第十一話:奇襲その弐
法王の塔の周囲は激しい混戦だった。
精霊術を用いて一気に距離を稼いだ梓は宙に浮かびながら戦場を見渡す。
遥か上空にまで聞こえてくる悲鳴に怒声。
中央の塔を囲うようにして何百何千と数えられぬほどの騎士が戦っている。獏党静香が率いる第二騎士団だ。
彼らが戦っているのはアールとかいう自動人形。パッと見た限りでも総数の半分以上が集結しているのが分かる。
数だけでいえば有利ではあるが、お世辞にも現状は優勢とはいえない。
アールたちは個にして百はくだらない戦力。しかもヒョイヒョイと撹乱するかのように次々と場所を移動しては、隙を見つけて騎士を殴り殺している。
完全に引っ掻き回されている状態だ。
だがそんなアールらも中々突破出来ない場所があった。
法王の塔の入口だ。
梓はそこで戦う見知った顔を見つけて一気に降下する。
「ーー梓!?」
彼女を見たひとりが驚いた顔を向ける。
「茜さん。御無事で何より」
「何で梓がここにーーって言ってる場合じゃないか」
茜と呼ばれた騎士はすぐに視線を外して、向かってくるアールの攻撃を捌く。
精霊術を使っていいるのだろう。あの並外れた力を何とか凌いでいる。
「そうですよ。姉上。今はここを死守することが先決です」
そう言いながら隣で奮戦する男もまた梓の顔見知り。
茜のことを姉上と呼称することからも分かるように、茜の弟である一村智だ。
この一村姉弟だが、二人とも第二騎士団の副官を務める実力者。梓はその強さを精霊の舞闘会にて直接体感している。
最低でも法王守護騎士とも並ぶ実力を持っているのは確かだろう。
複数で仕掛けてくるアールの攻撃を優に受け止めながら、未だ入口を突破させていないことこそその証明だ。
「微力だけど手伝うわ」
「貴女がご助力していただけるとは……何と頼もしい」
「でも第三騎士団にも役目があるんじゃないのか?」
「大丈夫。それに今はコッチの方が優先すべきと判断したまでよ。それよりも獏党様は?」
「静香様ならーー」
と智が言い始めたところで後方の扉が開く。
チャンスだ。
ここぞとばかりにアールたちが三人を無視して入口へと迫る。
≪氷柱≫
だが強行突破は氷の壁に阻まれる。
飛び込もうとしたアールはただの一体も例外なく、射出された巨大な氷柱によって弾かれる。
パキッと音を立てて砕けたのは氷、そしてアールらの体の一部だった。
「あれ? 梓様。どうしてこちらに?」
緊急時だといのに相変わらず己のペースを崩さない。静香がゆっくりと扉をくぐって登場した。
既に抜刀されている剣を片手に、首を傾げながら梓を見る。
「はい。緊急時と判断し、二千の騎士をおいて残る千で国民の避難と救助にあたっています。ここがもっとも戦火が激しかったのでご助力を、と」
「あら。ありがとうございます。すごく助かりますわ」
「……あまりそういう風に見えないのですが」
「とんでもございません。正直、このビヒー様に似たこの方たち相手ではほとんどの者に手が追えません。このまま戦っても数分持つかどうかですから」
「彼らがビヒーさんじゃないと分かるのですか?」
「ええ。勿論。まるで雰囲気が違いますから。さてーーみなさん! 私は戻りました。この場は私と副官二名、そして梓様で何とか死守します! みなさんは急ぎ国民の救助にあたってください!」
静香が号令を放つ。
普段おっとりした雰囲気を醸している為あまり想像できないが、こういう面はやはり指揮官に相応しい。流石は獏党家の当主だ。
第二騎士団の騎士らも命令一つで迅速に行動を開始する。訓練も余程行き届いていなければ無理な芸当だ。そして彼女に対する信頼の厚さもあっての動きだろう。
「しかしーーボクたちだけでこの人数を相手に戦えますかね?」
「おや? 私の弟にして情けない発言をしてくれるな。私たちならばいける!」
「うふふ。まあ茜はそう言っていますが、正直厳しいでしょうね」
え。と梓だけでなく、茜も智も静香に顔を向ける。
「この方々は精霊術こそ使えないようですが、直接戦闘だけでいえば間違いなく法王守護騎士と同等以上の強さです。数体倒すだけなら問題ないでしょうが、数も私たちを圧倒していますし、魔力が枯渇するほうが早いでしょうね」
「えっと……それじゃどうするんですか?」
智が困った顔を向けながら、静香に問う。
「助けが来るまで持ちこたえるとしましょう」
静香はこの場に残る三名へにっこりと微笑みかける。
優しき死刑宣告にも等しい発言だ。
「え~っと、助けとは?」
「そうですね。きっとクラウン様がどうにかしてくれるでしょう」
「…………父上が?」
いやいや。それはないだろう。
だってクラウンは今頃セスバイア法王国にいるのだから。梓は父の名が出たことで一瞬期待するが、現実的に無いなと判断を下す。
智も茜も「また始まった。静香様の病が……」とか「いくらんでも盲目すぎます」とか口々にぼやいている。
「ええ。勿論現実味がないのは理解していますが、梓様がここにいらっしゃるのですから、間違いなくあの方は保険をかけているはずですわ」
「保険って……何ですか?」
訝しそうに智。
「分かりませんわ」
にっこりと静香。
「はぁ……」
と茜。
「…………」
無言の梓。
皆命を賭け金に戦場に立っているとは思えぬ程、緩い空気が漂っていた。
しかし敵が容赦するはずもない。その空気にのまれかかっていたアールらが再び攻撃を再開する。
先ほどの静香の精霊術で手足が千切れた個体も関係なく。むしろ手足の恨みを晴らしてやるとばかりに勢いがよい。
正直一斉にかかってきてくれるのであれば勝ちようもある。
なんせここにいる四人の内二人は上級精霊と契約をかわした者なのだから。力任せに精霊術をぶっ放せば勝つことは可能だ。
しかしそうなると周囲への被害も相当大きくなるだろう。ここはローランド法王国の中心部。最も栄え、最も貴く、最も尊き場所。護るべく法王の塔が壊れてしまう可能性のあるような精霊術はとてもじゃないが使うことなど出来はしないのだ。
それに大規模の精霊術を使うとなれば、それに伴う消費魔力も厖大だ。
アールたちはいきなり現れたと聞く。であればここにいる全員を撲滅したところで、さらに出現する可能性も否定できない。
仮に広大な草原で数が目の前に存在するだけと確定しているならば、二人は迷わずその一手を使ったに違いない。
だが現状あらゆる可能性を視野に入れて戦うとなるとそれは下策ということだ。
ただそうなると一々一体一体を相手にしなければいけなくなる。
これはこれで面倒で、身体技能はおおよそ互角。身体能力でいえばアールらの方が圧倒している。
そして彼らを斬り伏せる為の決定打を加える為には、鋼鉄のような肉体を看破する必要がある。つまりは精霊術頼みということだ。
しかもこれだけの数。一人あたりニ十体と換算しても魔力が保つかどうか怪しい。
そもそも魔力以前にこれだけの強敵を何体倒せるかも怪しいところだ。
そしていざ実際に戦い始めてみると、多少の誤差が発生する。
静香は何とか三体を同時に相手取るが、ほぼ防戦一方。
戦技を繰り出そうとすると更に一体邪魔が加わり、応戦しようとしたところですぐに引っ込んでいく。
決め手に欠け中々倒せないでいた。
他の三名も同じくだ。
何とか味方内でフォローは入れるが、それでもほとんど自分のところで精一杯。
しかも法王の塔を侵入しようと試みる他のアールらにも目を向けておかなければならないので、四人の消耗は激しかった。
ここで誰かが捨て身の一撃を加えて一体を無力化したとしても、劣勢になるのは間違いない。
戦い始めて改めて実感する。
勝てない、と。
条件が違えばきっと違っていただろう。だがそんなもしもの話は現実世界において何ら意味を成さない。
最初に綻びが見えたのは茜だった。
「うっーー!?」
蹴り飛ばされた茜は地面を転がり、あちこちを強打する。
「姉上!」
吹き飛ばされ無防備になった姉を救うべく、反射的に智が飛び出す。
しかし悪手だ。陣形が崩れたところ自らまた崩しにかかるとは無謀極まりない。
とはいえ肉親が危険に晒されたのだから、智の行動を誰が咎めることができようか。しかしそんな情など戦場で融通が利くはずもなし。
智、茜目掛けてアール達が飛び出す。
「危ない! ≪風の盾≫!」
咄嗟に梓が叫ぶ。
ギリギリのところでアールの攻撃は梓の精霊術によって阻まれる。アールらを風の力で押し返す。
岩石をも砕く彼らの攻撃を受け止めきるこの風は、防御性能としては一級品だろう。しかし万能ではない。四方八方三百六十度からの攻撃を防ぐ盾ならば良かったが、残念ながら≪風の盾≫は面一枚の隔たり。
すぐにアールは別の角度から攻撃を開始する。
ならばもう一度ーーと梓も精霊術を行使しようとするが、そうはさすまいと彼女に襲い掛かるアールがそれを許さない。
「くーーッ!」
「ありがとう! こっちはボクが何とかします!」
何とか茜の正面に陣取ることに間に合った智が剣を振るう。
「……流石私の弟。頼りになるよ」
そして茜も立ち上がり剣を構える。
足取りは少しふらついているようにも見えるが、まだどうにか戦えそうだ。
梓と静香はそれを確認して、自分に仕掛けてくるアールらに再び集中する。
だが体勢が戻ったところで突破口の糸口は見えない。彼らと渡り合うための体力も魔力も消費し続けているというのに、アールたちに体力などという概念は存在しないのだから。
無呼吸運動を可能とする者を相手取るとこうも凄まじいものなのか。
己をローランド法王国一の体力保持者と自負していた智も、苦笑いしながら疲れの色を見せ始めていた。
「はは……。まいったな、ホント」
「確かに。静香様の保険が希望的観測でないのを祈るばかりだ」
「あら、二人とも。私は間違いないと断言できますわよ。だってほらーー」
静香はアールらから距離を取り、ふと空を見上げる。
「…………?」
それにつられて智も茜も、そして梓も。加えてアールたちもが攻撃の手を止めて空を見る。
何だアレは。静香ーーそして梓以外の全員が疑問を浮かべた。
空にかかった黒い点模様。己に差し浸かる影の大きさがどんどん肥大していく。
何かが落ちてくる。
そう理解したのは黒い何かが目に見えて大きくなってきたからか、空から声が降って来たからか。
両者とも近づくにつれ徐々に大きくなっていく。
「ぁぁぁぁああぁあうぁあああああ”ア”!」
その声にいの一番に反応したのは梓だった。
悲鳴ーーに近いが、その声質は聞いたことがある。頭に浮かんだ人物をそのまま口にする。
「…………愛……?」
それが正解か確かめるよりも早く、梓の眼前で土砂が強く舞う。
ーーズガァァァァアン!
静寂を生む巨大な音が地面と共に鳴り響き、勢いよく蔓延る砂埃がそこにいた者たちの視界を奪う。
梓らは目鼻に砂が入らぬよう手で口元を覆いながら状況を確認する。
ゆっくりと晴れていく視界の中で、最初に口を開いたのはその中心にいる者たちだった。
「ハァ、ハァ……。ミノの旦那がいてくれて本当に助かった…………」
「女。肯定」
「よくやった。牛」
「コノ二人ハドウデモヨイガ、貴様ニ死ナレテハ困ルカラナ。感謝スルナラバ一応貴様ヲ頭ノ片隅ニデモ気遣ウゴ主人様ニスルノダナ」
「ほ~。迷宮を彷徨う牛悪魔。お前も頭に膝を屈したいうことかいな」
「イイヤ。ゴ主人様ハ別ニイル……ガ、ゴ主人様ノ命ニヨリ奴ニモ従ッテイルニスギン。隙アラバイツカ殺シテヤル」
「ハッ! デカいだけの木偶の坊如きがウチらの頭に勝てるはずないやろ。それにそんな事させると思うとるんか?」
「……面白イ。ナラバ先ニ貴様ノ首デモ刎ネテミセヨウカ?」
「おもろいやんけ。デカいのは体と口だけでないいうとこ見せてみい」
「はいはい! 二人ともそこまで! 今は梓たちが心配ーーって…………あれ?」
砂煙が晴れ、二人は数日ぶりに再会する。
さらにその傍らには巨大な牛の化け物と刺青の女性。そして見たことのないフードの二人組。
目の前に突然現れた親友と他の者らを前に少女の脳の処理は現状理解に追いつくことはなかったが、もう片方の行動は早かった。
言葉を止めたかと思うと、さっきまでの恐怖と面倒に引きつっていた顔も一気に晴れる。
そして一気に駆けだして梓目掛けて突撃をかました。
ズンと甲冑越しに横への重力を感じ、うっ、と息を漏らす。
何とか踏ん張り、その場に倒れることだけは回避するに成功。体に受けた衝撃とすぐそこにある顔を見たことで、ようやく梓の中で情報処理が進んでいく。
「梓ー! 無事で良かったー!」
「やっぱり……愛? どうしてここにーーっていうか何で空から? ていうか何でミノの旦那やブラックまで? クルメア法王国にいるはずじゃ……。それにそっちの二人は?」
目に入ってくる情報を整理する為に次々と疑問を口にする。当然だ。
彼女らはクラウンと共に戦争回避の為の一手を内にクルメア法王国へ向かったはず。時間的に愛たちはまだクルメア法王国にいるはずなのだから。
もしかすると激しい戦闘に時間が経つのも気づいていなかったのだろうか。
そんな馬鹿な事を考えるが、空の色や己の少ない体力を振り返りそんなはずがないとやっぱり否定する。
じゃあどうしてーーと、訳も分からぬ顔を浮かべ続ける梓を前に、愛がニッコリと笑う。
「やっぱり梓は可愛いな~。さっきまでバクバクしてた愛さんの心臓もようやく落ち着いてきたよーーって、わ! 何この状況? ビヒーさんがたくさんいる!?」
梓以外に目を向けた愛がようやくそこで周囲の空気に気づく。
だがすぐに「あ、そうか」と納得したように頷いた。おおよその事情をクラウンやクルメア法王から聞いていたので偽物がいるということに気づいてはいたがーーまさかこんなにも数がいたのは驚きだ。
「なるほどね。こいつらが敵ってわけ」
梓から離れると、愛はようやく二刀の小太刀を構える。
「へぇ。確かに大分似とるなぁ。あの人間が間違えたのも頷けるわ」
「たしかーーブラック様、ですよね? その口ぶりからするとクラウン様は誤解を解くのに成功したということでしょうか?」
「せや」
ビヒーに似た自動人形が複数体現れた時から何となく事の真相に気づいてはいた。
静香はブラックの短い答えを聞いて、やはりーーと頷く。
「なるほど。やはり全てはプラムエル様の策略ということですね」
「牛乳。正解」
「御明察の通り。牛乳」
「あなた方は?」
特に呼ばれ名など気にするそぶりもなく、静香はフードの二人をみる。
「レイ。クルメア法王の近衛兵」
「主君の命令で援護。ロン」
「そうですか。それは心強いですわね。よろしくお願いします」
「まぁ餓鬼どもの出番はないやろうけどな。紛い物なんぞウチ一人で十分や」
ブラックがそう吐き捨てると、レイとロンがすぐにムッ、と対抗する。
「黒犬。出しゃばるな」
「レイとロンだけで戦える。黒犬」
「ハ! 笑かしよる。ならどっちが多く倒せるか競ったるわ」
ブラックがそう挑発すると、すぐさま勝手気ままな勝負が敢行される。
ブラックは近くにいたアールをただの一撃で粉砕する。
「……創造主級の膂力ーー!?」
アールの一体が腹部に穴を開けて崩れ落ちる。自身の体を貫いている腕を見て驚愕の声を漏らしながら。
「…………!」
静香を含めた第二騎士団の面々は目を見開いてその光景を目にやきつけ、唖然としていた。
まさに一撃必殺。
動きもまるで見えていなかった。この国では相当上位に位置していると自負している茜も智も、ブラックの強さの前では児戯にも等しいかもしれない。
辛うじて彼女の動きを捉えることが出来ていた静香でさえ、身体を震わせずにはいられなかった。
数分はもつだろうが間違いなく勝てはしない。長年培ってきた騎士としての勘と、第六感ともいえる女の勘がそう結論づけていた。
味方で良かった。そう思った瞬間、彼女たちから緊張の糸がほぐれていく。
「……油断は禁物だね。コイツもおそらく創造主と同じく悪魔!」
「その通りや。玩具共。さあ、とっととかかってこんかい。」
ブラックは破壊したアールを踏みつけて、アールたちを威嚇する。
戦闘が起こっているのはここだけではない。
ブラックに触発されたレイとロンも複数のアールらの群れに飛び込んでいた。まるで自殺行為。彼らの実力を知らない茜たちはそう思った。
だが彼らは軽く攻撃をあてたかと思えばすぐに距離をとって、囲まれないうちに包囲を抜け出している。
身体能力だけでいえば間違いなく人類の域を超えたアールたち複数がかりでも、彼らの動きに追い付けていないのだ。
とはいえ二人の攻撃も全く通用してはいない。
「コイツ。硬すぎ」
「刃が通らない。コイツ」
「ハ。餓鬼どもは精々その場でかき回しとき」
また戦闘中というのに「何をー!」と口喧嘩が始まる。
さっきまでは油断も隙も出来ぬ戦いだったというのに、今では軽口を叩けるほど空気も弛緩しているように感じた。
それもブラックの一撃を見た瞬間の安心感がそうさせたに違いない。
「行クカ……」
そしてここにももう一体。彼らを安心させる要素が始動する。
ズシャンと大股に歩を動かす牛の化け物ーー迷宮を彷徨う牛悪魔だ。
「ミノの旦那も戦ってくれるの?」
「最近ハマルデ暴レテイナカッタカラナ。ソレニーー」
スン、と大きな鼻を動かして続ける。
「臭イノ無イ硬イ人型。似タヨウナ奴ニ一度不覚ヲトッタ。ソノ返礼トイコウ。≪牛ノ怒リ≫」
迷宮を彷徨う牛悪魔の巨躯の周囲に、突如陽炎の如く揺れ動く茜色の靄が纏わりつく。
それを知らない者らはゴクリと唾を飲む。一体何が起こるのか。
それを知っている二人はゴクリと唾を飲む。久々に見る彼の全力に。
躍動する肉体の枷は外れた。
迷宮を彷徨う牛悪魔の巨体は突如全員の視界から消え失せる。
「何処にーー!?」
目の前で消失した悪魔を前に、アールの一人が必死に首を動かす。
自動人形。技術の結晶を注いだ個体であっても迷宮を彷徨う牛悪魔の速度を捉えきることが出来なかったのだ。
そして再び視線を正面に向けた瞬間、アールの眼前にソレは出現した。
目の前に再来した迷宮を彷徨う牛悪魔の肉体が縦にズレ落ち、傾き、倒れる。
ーー否。
現実には迷宮を彷徨う牛悪魔が振り下ろした斧によってアールが真っ二つに断ち切られていたのだ。
ガシャンと地面を鳴らしたところで、ようやく両断された個体もその事実に気づく。
「……フン。貴様ラノ攻撃ハ脅威ダガ、当タラネケレバ無意味ダナ」
強靭な脚で踏み砕きトドメをさす。
劣勢は完全に覆っていた。
「……よし。茜、智。私たちは己の身を護ることだけを優先します。敵の排除は彼らに任せましょう!」
「「了解!」」
棒立ちだった静香らがようやく再起動する。
だが彼女たちに襲い掛かろうとするアールたちは悉く一瞬で破壊されていく。彼らの暴力によって。
「あーもう! こんなの聞いてない!」
「何なのこいつら!?」
口々に文句を垂れるアールたち。
だがそれでも命令に背くことなど出来はしない。彼女らの目的はこの国にいる生命体の殲滅。意思を所有する人形といえども命令は絶対なのだから、撤退などありはしないのだ。
しかしその数は成果を上げることなく圧倒的な暴力の前に減らしていく。
「ならーー」
アールの一体が両手を発光させる。
一体何をーーと戦っている者らは瞬時に気づいた。何をしようとしているかはしらないがそうはさせない。
特異な動きを見せる個体にブラックが飛び出した。
しかしブラックがアールに到達するよりも早く、眩い光が周囲を覆う。
「くッーー!?」
閃光のように弾けた光色はすぐに透過し元の景色を浮かびだす。
だがそこにさっきまでいた個体はいない。
「一体どこに……?」
ブラックは首を回して周囲を確認する。さほど時間は要しなかった。すぐに奴を発見する。
「ーーお嬢ッ!」
ブラックの叫びは梓の背後へと向けられていた。アールだ。
今まさに拳を繰り出そうと振りかぶっている。
「梓様!」
「梓!」
それに気づいた面々が次いで叫ぶが間に合わない。
ブラックも迷宮を彷徨う牛悪魔の速度をもってしても届かぬ拳が差し迫る。
ブラックの焦りが手に取るように分かる。いい気味だ。
アールはそんな彼女の表情を見ながら不敵に笑い、全力でを振り抜いた。
「ヌハハハ! 決死の覚悟、敵ながら天晴れ。じゃがーーお嬢様に手出しはさせぬよ」
しかしその拳が梓に届くことは無かった。
個体名は違えども、自動人形の拳は以前迷宮を彷徨う牛悪魔をも一撃で沈めるほどの力がある。
大木や岩であっても目ではない。人体ならば尚更だ。
しかしーーその拳は小さき幼手に包まれる。
「レヴィ!」
振り返った梓がようやく今の現状を理解する。
「うむ。危ないところじゃったな。しかし我が来たからにはもう安全じゃ。しかし見れば見る程姿だけはビヒーにそっくりじゃの」
「そんなーー!? 私の拳を受け止めるなんて……ッ!?」
「ヌハハハ! 世の中、上には上がいるものじゃ。よおく覚えておくがよい」
レヴィはカラカラと笑うと、受け止めた拳を握り潰す。何の抵抗もなくガシャリと金属の粒へと成り果てる。
「しかしお主のような輩がいてくれて嬉しいぞ。一度その顔を思い切り殴ってみたいと思っていたのじゃ」
そう笑ってレヴィが拳を突きだした。
空気がパンと弾ける音と同時にアールの顔面が消失する。
「……ふむ。じゃが残念ながら強度が足りんの。思ったより殴り甲斐がなかったわい」
レヴィはつまらなさそうにそう言うと、頭部を失い崩れ落ちるアールから視線を外した。