タイムマシン始めました
篠原総一朗は、都心から外れたおおよそ東京都は思えない殺風景な景色が広がる駅に疲れた顔で降り立った。土曜日の午後だというのに人は殆どいない。まともな人間がこんな場所に用事などあるはずもなかった。工場もなければさしたる商業施設もない。あるものといえばもう随分と古くなったアパート郡とぽつぽつと並ぶ一軒家だけ。だから彼はもうまともではなかった。
コンタクトレンズに映しだされた地図を目線で操作し閉じる。網膜投影技術のお陰で、もうスーツのポケットに入れるものは無くなっていた。鍵は指紋になり、財布は静脈による生体認証に変わっていった。曾祖父さんの頃は大変だったんだなと、彼は一昨年亡くなった故人を想った。今度は百パーセント自分の視界で、ホームから見える雑居ビルの場所を確認する。仕事ざかりの青年とは思えない程の重い足取りで、彼は駅の階段を登っていった。
訪れた場所はほとんど最悪の設備だった。ドアノブについている鍵が、彼をうんざりさせる。ここに足を運んだことでさえ、自暴自棄の結果だった。
仕方なく呼び鈴を鳴らせば、扉越しに間延びした男性の声が聴こえる。開かれた鉄の扉が、彼の革靴のつま先に当たった。
「やあ、篠原さんお待ちしていました」
「あんたが渡辺?」
篠原がぶっきらぼうに尋ねると、渡辺がそれっぽいでしょうなんて冗談を口にする。渡辺の服装も彼をいらつかせるには十分だった。ところどころ穴の空いたズボンに、襟元が倍近くに広がった一昔前のロックバンドのマークが描かれたTシャツ。それでも篠原はそれを指摘しなかった。彼の用事はこの男に会うことではなく、その奥にある機械なのだから。
不愉快な笑顔を浮かべる渡辺に案内されて、一応事務式らしき場所に通される。積まれたダンボールや転がるビールの空き缶もやはり篠原を苛立たせた。渡辺はノック式のボールペンの頭を何度か叩いた後、篠原に尋ねる。
「えっと、お名前は篠原総一朗さん。年齢は三十二、ご職業はシステムエンジニア。間違いないですか?」
「ああ」
渡辺は篠原にボールペンと紙の束を手渡した。篠原が簡単に何枚かめくってみれば、だらだらと長文が並べたてられている。
「じゃあまずこれに目を通して下さい。タイムマシンの仕様に関する書類です……あんまり気にしなくていいですよ? 大したこと書いてないですし、全部読んだら日が暮れますから。あ、サインは最後のページです」
渡辺はボールペンで署名欄に自分の名前を書く。ほとんどが電子化した時代で、随分と時代錯誤だと彼は思った。インクの出るペンを持つこと自体久々だったという事もある。
「じゃあ、ご予約いただいたプランは一日コースでお間違えないですね?」
「ああ」
「えっと……それで代金なんですが、百万円になります」
篠原はいつもの癖で掌をかざそうとする。それでも目の前の渡辺は相変わらず不愉快な笑顔を浮かべている。それで彼はようやく、現金を指定されていた事を思い出した。スーツの胸ポケットから銀行の名前入りの封筒を取り出し手渡す。渡辺が枚数を確認する際に口元が歪んでいた事を篠原は見逃さなかった。
「奥の部屋に確認取れているか確認しますね……京子さーん! 準備出来てるー!?」
奥の方から女性の返事が聞こえてきた。内線すら無いことに篠原はあきれ果てた。だが、もう彼にはどうでもいい事だった。あと少し我慢すれば、あの日に帰れるのだから。
「コンタクトは外した? 貴金属も特に無いし……んじゃ、それに寝て」
背の低いポーニーテールの女性が篠原に指示をする。それはいびつな形をしていた。卵型の大きな灰色の物体のハッチが開き、ベットが顔を出している。無数のコードと太いパイプが繋がれ、静かな機械音を規則的に立てている。促されるまま篠原がそこに寝そべると、渡辺がシートベルトのような拘束具を何ヶ所か嵌めた。
「それで、行きたいのはいつだっけ?」
「二二五四年の九月一日だ」
篠原がそう答えると、ポニーテールの女性はキーボードを叩く。
「一応説明しとくけど、タイムパラドックスとか気にしなくていいから……まあ正確に言えばこいつはタイムリープマシンなんだけど、細かい説明聞いとく?」
「いや、いい」
篠原にはどうでも良かった。彼に過去を変える気なんてない。ただ、あの楽しかった日を一日だけ過ごせるならばそれでよかったのだ。
「篠原さん……楽しんできてくださいね」
渡辺が笑顔で彼の手を握る。その人懐っこい笑顔を、篠原は一瞬だけ好きになれた気がした。
ハッチが閉じる。目を閉じれば、甘い匂いに包まれる。心地良かった。
静かな高揚感に包まれながら、篠原の意識はゆっくりと消えていく。九月一日は始業式だ。友達に会って、夏休みの事を話すんだ。大人になったけど、戻ってきたってみんなに言うんだ。嫌なことは全部思い出になって、辛い経験は楽しい話に勝手に変わるんだ。大丈夫、みんながいる。みんな笑って聞いてくれる。そんなわけあるかって笑い飛ばしてくれるんだ。クソみたいな人生全部、冗談だって。
それでようやく、篠原総一朗は眠りについた。
「正確に言えば、タイムリープマシン……か」
渡辺は閉じたガラクタをマグカップで小突きながら、そんな言葉を口にする。京子の耳に入ったのだろう、彼女は大きなため息をついた。
「じゃあ、もっと正確な事を言えば良かった? もっと正確に言えばタイムリープみたいな幻覚が見れる非合法の薬を吸わせるマシンだって」
「そこまで言ってないじゃん」
渡辺と京子の詐欺師だった。タイムマシンの原理すらまともに理解していない、文系大学出身の詐欺師。ネットで顧客を見つけ、機械に放り込んで薬を嗅がせて百万円。一日に一人しか客を取れなかったが、それでも実入りは今までの中でも良い方だ。服装や設備がいい加減なのは、彼らの演出だった。そっちの方が都市伝説みたいに思われると京子が言い出したからだ。
「この人、どんな夢見てるのかな」
「好きな子の縦笛でも尻に入れてるんじゃない」
「相変わらず下品だなあ……とりあえず、今日の晩御飯どうする?」
それから二人は部屋を後にする。
ただ機械の音だけが、その場に響いていた。
篠原総一朗はランドセルを背負いながら、校門に向かって走っていた。通り過ぎるクラスメイトに挨拶をすれば、当然のように声が返って来た。それがどうしようもなく嬉しかった。
教室の扉の前で、彼は深呼吸をする。どんな事を自慢しようか。十年後はこうなって、二十年後はああなって。それを聞いた友人たちの反応を想像するだけで、彼の頬は緩んだ。それから扉を勢い良く開け、元気な声で彼は叫ぶ。
「……ただいま!」
その場違いな発言に、クラス中が大笑いした。