる自信がない。
「頼るってことはそういうことです。もはや自分ではどうにもならなくなってる」
蒸発は膝にまで達している。身体に戻るには彼と手を打ち合わせないといけないのだから、両手がなくなってしまえばもう後戻りはできない。けれども僕は、ここまできても、その選択はしなかった。
「自分は得な能力持ってると思ったでしょ。嫌なことは全部僕に任せてきたんですから。でもそれは、人間の嫌な部分――逃げようとする心を浮き出すだけなんですよ。だからこれはいい能力なんかではない。現に、奥さんと子供を亡くしている」
彼は悪くない。けれど僕は妙にイライラしてしまって、彼に手をあげようと拳を作り顔面目掛けて放ったものの透かしてしまった。霊体である僕は彼に、僕の身体に触れることさえできない。見ると僕の指までも蒸発してきている。
「僕が全てを引き受けます」
彼は自信満々に言い切った。
「なにも心配はいりません」
僕は狼狽えるだけだった。
「だからもういいんです」
………
「この身体は僕のものなんです」
それは僕が目を閉じた瞬間だった。一枚一枚、僕の記憶が花弁のように散っていく。でもそれは、本当に僕のものだったろうか。そんな欺瞞まで消えぬまでに、僕の最期は曖昧だった。