第十五話:召喚されし悪魔その壱
クラウンが案内されたのは先ほどいた広間の一つ上の階。
地上四階であるここは下の舞踏会で利用されるような広々とした空間はない。
階段を上ったときに最初に目に入るのは真っすぐに伸びた廊下。幅は階段と同じ程度で、壁沿いにいくつも扉が作られている。
下の階と変わらず明るく豪華な灯が、清掃の行き届いた床を更に磨き上げる。
この階は十以上に分けられた応接間。
来客者を接待する為に設けられた場所である。
しかし毎日に何十人も来客があるわけでもないので、現在では空き部屋として自由に利用している者が多い。
クラウンと権太はその一室を利用し、机を挟んで向かい合うように座った。
「どうかしましたかな?」
部屋を見回すクラウンに声をかける。
「いえ、こんな場所が自由に使えると、誤って壊してしまったり盗みとかが心配だなって」
そう返したクラウンに権太は「ああ」と納得する。
この応接間を利用するのは上流階層の貴族が多い。その為部屋に飾られた壺や絵画などは高価な物ばかり。
そんな場所が自由に開放されていては盗み放題ではないかと懸念する者がいるのも当然である。
それに対して権太はゆっくりと解説し始めた。
「ご安心を。ここにある物は全て贋作。つまり無価値な偽物ですよ」
「そうなの?」
「ええ。なので盗人が入ろうと痛くも痒くもないのです。それに外には警備の者もおるので、盗みを働く愚か者などおりませんよ」
「成程ね」
それを聞いて興味が尽きたのか、クラウンはつまらなさそうに権太に向き直る。
「それでは早速引継ぎをと思うのですがーー」
「ちょっと待ってね」
話し始めようとする権太を、手の平を突き出して静止させる。
一体何なのかと権太は沈黙でクラウンの顔を見つめる。
一瞬ほどの沈黙の後、クラウンは突拍子もなく疑問を口にした。
「ここにいるのってボクたちだけなのかな?」
唐突な質問に権太は眉を顰める。
部屋の中には人一人が隠れられるような場所などない。窓を覆い隠すようにできたカーテンも両脇に紐で止められており、床に接してもいないのでその後ろに人が隠れていたということもないだろう。
机の下も同様にテーブルクロスが机の脚全てを覆っているわけでもないので、天板の裏にひっついてもいない限り誰かがいればすぐに分かる。
それ以外にもタンスやクローゼットがあるわけでもないので、物陰に潜む事も不可能だ。
クラウンの疑問に、当然権太は訝しげに聞き返した。
「……どういう意味ですかな?」
「ん~。そうだね。ここに入った時から……というよりもキミと出会う前からずっと突き刺すような視線を感じていてね」
クラウンはそう言うと、権太の背後ーー何もない虚空を見つめる。
「儂の後ろに何か?」
権太もクラウンの視線につられて首を回す。
しかし何も確認出来ない。あるのはこの部屋の出入り口である扉だけ。
そんな様子にクラウンは短いため息をつく。そしてーー。
「いい加減猿芝居は止そう。権太くん」
弛緩していた空気が一気に凝固する。
幻覚だろうか。
密室である場所から、突如凍てつく風がクラウンから発せられる。
部屋中に奔流する冷気は一気に室温を奪い、朔風が叩きつけられた権太は頬に流れる冷や汗を止めることができなかった。
額に出た冷や汗が鼻先にまで垂れた頃、唾を呑み込みながら権太は再度口を開く。
「……と言いますと?」
「これでもボクは白城の名を預かる男だよ。ボクに送っていた熱烈な視線はキミのモノだよね?」
「え~。それは広間の時ですかな? 確かに儂は喋りかけるタイミングを見計らっておりましたが、そんなもの儂だけではありますまい」
その通り。権太が言い放った言い分は正しい。
あの場所において注目の的であるクラウンに視線を向けるものなどいくらでもいる。
視線を特定することなど不可能だ。というよりもあの場にいた全員が新たな白城家当主の姿を目視したのだから、クラウンの言う視線というのは可笑しなものだ。
なのでクラウンは言い直す。
「言葉足らずだったかな? ボクが感じたものは正しくは憎悪の目。殺気みたいなものかな。そしてさっきも言った通りそれはキミのモノーーいや、正しくはキミとキミが従えるモノだ」
今度は疑問符もつけずにクラウンは視線の犯人を断定した。
そして再び視線は何もなかった権太の背後へ。
一見すると意味の分からない戯言。しかし権太がそれを否定することはなかった。
ただ沈黙が続くと思われたほんの一瞬が過ぎる。そして権太は静かに笑った。
「フッ。何故分かった?」
今まで見せてきた穏やかな目元は鋭く尖ったものへと変わり、クラウンを見据える。
もはや誤魔化すこともなく、剥き出しの敵意が向けられていた。
「言ったでしょ。ボクは白城家当主だよ? それにそういうキミの後ろにいるような人外のモノには何度も会ったことがあってね」
「ふん。白城の名は伊達ではないということか」
そう言うと権太は大仰に右腕を水平方向に伸ばす。
「もはや隠す必要なし。括目するがいい。儂と契約せし上級悪魔の姿を!」
室内に権太の言葉が反響する。
直後、空気が一転した。
床、壁、天井、机、壺、絵画、二人を除いたその部屋にある物質全てが文字通り変色する。いや、正確には靄のかかったような毒々しい滅紫で覆われたような感じだ。
まるでこの部屋だけが世界に隔離されたような。
窓の外にも街灯は見えない。ただただ塗りつぶされた虚空が映し出されるだけだった。
部屋中が染色されると、権太の右、何も無かった空間にピシッと音を立てて発生する罅。
徐々にその亀裂は大きくなり、短い破砕音と共にぽっかりと空間に穴が開いた。
するとその奈落の如く暗闇の穴から断面の端を掴むように手が姿を見せる。人間のものではない異形の手だ。指が三本。一本一本が成人の二倍はあるだろう。幅も長さも人間のものとはまるで違う。肌も葡萄酒をぶちまけたような色で染め上げられていた。
おまけに鋭く伸びた太い爪。華奢な人間ならばその一突きでお陀仏だろう。
穴の中からゆっくりとこの室内に降り立ったその全貌は、クラウンの予想通りに人外の生物であった。
直立する姿だけであれば人に近いともいえるだろう。
しかしその身体を構成するパーツ一つ一つが人間に関連付けることなどできないものばかり。
その頭部は例えるならば闘牛。真っ赤に染められた眼球に細長く見開かれた黒い瞳。忌々しそうに、憎々しそうに、その鋭い眼光は頭部に生えた太い角と共にクラウンへと突きつけられている。怒りを発散させるように口と鼻から同時に排出される息で、ぶら下がった黄金の鼻環がゆらゆらと揺れていた。
その腕は人間の胴回り程はあり、見た瞬間に怪力という言葉が浮かんでくる。片方の腕には両刃の斧が握られており、腕力に物を言わせずとも簡単に大木をも両断しそうな輝きを放っている。
その肉体はまるで鋼。余すとこなく隆起した筋肉で形成されており、剣で貫くことさえ容易ではないように思えた。そんな腕と肉体のつなぎ目を保護するように装着している肩鎧は不要ではないかとさえ思える。
その下半身は正に獣のそれで、濃い体毛が脚全体を覆い尽くしていた。蹄は見るからに硬質で、その足先で蹴られたものなら人間の内臓など軽く破裂してしまいそうだ。
そしてその全長は部屋の天井に到達するほど高く、巨大。
まさに言葉通りの化け物であった。
「ーー迷宮を彷徨う牛悪魔か」
クラウンはポツリとその化け物の名称を紡ぎだした。
「ほほう。よく知っているではないか。では分かるであろう。この悪魔の恐ろしさを!」
クラウンが記憶の中で検索をかけた悪魔の名ーー迷宮を彷徨う牛悪魔。
見かけ通りの粗暴な性格で人肉食嗜好。
過去にも人間世界に出現したことがあり、その時には小さな町を半壊するまでに至ったとも伝承されている。
迷宮を彷徨う牛悪魔はクラウンを睨みつけ、喉の奥で吐息と共に唸りながら歯を鳴らす。
権太という召喚者がいなければ、すぐにでも暴れだしそうだ。
「確かに。今にも襲い掛かってきそうで怖いね」
「まあ安心するがよい。こやつは儂の命令なしでは襲い掛かりはしない」
そう言うが迸る殺気が収まることなどない。
命令違反するのではないかと不安になるほどだ。
しかし言葉とは裏腹に落ち着いた様子を崩さないクラウン。いつも通りの口調で見上げた視線を戻す。
「悪魔召喚の儀か……。キミは何を代償にどんな取引をしたんだい?」
「ふん。死にゆく貴様が知る必要もないが、冥途の土産だ。教えておいてやろう」
そう言いながら立ち上がった権太は迷宮を彷徨う牛悪魔の少し後方へと移動する。
並び立つと迷宮を彷徨う牛悪魔の巨躯がどれほど際立っているかが分かる。
そんな化け物に恐れることなく、その肉体に手を置きながら権太は続けた。
「儂がこやつと契約した内容は至ってシンプル。儂の命令全てに従うこと。代償として儂が死んだ時には魂全てを差し出すことだ。こやつの力で儂は貴様を殺し、白城家に次ぐ新たな名家としてこの国を発展させるのだ!」
「……そっか」
それを聞いたクラウンは、静かに落胆した。
魂ーーそれは生物の輪廻転生における必要不可欠なモノ。
人間に限らず、生物全てが持つ魂は生存する過程において培った経験全てを少しずつ記憶するとされている。
その為生涯において培った全ては無駄になることなく、生まれ変わった時に、所謂才能として開花される。
転生する際に、どれだけの経験が継承されるかはその魂次第。たまにいる天才という部類の人間はその継承率が高かった魂だと言えるだろう。
魂だけが人間を決める全てではないが、それが無ければ人間……いや生物とはなり得ない。
その所有権を放棄するということは、この世界から退場するも同意。
人間が持つ当たり前で崇高な権利を、下らない理由で簡単に捨て去ろうとする権太にクラウンは哀れみを感じていた。
(こういう人間はいつの時代も存在するんだね)
「さて。お喋りはここまでとしよう」
そう言って権太は指を鳴らす。
刹那、斧を両手に構えた迷宮を彷徨う牛悪魔は、クラウン目掛け勢い良く腕を振り下ろした。
ヴオンと風を切る音。
「おっと!」
クラウンは寸前でその場を飛びのいた。空を切る音はガシャンという音へと変貌する。さっきまで座っていた場所は机ごと叩き割れていた。
「危ない危ない」
床にまで突き刺さった斧をゆっくりと引き上げる迷宮を彷徨う牛悪魔を捉えながら、クラウンはいつものように笑った。
それを見た権太は忌々しそうに眉を顰めた。
「ふん。隊長殿との決闘も見ていたが攻撃を躱す能力は高いようだな」
「まあね」
「しかし貴様が迷宮を彷徨う牛悪魔を屠ることは不可能だ」
迷宮を彷徨う牛悪魔の追撃を手で制し、権太は不敵に笑みを浮かべた。
眼前の悪魔が強襲しかけてこないことを確認したクラウンも同様に笑みで返す。
「へえ? それはボクが武器を持っていないからかい?」
「それもある。しかし何より貴様には見誤っていたことが一つある」
「何だい?」
「それはーー」
そう権太が言い終える寸前、クラウンの視線が狂う。
姿勢を崩したつもりはない。しかし明らかに目線が降下していくのを感じた。
真っすぐ権太の表情を見据えていたはずの景色は、首、胴体、足、靴へと流れ落ちる。時間が緩やかに流れていくのを感じた。
そして動かなくなった視界の中で、クラウンの耳にそっと権太の言葉の続きが流れ込んだ。
「儂が契約した悪魔は一体だけではないということだ」
そう言い終わる頃にはクラウンの首は胴体を離れ床へと転がり落ちていた。虹彩は完全に機能を停止し、瞳孔が開かれている。