第十六話:襲来その壱
「湯加減は如何でしたかのお嬢様方?」
風呂上がりの梓と愛を出迎えたのは、丈の合わない燕尾服をだらしなく纏った片眼鏡の少年だった。
梓と愛はその後も半刻程、恋煩いを拗らせあいながら白城家の湯を堪能していた。
二人とも白熱した恋バナにのぼせあがったのか、長湯でのぼせてしまったのか、頬が薄く紅潮している。髪もまだタオルで軽く拭いただけなのか全体的に濡れており、毛先では小さな水の滴りが重力に従って涙模様を浮かべている。
当然元々着用していた衣類等は脱衣所で一新され、現在梓は水色の小さな水玉を等間隔で無数に浮かべたパジャマ、愛はその色違いで桃色に着替えていた。
二人並ぶ姿はまるで仲の良い姉妹だ。
そんな姉貴分にあたる愛が先にレヴィに感想を話す。
「すっごく気持ちよかったです!」
「それは良かった。お嬢様は如何でしたかな?」
「……気持ちよかったわ」
風呂場の改造には問い詰めたいことが山ほどあったが、品質が遥かに向上しているので文句を出すなど出来るはずもなかった。レヴィのご機嫌伺いにはそう一言返すだけに終わる。
しかし梓にはそんな風呂場の些事よりも聞きたいことが一つあった。
レヴィの片手に掴まれて引きずられてきた男のことだ。
その男が身にまとっている聖騎士学校の甲冑は見事なまでに泥や埃に塗れており、よくみれば所どころ破損して防御性能が低下していた。
その首元、正確には襟にあたる部分を掴まれて頭はダランと垂れている。体の方向だけは梓らと同じ向きになっているので表情を確認することはできない。しかしその力なく崩れた体勢を見るに、抜け落ちた表情をしているのであろうと予想することができた。
そんな男の後ろ姿。二人にとっては見覚えあるシルエット。
愛に体力馬鹿と言われていた男は完全に力尽きていた。
流石の愛も驚きを隠せず、呆れたような視線を向けながら梓の代弁を始めた。
「ちなみに……その馬鹿どうしたんです?」
「ああ、この童かいの」
相変わらず少ししか顔を出さない瞳が下を向く。
「少し揉んでやったらこの様じゃ。最近の若いもんは体力がなくていかんの」
聖騎士学校一の体力を誇る男をつかまえて、レヴィは落胆の一言を発する。
騎士生として一の体力・一の技術・一の実力を持つ大吾を一蹴するレヴィ。
それには流石の愛たちも乾いた笑みを浮かべるしかなかった。
「しかし荒削りではあるがやはり才能はある。潜在能力だけで見ればまだまだ底が見えん。鍛錬を積めばかなりの腕前にはなるじゃろう」
そう称賛した。
「それではお嬢様方。湯冷めせぬうちにお部屋の方へ。お泊り会ということでしたので、お嬢様の部屋のベッドを大きいサイズに交換しておきましたゆえごゆっくりとお寛ぎください」
「「へ?」」
レヴィの一言に二人の小さな声が重なる。
愛が今日来ることは梓自身も知らなかった上に、屋敷には今レヴィ以外の使用人はいない。
一体だれが重たい寝床の交換など出来たのだろうかーーと思ったところで、やめた。
今しがた体力馬鹿を汗一つ流さずにあしらったと自称する少年を前に、瑣末な疑問は疲れるだけだと黙って納得することにした。
「あ~、ありがとうございます」
「いえいえ」
少年は愛の礼に優しく微笑みで返す。
どうやら礼節を弁えている客人にはそれ相応の対応をもって返してくれるようだった。
「あ、お嬢様」
「何……ですか?」
「ムハハハ。我はお嬢様に仕える執事。敬語など不要ですじゃ」
「そ、そう?」
「はい。我はこの童を風呂に投げ込んだあと、明日の料理の材料等の買い出しに一度屋敷を離れますゆえ暫く不在とさせていただきます。何か今の内にお申し付けられることなどございませんかの?」
「特にないわ。ありがとう」
「了解ですじゃ。それではお嬢様方、お休みなさいませ」
そう言って肩からずり落ちている燕尾服を気にもとめずに深々と頭を下げた後、レヴィはそのまま大吾を引きずりながら浴室へと歩き出す。
甲冑と床が擦り合わさり、引っ掻くような音を出しながらズルズルと大吾も移動する。
レヴィらと梓らが交差する時、案の定二人の目に映ったのは目を回すように気絶していた大吾の顔であった。
梓と愛はその光景に暫く目を離せず立ち尽くしていたが、ほんの少し後には大きく水飛沫が跳ねる音が扉越しに届いてきた。
どうやら本当に言葉通り投げ込んだらしい。「ぶあっ!? な、なんだ!?」と大吾の声が遅れて響いてきた。
「……いこっか」
「……そうね」
それから二人は梓の部屋へと移動を開始した。
◇
梓の部屋は決して広くない。むしろ狭い方だともいえる。勿論それは貴族と比べてのことだが。
厳しく祖母に育てられたのは環境・生活面でも。国民の生活を知ろうともしない者に、国民の気持ちなど理解できるはずもなし。祖母の教えに従い梓自身もそうだと納得して、物心つく頃には使用人と全く同じ部屋が与えられた。
繰り返すようだが決して広くない使用人と同じ部屋。今朝方もその質素なベッドに身体を預けてクラウンに醜態を晒したことは記憶に新しい。
しかしそれでも梓は断固として思う。
(ーーこんな部屋だった覚えはない)
梓は目を擦って、もう一度自分の部屋を見渡した。当然それで何か変わるとは思ってもいないが、それでも考える時間欲しさに手を動かした。
質素なベットはランクアップ。とび込めばその弾力で体が跳ねるのではないかと思う程、一見しただけでそう妄想するようなふんわりと包み込む素材に。その大きさも一人で寝るものではなく、大人二人が寝ても余るほどだ。
当然枕も別物。純白の生地に包まれたそれは、ベッド同様頭一つ預けるには勿体ないほど大きく、彼女らを誘うように置かれている。
横を見ると飛びつきたい気持ちを抑えている親友の顔。自由奔放な彼女が遠慮しているのは、勝手に振る舞って梓に嫌われたくないからか、部屋中の物が高価に映り無意識の内に身体が抵抗しているからか。何にせよ梓が動き出すのを待っていた。
それでも梓は動くことなく、脳内を全力で駆け回った。
魅惑に映るベッドに関しては梓も理解している。レヴィが先ほど交換したと言っていたから。
部屋に飾られた絵画等に関しても想像していた。何かに興味を持って物を集めていたこともないので必要最低限の物しか置いてなかったが、今では無駄に本や花瓶、絵画が飾られている。晩餐の間でもしや他の場所でもと思ってはいたが、どうやら自分の部屋にまで手が及んでいたようだ。
(これに関しては後日片付けよう)
自分にとってまるで必要のない物に目をやりながらそう決意する。
ここまでは梓の予想の範囲内であった。
ただどうしても理解が追い付かないことが一つ。それを梓は心に浮かべる。
(……私の部屋ってこんなに広かったっけ?)
記憶を手さぐりに辿っていく。
今の姿とは全く似ても似つかないが、質素で硬いベッドに必要以上に物の置かれていない小さな部屋。そして中央に置かれたベッドが部屋の面積の三分の一以上を占めていて、残りは歩くスペースとして空けていたはずだった。
しかしどうだろうか。交換されたベッドは交換されその占有率も大きくなったはずだが、空白の面積もそれに比例して……いやそれ以上に広くなっている。
そう、明らかに部屋の大きさが違っていた。
「梓?」
愛の声かけに気にすることもなく、梓は咄嗟に部屋を出た。そして廊下に並ぶ扉の数を慎重に数え始めた。
梓の部屋は突き当り角部屋。その為彼女が自分の部屋に行くまでに存在する部屋の数など気にすることはなかったが、部屋の数自体は覚えている。
記憶の中の数と照らし合わせるように順に数えていく。
一、二、三……。
そして結果はーー合わなかった。
部屋の数は二つほど減っている。よく見ると途中まで等間隔に配置された扉は、梓の部屋手前で明らかな広がりを見せていた。
(……嘘でしょ?)
そんな梓の疑問に答えてくれる人はいない。少女は諦めて静かに受け入れることにした。
「どうしたの?」
愛は梓に並んでひょこっと扉の外に顔を出す。
「誰もいないけど?」
「別に。なんでもないわ」
そう言ってそっと扉を閉じた。
「ふ~ん。ね、ね。それよりも梓!」
「何?」
「愛さん、この高まる衝動が抑えきれないんだけど……」
そう言って愛がチラッ、チラッと目をやるのは品質が向上された新ベッド。
梓は「ああ」と何を言いたいのか察して許可を出した。
「別に構わないわよ」
「ひゃっほー!」
許可が下りると同時に愛はベッド目掛けてダイブした。我慢はもはや不要。聖騎士学校で鍛えられた跳躍力が発揮された瞬間であった。
一回の跳躍で見事にベッドの中心に落下する。ボフッと音を鳴らし、想像した通りに少女の体は宙を跳ねる。
実に彼女らしい無邪気な笑顔を浮かべながら、今度は自分で何度も何度もその弾力を堪能。
「アハハハハハ! 気持ちいいー!」
そんな笑い声につられて、次第に梓も羨ましいと感じてきたようだ。
部屋に生じた現象など忘れ愛に歩み寄る。
「ちょっと愛。私も……」
「ん~? 何だって~?」
「わ、私も飛び跳ねたいからそこどきなさいよ!」
「アハハ! 梓ってば可愛いなぁホント」
「うるさい。そんな事言うなら追い出すわよ」
「もー。ちょっとした冗談じゃない。ほら、乗って乗って」
「あ、ホントに柔らかい」
「じゃあいくわよー」
ボフン。ボフン。
ぼふん、ぼふん、ボフン。
ボフん。
愛が跳ね、その反動で梓も跳ぶ。
交互に二人が束の間の浮遊を楽しんだ。
ーー数分後。
汗を掻く前に切り上げた二人は、ベッドの上で再び談笑していた。
「ねえ、梓」
「何かしら?」
「梓ってさ、あのお父様のことどう思ってる?」
愛からすれば、大切な親友をずっと放置していた男に対して一つ二つでは収まらない文句の言葉を叩きつけるはずだったが、下男の様な仕事をこなす優しそうな男の姿と、そんな父親の姿を見て口もとを綻ばせる親友の表情に、自分のこの燻る感情は我が侭だと考えて、心に仕舞いこむことにした。
ただそれはあくまで愛の憶測にすぎない。なので実際に梓自身がどう思っているのか聞いておきたかった。勝手に心配して勝手に安心したいという自分勝手な考えであることは理解していたが、それに気づいた時には既に口に出してしまっていた。
不意に友人から尋ねられた言葉に、梓は一瞬言葉に詰まってしまう。
「えっと、どう思ってる……って?」
梓からすれば、そんな親友の質問の意図を汲み取ることなどできず、鸚鵡返しに聞き返す。
「ほら。今まで梓のお父様は長い間梓を一人にしてたじゃん。それについて何か思うことないのかなーって思って」
「ああ、そういうことね」
(父親について……か)
そこで梓は本当の父親について久しぶりに考えた。
顔も知らない、誰も知らない父親。
確かに梓は幼少期に周囲の人間との違いに気づいて、自分の父親について祖母に尋ねたことがある。しかし祖母自身もその存在を認知していないため、決まって返答は『分からない』だった。
祖母だけに限らず、使用人、顔見知り全員に聞きまわっても答えは同じだった。
聖騎士学校に入学した頃には、自分に父親が存在しないことに対して当たり前と感じるようになり、それ以降はとくに気にならなくなった。
無論同世代の子どもたちが両親と遊んでいる姿を羨望することはあったが、それだけだ。家族愛には飢えるが、無い物強請りするほど精神は子どもではなくなっていた。
正直今もその心に変わりはない。
会いたくないといえば嘘になるが、梓の心にあるのは好奇心程度。今更不確かな存在に強い思い入れなどあるはずもない。
故に、本当の父親が帰還したという仮定で愛の質問に返答するならば、梓は「別に」と淡泊な一言で終わらすだろう。
しかし今聞かれているのは梓が召喚した父親のこと。
梓は思考をシフトし、クラウンについて考える。
まだ出会って一日。にもかかわらず、彼の行動や仕草、言葉、表情。その一つ一つが何度も梓の心を揺さぶった。クラウンに出会ったたけで、こんなにも自分の一日が変わったのだということを改めて実感する。
今の梓にとって想像上でしか存在しない父親と父親を天秤にかけたとき、どちらに傾くか予想するのは容易かった。
そんなことを考えながら、梓は悪魔ということ抜きにして一人の父親について答えを出した。
「私を一人ぼっちにしていたことには正直今更だし、怒るとかそんなのはないわ。ただ父上が帰ってこられて思ったのは……傍にいてくれるだけで何だかすごく安心できるなってこと。やっぱり父上がいるだけでホッとする」
それが梓の率直な感想。柔和な顔でそう愛に話した。
「……そっか。そうだよね」
愛はそんな親友の言葉がに安堵し、ゆっくりと同調する。
「でもどうしてそんなこと聞いたの?」
「アハハ。そりゃ愛さんは梓のこと何でも知りたいなーって思ってるから話題の一つとしてね」
実は貴女の父君に文句を言うために来ました。なんて自分の父親を慕う梓に言えるわけもなく、そう流した。
「ふ~ん。そう。じゃあ愛の父君や母君ってどんな人なの?」
「え? 愛さんの?」
「そ。私ばっかずるいじゃない。愛の話も聞きたいわ」
そう素直に向けられる梓の視線に、愛は少し照れた。
もっと小さい頃から親しい関係であれば純粋無垢に両親の自慢をしていたかもしれないが、この年になって同年齢の同性に両親の話をするのは少し照れくさいものを感じていた。
男に対してなら少し戯けるように話もできたものの、真面目に答えてくれた梓に対してどう返そうかと少し悩ます。
「ね、愛の家族ってどんな人?」
しっぽりとした雰囲気の中、おどけることもなく穏やかに開く双眸を見つめる。
(あーもう! 変に考えてる方が恥ずかしい!)
くだらないことで頭を悩ましていたが、一気にそんな羞恥心を払った。
「えっとーー」
ーーそう愛が覚悟を決めて喋りだそうとした瞬間だった。
外から大きな金属音が鳴り響き、部屋全体が微弱な揺れに襲われた。
「え!?」
「何の音!?」
刹那、二人の気は外に逸れる。突然響いてきた音の正体を確かめるべく、二人は廊下へと飛び出していた。
そして廊下の窓から外を見渡す。
「……何、あれ?」
そう漏らしたのは愛であった。
彼女の目に映った信じ難いもの。それはまず白城家に構えられた外門。それは夕刻見た場所から消え去り、あろうことか玄関扉を潜りーー正確にはくの字に折れ曲がった鉄柵が玄関扉を打ち破っていたのだ。
中央の噴水が破壊されていないところを見ると、信じたくはないがその頭上を飛び越えて吹き飛んだということだろう。
普通ならあり得ないと一蹴するところだが、そう思わせてくれない存在を前に考えを改めることが出来なかった。
「……悪魔?」
隣からその存在の通称が小さく紡がれる。
愛は動揺からか、梓から発せられたそんな言葉を聞き逃してしまっていた。
二階から見下ろしても分かるその巨体。二メートル以上はあるだろう。
二本の角を持った牛の頭部。全身に逞しく這う筋肉。濃い体毛が覆った脚。両手に握る巨大な両刃の斧。
二本足で体を支えて人間のように道具を持つ以外は、人間と酷似する箇所を見出すことなどできない、そんな存在。
そんな化け物がゆっくりと二人のいる方へ顔を向ける。
月光の下、薄暗い闇夜の中に小さく灯された赤い眼球。その双眸と梓らの視線が衝突した。




