第十三話:食後その弐
脱衣所まで案内された愛は心の奥底から素直に声をあげた。
「何から何まで桁違いね白城の屋敷って……。愛さん脱帽」
この脱衣所は一度に何人の利用を考えての構造なのだろうか。
両サイドの壁際に設置された成人男性の身の丈ほどの棚には、個人の着替えを置くための脱衣カゴが一つずつ置かれている。そのカゴの二つには既に梓と愛のために用意されたタオルが丁寧に折りたたまれていた。
また中央は広くスペースが空いており、聖騎士学校付近にもある銭湯を思い出させた。
レヴィに手渡されたパイル生地のパジャマが、そのふんわりとした肌触りで愛に平静を与えてくれる。
「昨日までこんな綺麗じゃなかったはずなんだけど……」
「え。昨日まではどんなだったの?」
「私が使う空間だけ綺麗にしてて、それ以外は使い終わったタオルが床に積みっぱなしにしてたんだけど……」
「梓ってば実は家事できない子?」
「……たまに料理もするし、そろそろ片づけなきゃって思ったときは掃除もするわよ」
「否定はしないんだね」
核心を突いてくる親友の言葉に梓は項垂れるしかなかった。
愛の言う通りであったからだ。
梓はやればできる子である。祖母の教えは何も武に通ずるものだけではない。女としての幸せを掴み取る為にも料理・洗濯・掃除等の家事は教養の一環として、メイド達に混じり練習したことがある。
しかし全体の割合としてそれに費やした時間は一割にも満たない。本当に幼い頃の記憶である。
今ではその記憶を辿りながら体を動かしてはいるが、数年も経てばその方法や使用する道具も発展している。
例えば数年前までは利用した油をふき取るために小麦後に吸収させて更にお湯で流すといった方法が一般的であったが、現在では洗剤という物が発明され油をふき取ることが容易となっている。
しかし近年まで家事に触れていなかった梓にとってそんなものがあること自体夢にも思わなかった。
いわば梓の行う家事全般は時代に取り残された古いやり方で実に効率の悪いものとなっていたのだ。
こうして手間暇かかる家事は徐々に梓の中では面倒くさいものへと成り果て、好んでやろうとはしなかった。
ただ溜まった洗濯物や洗い物、ごみ等はいつかは向かい合わなければならない。そのいつかが梓にとって非常に長いスパンではあるのだが、その時が来てようやく少女は動き出す。
なので全く出来ないということではないのだが、世間一般の家事する女性は当たり前のように毎日こなしている。
梓の様に経験浅薄で、気が向いた時にしかやらないようであれば、出来るという言葉は他の世の女性に対して失礼があるのではないだろうか。
そう思うとやはりこれ以上の否定など出来うるはずもなかった。
「でもそんなんじゃあの馬鹿も梓に愛想つかしちゃうかもしれないよ~?」
「で、でも、今は父上や執事もいてくれるし」
「それに甘えてばっかじゃ、いざ二人きりになったときに女としての魅力を発揮できないじゃん」
「でも鳳くんはそれだけで人を軽蔑なんかしないし……」
「おんや~? 愛さんは『あの馬鹿』って言っただけで、別にアイツのことを指したわけじゃないんだけど~?」
「ーー!!」
ここに来て自分の失態に悪態をついてしまう。
梓は不意に暴露してしまった自分の想い人をハッキリと名前に出してしまったことに、体中の血液が沸騰するような感覚に溺れる。
「アハハっ。ごめんごめん。やっぱ梓の反応が面白くてついからかっちゃう」
「全く。本当恥ずかしいんだから」
梓は拗ねてそっぽを向いてしまう。
しかし愛にとってはその仕草もまたからかい甲斐あるなと悪戯心を再燃してしまう。
「でも友達の恋路はちゃんと知って応援してあげたいんだ。だから今度は湯に浸かりながらゆっくりと愛さんと語り明かそうではないか!」
愛はそう言いながら鷹揚に手を広げながら梓が飛び込んできてくれるのを待つ。
肩越しにその間抜けな姿に呆れながら振り返ると、恥が沸騰したばかりの少女は諦めたように答えた。
「分かったわよ。じゃあいい加減早く脱いでお風呂に入りましょ」
「おっけーおっけー。いやいや親友と恋バナするの初めてだからウキウキするな~」
カチャカチャと甲冑の金具を外しながら愛は笑みを浮かべる。
「そういえば愛にもその……好きな人っているの?」
「いるよー。いくら愛さんが頼れる姉貴肌とはいっても中身はしっかり女の子だからね」
「それって聖騎士学校の人?」
「いんや? この国の人ですらないから梓は知らない人だけど……って梓、すごく胸の形良いね~。大きさはそうでもないけど、これをあの馬鹿にやるには勿体ないわね……」
「ちょ! じろじろと見ないでよ。って大きさは余計よ」
「まあ愛さんも人のこと言えないけど梓よりはあるからね」
「むー」
「アハハッ。冗談。そんなむくれないでよ」
「というかこの国出身じゃない人とどうやって巡り合ったの?」
「ほんと小さいころにちょっとね。幼過ぎだしもしかしたら向こうは覚えてないかもだけど……」
そう言うと胸に手を当てながら思い出に耽る。
その手と握り垂れた白のタオルで小さく膨らんだ乳房や秘部を隠しながら。
露わとなった小さな身体には訓練でついたのであろう小さな傷がいくつも残っていた。まるで腕白な彼女自身を表現しているようでそれがまた魅力的だ。
更にその顔の上では頬を紅潮させて、その視線は遥か昔へと旅立っている。恋慕に身を焦がす女性とはより一層端麗となると聞くがまさにその通りであった。
梓もそんな見たことのない乙女に少し目を奪われながら、今度は仕返しと言わんばかりに悪戯な顔を浮かべた。
「へ~? 愛にもそんな顔させるような想ってる人がいたんだ~」
「え!? 愛さんどんな顔してた!?」
愛は慌てて自分の顔を取り繕う。
しかし事は遅かった。
梓は次々と畳みかける。
「なんか恋する乙女って感じ」
「あー! 愛さん失態! 忘れて梓!」
「だめよ。親友として恋バナしたいんだったら対等な立場で話し合うべきだわ。愛だけ秘め事にしておくなんて狡い真似はさせない」
「うっ……。分かったよ~」
今朝方とは立場が逆転していた。
そして裸となった二人は風呂場の扉を開け、高揚する体温を更に高めながら湯気の中へと潜っていく。
二人の進む方向とは逆に、開放された蒸気は一気に脱衣所へと侵入し二人の視界は晴れ渡る。
「わお。流石白城家ね。愛さんびっくり」
梓につつかれていたにも関わらず、愛のテンションの切り替えは早かった。広がる風呂場の光景に素直に感嘆の声をあげる。
ただ今まで以上のリアクションが得られなかったのは、彼女がこの屋敷に来て驚く回数が多かったせいか、ある程度自分を驚かせてくれるであろうことを予想していたのだろう。
反面、本来驚くべき立場でないこの家の子が、隣で小さな口をだらしなく開けて呆然としていた。
白城の入口で見た円形の噴水。小さな天使の石造や水瓶も含めて、全く瓜二つのものが中心に大きく構えている。
唯一違うのが、その水瓶から流れ出る水が飛沫とともに湯気を発生させていることだけだ。
それを囲むようにできた円形の囲いが三つ。高さは床と同じ位置にあり、その間にはそれぞれ色違いの湯が張られている。
噴水に近い方から赤、黄、青と半透明となっていて、のぞき込めばしっかり床底も確認できる。座って首が出る程度なので、深さは一般の浴槽と変わりはないようだ。
湯は囲いよりもやや低い位置にあるので、何十人も同時に入ることがなければ色が混ざる心配はないだろう。
入場して左右に首を振れば入口壁際には彼女らの腰ほどの高さに石造りの容器が端まで長く設置されており、その中に満々と水が溜まっている。
木製の湯桶がその淵の上で均等に間を空け下向きに並んでおり、壁を見るとそれぞれ『温水』『冷水』と書かれた白いプレートがご丁寧に掛けられていた。
おそらくここで掛け湯を行えということだろう。
また円形の浴場を挟むように左右の壁にはこれまた端まで伸びた鏡が、湯気で隠れた彼女らの裸体を映し出している。
鏡に映し出された自分自身の姿をその双眸に捉えながら少女は思う。
(……どこ、ここ?)
少女は忘れ去られた記憶の断片をも念入りに辿り直す。
彼女の覚えている、毎日のように利用していた白城家の湯浴み場とは決してこんな場所ではなかったはずだ。
風呂場の場所こそ変化はないが、眼前に広がるこの場は全くの別空間。
元々十人も入れない程度に収まった最低限施設のみだったはずなのに何だこの様は。いつ突貫工事が行われたのだろうか。
そんな少女の疑問に答えてくれる人物はこの場にいない。ーー考えることを放棄する。
この瞬間、梓の知っていた風呂場は記憶の彼方に消失することとなった。
「梓~。一緒に体洗いっこしよー」
梓の疑問など知る由もなく、愛は密室に声を響かせた。
「……背中だけなら」
「よっしゃ! 早く早く!」
梓も一度も使ったことのない異空間。
こういう時に先導してくれる愛の行動力には助かる。何せ質問されても答えようがないのだから。
「えっと、シャンプーは……っと、これかな? いい匂い」
湯桶と共に鏡の前に移動した愛は、その下に置かれているボトルを物色する。
ボトルにもそれぞれ『シャンプー』『トリートメント』『ボディソープ』とラベルが貼られているので、初めての人にも優しい一目瞭然システムとなっている。
愛は髪を濡らし終えると、シャンプーを手に取りその香りを楽しんでいた。
梓もそれに倣い、初めて訪れる空間を堪能することにした。
「そういえば続きなんだけどーー愛の好きな人ってどんな人なの?」
「え?」
水の重みにも反発し、愛の髪束がピンとはねる。
「あー。本当に梓に会う前の記憶だから正直おぼろげなんだけど……」
「うん」
「『冒険だー!』って言って家を飛び出したことがあったの。そしたら見事に迷っちゃってさ。あの頃は本当に無謀な挑戦をした自分自身を恨みながらボロボロ涙流しちゃってねー」
「……愛でもそんな頃があったんだ」
「当然。愛さんにも可憐な少女時代は在りますー。ていうか梓ってば愛さんをどんな子だと思ってたの?」
「ん~……。一言で言うならやんちゃな子かしら?」
「まあ、男勝りな性格は昔からだから間違ってないけど……」
「ごめんごめん。それから?」
「その時に自分より背の高い子に『大丈夫?』って声かけられて、家まで連れてってもらったの」
「へぇ~。素敵ね。その人が想い人?」
「まー片思いだけどね。声かけられたときにひどく安心しちゃって、涙腺崩壊! って感じで更に号泣しちゃった。その時のその子の声が忘れられなくて……」
癖っ毛を洗い流しながら、また過去の少年の影に想いを馳せる。
梓はそんな彼女に茶々を入れるわけでもなく、そんな親友の顔を見て零れる幸せを共感した。
「ーーいいわね」
「ありがと」
「そういえばその人は今どこにいるの? さっきこの国の人じゃないって言ってたけど」
「あ、そうそう。送り届けてもらった時に名前は教えてもらったんだけど、家に帰ってこれた喜びでお礼を言いそびれちゃって。次の日その名前を頼りにその子を探し回ったんだけど見つからなくって」
「でもそれって本当に小さいときよね? もしかするとこの国の人なんじゃないの?」
「残念ながら答えはノー。実は今までも時間がある時は探し回ったし、何より名前がこの国の人のものじゃなかったの」
「名前は?」
「ーーえ? 名前まで告白しなきゃダメ?」
「恋バナはあくまでも対等な立場で」
「はいはい了解しました」
そう言い切る梓に敗北した愛は、恥じらいながらも口に紡いだ。
どうせ梓の知らない人物なのだから。明かしたところでこれ以上恥ずかしいことなどない。
彼女の記憶に鮮明に残るその少年の名はーー。
「その人の名前はたしかーーアリス」
「アリス?」
「そう。アリス」
「それだけ? 家名とかは?」
「いやー。それが愛さんの一番の後悔。聞きそびれちゃいまして」
「まあ、それなら見つからないのも仕方がないわね……」
確かにこのローランド法王国でつけらるような名前ではないが、この広い世界だ。
井の中でならともかく、隣国、海を越えた他の大地の人間を数えると、その名前にあてはまる人物はごまんといる。
その名前だけを頼りに探すとなると流石に無理があるだろう。
そう梓が深く納得する間に今度は愛に主導権が移る。
「ーーで? 今度は愛さんが、梓とあの馬鹿の馴れ初めを拝聴させてもらう番ね!」
矛先が返ってきた梓は咄嗟に目をそらしてしまう。
「あれれ~? 恋バナは対等なんだよね?」
小悪魔の如く微笑が梓を見つめていた。