遅れたカーネーション
トン…トン…トン
一歩ずつ階段を上る足音が聞こえる。
タカユキはいつものようにパソコンの前に座ったままネットゲームに勤しんでいる。
タカユキの父親は彼が3歳の時に突然いなくなった。正確には浮気相手とそのまま蒸発してしまったのである。
その後、母は女手一つでタカユキを育てる決意を固め、身を粉にして働いた。
しかし、幼い頃のタカユキはそんな母の苦労など知る由もなく、仕事で参観日に遅刻したり、運動会も最後まで一緒に居ることが出来なかった母に不満を持ち、度々母に暴言を吐いた。
そしてタカユキが地元の高校生へ進学し、2ヶ月程経ったある日、タカユキはふと学校へ行くことをやめた。
母は、なぜ学校へ行きたがらないのか、何か嫌な目に遭っているのかと聞いて来たが、タカユキにとって自分の家が貧乏な事や父親のことなどを周りからネタにされているのは昔から日常茶飯事であったし、母にそんなことを面と向かって言うことにためらいもあったため、母を怒鳴りつけ、部屋にこもった。
そうして、部屋に引きこもったままの生活は3年間続いた。初めは部屋の外から色々と声をかけてきた母もある日を境にぱたりと何も言わなくなった。
今では、タカユキと母は同じ家に居ても話しはおろかお互いに顔を合わせることもなく、母がタカユキの部屋の前に置く食事と、再び部屋の前に置かれる食器が唯一の親子のコミュニケーションとなっていた。
トン…トン…トン
足音はタカユキの部屋の前で止まり、それからしばらく間を置いて再び階段を降りる足音が聞こえた。
ネットゲームに一区切りつけたタカユキは、鍵を開け部屋のドアを開けた。
中学生まで野球が好きで、短く刈り込んでいまタカユキの髪の毛は肩まで伸び、着ているTシャツも汗で黄ばみ、容姿はまるで10代とは思えない程、老け込んでいた。
しかし、そこでタカユキはひとつの異変に気がついた。
いつも置いてあるはずの食事が無いのである。
廊下を見渡すが、廊下の端にも階段の上にも置いていない。タカユキは初めてのことに多少驚きつつも、小さく舌打ちをしてドアを閉めた。
それからネットゲームを再開したタカユキだったが、その後もタカユキの頭の中では、母の行動の意味についての考えを巡らせていた。
初めは、3年間何の変化のない息子に嫌気がさして意地悪をするつもりで食事を置かなかったのかとも思ったが、それなら部屋の前まで来る意味が無い。
それとも食事を置くつもりで部屋の前まで来て、急に気が変わったのか。
しかし、そこまで考えてタカユキはそこで詮索するのを止め、ふと部屋の時計を見る。
午後1時43分。晩ご飯を運びに来るのは午後の7時前後になることが多いため、一旦そこまで待ってみようと考えたのだ。
タカユキは大きく息を吐きネットゲームに没頭していった。
次にタカユキが時計を見ると、すでに短針は7を向こうとしていた。
タカユキは母の出方を内心気にしつつもそのままゲームをし続けた。
トン…トン…トン…
階段を上る足音が聞こえた。
タカユキはふっと鼻で笑い、少しだけ足音に注意を傾けた。
トン…トン…トン…
先程と同じ様にタカユキの部屋の前で足音が止まった。無意識にタカユキもキーを叩く手を止めていた。
ほんの少しの静寂。しかしタカユキにはそれが数分にも感じられた。
トン…トン…トン…
再び部屋を離れ階段を降りる足音が聞こえた。
タカユキは椅子から立ち上がり、ドアに耳をそば立て足音が聞こえなくなるのを待った。
ゆっくりと鍵を開ける、今まで鍵を開けるだけでここまで気を使ったことはなかったなとタカユキはぼんやり思った。
ドアを開ける。
タカユキは目を疑った、そこには昼間と同じく何も置いていなかったのである。
タカユキは心の中で悪態をついた、一体どういうつもりなのか、もう食事を運ぶ意思がないのならなぜ直接言って来ないのか。こうすれば自分が部屋を出てくるとでも思ったのか。
考えれば考える程、母が憎く思えた。
ドアを閉めたタカユキはそのままネットゲームを再開する気分では無くなっていた。
部屋の中で閉じこもっているとはいえ、今日は起きてから何も食べていない。
まして、窓もカーテンも閉め切った部屋はムシムシと嫌な湿度を保っており、空腹よりも喉の渇きを我慢する方がタカユキにとって苦痛だった。
いっそ思い切って部屋の外にでてみようかとも思ったが、今やタカユキは母と話しをすることすら怖れてしまう程、社会的コミュニケーションが欠落してしまっており、結局直接母に文句を言うことは諦めていた。
しかし、タカユキはいつも深夜になり母親が寝静まった後にこっそり下へ降りてトイレに向かっており、この時もタカユキは深夜になればトイレに行ったついでに冷蔵庫の中を漁ればいいだろうと結論づけていた。
ベッドに横になり、漫画を読んだり少しウトウトとしている間に外は徐々に静けさに包まれていった。
いつもは深夜2時近くにならないと下へ降りないタカユキだったが、今日は空腹と喉の渇きがあってか日付けが変わる頃には手にペットボトルを持ち、部屋を出た。
階段を音を立てずに静かに降りると、正面には玄関がある。
左右には扉があり、左はかつて父が書斎として使っていた部屋で今はほぼ物置部屋と化している。右の扉は居間と更に奥は母の寝室へと繋がっており、この3年間タカユキはどちらの扉も開けたことがなかった。
お目当てでもあるトイレは居間への扉の間に、ちょうど階段から折り返す様な向きで廊下がありその突き当たりである。
タカユキはいつもより早い時間で母が起きている可能性も考えていつもよりゆっくりと移動した。
トイレに入ると、まず自分の用を済ませ、続いて一時的な簡易トイレとして使っていたペットボトルの中身も一緒に便器へ流した。
いつもはこのまま階段を上がっていくだけなのだが、今日は事情が異なる。ここから居間へ続くドアを開けて何か食べ物を探さなくてはならない。
タカユキはドアの前に立つと深呼吸をひとつして、ノブへ手をかけた。
ガチャ…
3年ぶりに見る居間の光景はまるでそこだけ時間が止まったかのように家具もカーテンの色も全てが当時のままであった。
一瞬タカユキは、高校へ通っていた頃を思い出し少しだけ胸を詰まらせた。
冷蔵庫は今の時代から見れば旧型の物で、冷蔵庫独特の小さな重低音を発していた。
そして冷蔵庫の扉を開け、タカユキは手を止めた。
冷蔵庫の中はどの段も奥がはっきり見える程スカスカでそのうち4段中2段は何も物が入っていないのである。
これが原因なのか、とタカユキは思った。
もしかしてこの家の家計は食費も満足にかけられない程ひっ迫していて、ついに何も食べて行けない程になったから急に食事が無くなったのか。
それは、タカユキの知らないこの3年間で唯一変わった光景だったのかもしれない。
しかし何も取らずに部屋へ戻る訳にもいかないと、タカユキは麦茶を一杯飲んだ後、食パン1枚を手に持ち居間を出た。
しかし、居間へのドアを閉め、階段のてすりに手をかけたその時…
ガタッ…
どこからか物音が聞こえた。
タカユキは危うく声をあげそうになるのを堪え、身をかがめ様子を伺っていると、再び物音が聞こえた。どうやら物音は父の書斎の中から聞こえる様だった。
泥棒。それがタカユキの頭によぎった言葉だった。
しかし、タカユキにそれを確認する勇気も無く、万が一それが母である可能性も残っていると自分に言い聞かせ、タカユキはそのまま静かに階段を上がっていくことにした。
部屋に戻るとドッと疲れが襲い、タカユキはそのままベッドに倒れこんだ。
味気ない食パンをかじりながら、タカユキは泥棒だとしてもうちには金目の物は何も無いだの、ジャムも探せば良かっただの、今更考えてもどうしようもないことばかり考えていた。
ネットゲームをしていたらいつの間にか朝になっている、というのはよくある事で、今日も例によってタカユキはそんな朝を迎えた。
しかし、深夜に食べたパン一枚で一日の空腹感は満たされるわけもなく、タカユキは半ばぼうっとした状態でゲームを続けていた。
太陽が昇り、ちょうど真上になろうかという時にどこからか声が聞こえた。
いつもなら外で人の声がしても全く気にならなかったが、なんとなく緊迫したような響きがあったので少し顔をカーテンに向けて見たが、特にその後も声は聞こえなかったので、再び視線をパソコンの画面に戻した。
それから十数分程経ったか経たないかの内に、今度は遠くの方からけたたましいサイレンの音が聞こえた。サイレンの音からしてパトカーの様だった。
タカユキは漫然とさっきの声と関係があるのかと推測してみたが、その推測は的中した。
しかし、それは悪い意味での的中となった。
パトカーのサイレンは遠ざかるどころか次第に大きさを増し、ついにはすぐ近くで鳴っている様に感じたタカユキは苛立ちながら席を立ち、カーテンの隙間から外を見て驚愕した。
2台のパトカーは近所ではなくタカユキの家の前で停車しており、警察官3名が玄関の前で、肩口につけた無線で何かやりとりしていたのであった。
タカユキは頭が真っ白になった。
自分が警察に捕まる様な罪を犯したのかと頭を巡らせたが、到底そんなものに心当たりは無かった。それとも3年間外に出ていないタカユキへ母からの制裁なのかと本気で考えた。
そのまま呆然と警察官の様子を見ていたタカユキに再び衝撃が走った。
警察官が家の中に入ってしばらくした後、警察官に連れられて出てきたのは大きくうなだれた母であった。
なんで…どうし…て…?
タカユキの口から自然と言葉が漏れた。
母は、着ている服が母のものだとわからなければ母とは思えない程か細く、そして小さく見えた。
母が警察官と一緒にパトカーに乗せられると、パトカーは走り去り、再び家の中に入ってきた警察官が今度はタカユキの部屋のドアをノックした。
「すいません、○○署の小林と申しますが…タカユキさんでいらっしゃいますか?」
はっきりとよく通る声で男が話しかけてきた。タカユキは母さん…母さん…と呟き立ち尽くしていた。
一週間後
タカユキは自室のベッドに腰掛けていた。
あれから警察官には色々と聞かれた。しかし、タカユキが3年間引きこもっていたことや母親との接点はほとんど無いことを知ると警察官は皆難しい顔でタカユキを見た。
ことの顛末はこうである。
ある日、回覧板を届けに来た隣の主婦が玄関の奥で包丁を持ったまま立ち尽くしている母親を発見。そのまま急いで110番通報した。
その後、駆けつけた警察官により母親は連行され取り調べを受けたが、供述は支離滅裂で精神破綻をきたしているおそれがあったため精神科へ入院し、本人の回復を待って詳しく話しを聞くつもりだという。
また母親の手のひらには包丁の柄の部分を強く握っていたことによる青あざが出来ており、おそらく1日以上握り続けていたのではないかとの事であった。
タカユキはすっかり抜け殻のようになりながらも、考えていた。
おそらく、だいぶ前から母はもう既に正常な精神状態ではなかったのだろう。
何故母は包丁を握りしめたまま、自分の部屋の前に来たのか。あの時自分がドアを開けたら母はどうするつもりだったのか。
様々な感情が入り混じる中、タカユキは立ち上がり、重たい足取りで階段を降りるとふと父の書斎のドアがほんの少し開いていることに気づいた。
父の書斎は父が居た頃はよく入って父に絵本を読んでもらったのが最後の記憶だった。
タカユキは何かに導かれるようにドアを開けた、しばらく使ってなかったのか中はほこりとカビの匂いでタカユキは少しむせ返った。
そこで、タカユキは父の机の上に何かが乗っていることに気づいた。
それは、幼いタカユキと両親が初めてディズニーランドへ行った時の写真だった。
写真の中のタカユキも父も、そして母も皆一様に笑顔を浮かべている。
タカユキは一週間前のあの日の夜のことを思い出した。
この部屋で物音を聞いた時、もしかしてこの部屋に居たのは母なのではないか。
そしてあの物音は部屋の中からこの写真を探していた音ではないのか。
全てはタカユキの想像でしかないことはわかっていた。
だが、改めてタカユキは思った。
自分は母について何も知らなかったのだ。
母はいつもタカユキのために頑張っていた。
そして、そんな母をタカユキは成長するにつれ疎み、遠ざけようとしていた。
だからタカユキは知らない。
母の好きな色、食べ物、場所、趣味……
小さい頃はありがとうと素直に言えていたはずなのに、一体いつから言えなくなったのか。
知らずにタカユキの頬を涙が伝った。
果たして今の自分に何が出来るのか。
それは、わからない。
ただ今自分が何をすべきなのか。
タカユキは急いで家を飛び出すと、病院へと自転車を走らせた。
最後まで読んで頂き、誠にありがとうございます。
今作が初投稿ということで、文才が無いなりになんとか最後まで書き切ることができましたが、少しでも楽しんで頂くことができれば幸いです。
ご意見・ご感想等ありましたら、次回への投稿の糧になりますので是非ともお願いします。