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彼女を愛していたんだ

作者: 芦原ななみ

 ずっと愛している人がいる。“愛している”といっても、恋愛感情ではないことは確かだ。なぜなら相手は既婚者で、しかも歳が一回りも上ときている。だからこれは恋愛感情なんかではない。ただ姉がいるような感覚で、僕は“彼女”を愛している。

 生温い陽射しが頬を撫でる。いつの間にか熟睡していたようだ。眠気でだるい半身を起こすと、彼女がそれに気づいて呆れたような笑みを向けた。


「やっと起きたのね」

「昨日、眠れなかったから」


 まだぼんやりとする頭でそう答えると、彼女は「しょうがないわねえ」と言って腰を上げた。どうやら何か淹れてくれるらしい。僕はベッドの上でうつ伏せに寝転がると、白衣を着ている彼女の後ろ姿を見つめた。雪のように白い肌は、ゆるやかに波打つ黒髪によく似合っている。大人のくせに大人じゃないような無邪気さを纏っている彼女は密かに皆から人気があった。

 誰もいないうちにこっそりと、彼女を見つめている時間が一番心やすらぐときだ。

 ふと、なにやら仕事に取り組んでいたらしい形跡のある机が目に入った。一体なんの仕事をしていたのだろう、と近寄ってみる。机に広げられていた冊子には、日本ではないと一目でわかる異国の地が大きく載っていた。どうやら西洋の国らしい。まったく仕事と関係ない内容に、僕は思わず笑ってしまった。


「ああ、こら駄目よ。それはプライベートのやつなんだから」


 僕の笑い声に反応した彼女が、慌てて近寄ってきて僕から冊子を奪い返す。よほど見られるとまずい物だったのか、彼女は顔を赤くして俯いていた。彼女の反応に、僕はにやける口元を抑えきれないまま訊ねた。


「旅行にでも行くんですか?」

「ええまあね。一週間パリに。三か月後のことでまだまだ先なんだけど」


 と、やや照れくさそうに彼女が答える。まるで楽しみで仕方ないというように。

 誰と行くのだろうか。一週間もパリに友達と行くというのは考えにくい。僕は先生の持っていた冊子を再び奪うと、ベッドに座り、じっくりとそれに目を通した。

 個人的に旅行にはあまり良い思い出がなかった。旅行に行って嫌な差別に遭ったわけではない。怪我をしたわけでも、危険な目に遭ったというわけでもないのだが、旅行という響きがなんとなく僕を不安にさせるのだ。

 彼女は僕が旅行に行きたいとでも思ったらしい。くすくすと笑いながらも感心したような目で僕を見る。


「そんなにパリに興味があったの? わっからないわねえ、あなたは」


 大人になったらお金溜めて行きなさい、と再び僕から冊子を奪い返す。ひらり、と白衣を翻しながらこちらに背を向けようとする彼女の腕を、半ば強引に引っ張って抱き締めた。驚いた彼女が顔を上げる。


「菜子さん」


 彼女の名を呼び、僕はそっと口付けた。彼女――奈子さんは、くすぐったそうに身を捩りながらも、本気で嫌がる素振りを見せない。それをいいことに、僕は言いたい言葉を飲み込むように、何度も何度も角度を変えて唇を重ねた。

 何秒、何分経ったのだろうか。ようやく解放された彼女の息は微かに乱れていた。


「気を付けて行ってきてくださいね。その時期、フランスは寒いだろうから」


 僕の言葉に彼女は怒ったようにそっぽを向いて言った。


「ありがとう」


 できることなら彼女を困らせるようなことはしたくない。でも、このまま無理矢理にでも彼女を攫ってしまえたらどれだけいいだろうという愚かな考えが、ときどき僕の脳裏を過るのだった。そうするともう止まらなくなってしまう。この感情は偽物だというのに。

 何か言おうかと逡巡していると、ガラッと勢いよく扉が開いた。慌てて彼女と距離を取る。


「せんせー、絆創膏ちょうだい」


 まるでタイミングを見計らったかのように現れた予想外な邪魔者に、僕は心の中で舌打ちをした。見られてしまったかもしれない。

 部活の途中だったのか、ジャージ姿の少女の腕には掠り傷があった。少し陽に灼けた肌は年齢相応で健康的だが、髪は暗め茶色に染められている。菜子さんとはほど遠い、同世代の少女の容姿に、僕は軽く現実を突きつけられる。少女はこの学校の生徒だった。そして、この僕も。彼女はこの学校の保険医で、僕はほぼ毎日そこへさぼりに来る常習犯。その関係は何があろうと変わることはないのだ。


「そろそろ帰ります。さよなら」


 彼女が何か言う前に、ベッドから立ち上がって保健室を出る。彼女と同世代の少女が会話をしている姿なんて見たくなかった。


「ねえ」


 後ろから追いかけてくる足音がするが、構わずに先を急いだ。


「ねえってば」


 いつの間に絆創膏を貼り終わったのか、さきほど保健室に来た少女は駆け足で僕の隣まで追いつくと、そのまま歩調を合わせて着いてきた。無視してそのまま歩き続けていると、それでも構わないと思ったのか、少女が一方的に喋り出す。


「私のこと知ってる? 同じクラスの山内だよ」


 “同じクラス”という言葉に反応して、思わず隣の少女を見た。しまった、と思ったがもう遅い。にや、と口の端を持ち上げて少女が笑う。


「山内美沙。けっこう席近くなんだけど」

「……あ」


 思い出した。いつも派手なグループにいるからわからなかったけど、確かに同じクラスの女子だ。山内は「べつにいいよ。あの中じゃ比較的地味なほうだしね」と笑いながら言った。こちらが反応に困っているのを見て、さらに笑みを深くする。


「友井くんてさあ、なに考えているのかわかんないよね。今も無視してたのに、クラスメイトだとわかると急に反応したりさ」

「それはどこかで見た顔だと思って反応しただけだ」


 普段は無視しようが冷たく当たろうが、それで他人からどう見られていようとどうでもよかった。しかし、あの現場を目撃したかもしれない人物が、自分のクラスメイトだと思うと、正直気が気じゃない。ただそれだけ。


「ふうん」


 山内は面白くなさそうに口を尖らせていたが、ふいに真剣な目で言った。


「宮内先生以外は眼中にないんだね」


 その言葉に、一瞬息をするのを忘れた。宮内先生というのは、他でもない菜子さんのことだった。


「お前……見てたのか?」


 声が上ずりかける。山内は困惑した表情で何か言い淀んでいる様子だった。疑惑が確信に変わる。こいつはあの現場を目撃していたのだ。


「友井くんが先生目当てでここに来ていることなんて、けっこう前から気づいてた。今日は偶然だったけど。ね、悪いこと言わないからさ、先生はやめときなよ」

「山内には関係ない」

「叶わないよ」

「だから関係ないだろ」


 そう強く言ってからはっとする。こいつはあのことを知っているのだ。山内は僕から視線をまっすぐに向けたまま言った。


「……友井くんてさ、見かけによらずけっこう馬鹿なんだね」


 ――叶うわけないのに。

 少し哀れむような眼をして最後にそう言い残すと、山内は僕から背を向けて走り去ってしまった。耳の内で彼女の声が何度も響く。

 そうだ。叶うわけないのに。わかりきっていたことだったのに、さらに現実を突きつけられる羽目になるなんて。このときの僕は予想だにしていなかった。


 それはいつもと変わらない朝。アリーナで行われる月曜日の集会はいつものように退屈で、ただぼんやりとそこに居るだけだった。早く終わればいいのに、と欠伸を噛み殺していると、ふいに「宮内先生からご報告があります」と教頭がマイク越しに言うのが耳に入ってきた。勢いよく顔を上げると、そこには緊張した表情で檀上に立つ菜子さんがいた。

 保険医が檀上に立って話すのは滅多にあることじゃない。実際、檀上に立つ彼女を見るのは入学式での挨拶以来だった。いったいなんの報告なのだろうか、と耳を欹てる。すると、次の瞬間、彼女が信じられないことを口にした。


「今月をもって、私、宮内菜子は須田菜子となります」


 そう言った途端、アリーナが歓声と拍手で賑わう。女性にとって苗字が変わるということは、結婚を意味していた。つまり、彼女は結婚するのだ。信じられない発言はそれだけにとどまらなかった。皆の歓声が止むのを待ってから、彼女が続ける。


「ありがとう。それで、今月をもって、私はこの学校を去ることになりました」


 ――え?

 空気が止まったかのような静寂が訪れる。彼女が何か言っているのがわかったが、どの言葉も耳に入ってくることはなかった。ただ、彼女が結婚してこの学校を去ってしまうという事実が、僕の胸にぽっかりと大きな穴を開けていくのがわかった。

 彼女が僕にキスをされても嫌がらない素振りをしていたのは、僕に興味があるというわけではなかった。むしろ始めから興味などなかったのだ。最初から彼女の眼には、僕はただの生徒としか映らなかった。それを自分の都合の良いように解釈していたのは他でもない僕自身だ。


「どうしてそんなに馬鹿なの」


 屋上へと続く階段の最上階で、ひとり何をするでもなく座り込んでいると、上から声が降ってきた。顔を上げなくてもわかる。山内だ。


「私はべつに先生だからやめとけって言ったんじゃないよ。宮内先生には彼氏がいるって前から噂があったんだよ」

「知ってるよ」


 そんなことは、言われなくてもずっと前からわかっていたことだった。


「じゃあどうして――先生なんかに恋したの」

「違う。これは恋じゃない」


 最初は“彼女”と重ねていただけだった。幼稚園からの幼なじみの彼女と。家が近所ということもあって、家族ぐるみで仲が良かった彼女を、いつの間にか僕は好きになっていた。将来は結婚しようね、なんて子どもらしい約束を交わしたものだ。だけど、そのとき僕はそれが本当になると信じて疑わなかった。


 それは中学卒業間際のことだった。彼女がアメリカへ引っ越すことになったのだ。到底、中学生の僕らが気軽に行き来できる距離じゃない。だけど、それでも、僕は一縷の望みに賭けてこう言った。「好きです、付き合って」と。僕の言葉に彼女は嬉しそうに頷いてくれた。手紙を書く、写真も送る――と笑いながら言ってくれたのに。


 結局、彼女がアメリカに渡ってからというもの、一度も手紙が送られてくることはなかった。馬鹿みたいにずっと連絡を待っていた僕が、もう彼女に会えるときは来ないのだと悟ったとき、二度と思い出すことがないようその痛々しい感情に蓋をした。

 菜子さんはその彼女にとてもよく似ていた。彼女が大人になって戻ってきたのかと思ってしまうほどに。たったそれだけのことで、蓋をしたはずの感情が再び元に戻るなんて、考えもしていなかったことだ。だからこれは恋なんかじゃない。


「所詮、偽物だよ」


 すべてを話し、僕は自嘲気味に言う。ずっと黙って僕の話を聞いていた山内が、やがて口を開いた。


「どうしてそんなに馬鹿なの」


 二度の同じ発言に、さすがに腹立たしくなって顔を上げる。


「偽物とか本物とか関係ないよ。そんなの、わかりきっていることじゃない。傷つきたくないから見ないふりしているだけでしょ」


 好きならそれでいいじゃない、と簡単に言う彼女はやはり歳相応で、でもその発言に救われている自分がいた。




     * * *




「今日は来ないかと思ったわ」


 放課後の保健室で、椅子に座って書類をまとめていた菜子さんは、僕と保健室の外にいる山内を見るなり言った。


「……私があんなこと言ったから」

「今日は、お別れを言いに来たんです。ここに来るのは、今日で最後にしたいと思います」

「そう」


 彼女は特に驚いた様子もなく、しみじみと「寂しくなるわね」と言った。


「あなたが“彼女”の話をしたとき、私でよければ力になりたいって思ったのは確かよ。でもそれは特別な感情じゃなかった。安易にあんなことするんじゃなかったと思うわ。傷つけるようなことをして、ごめんなさい」


 菜子さんの口から出たのは予想外の言葉だった。なにも考えなしに僕を受け入れたわけではなかったのだ。彼女は彼女なりに、僕のことを考えていてくれたのだろう。


「あなたもこれからは変に大人ぶらないで、同級生と関わりなさい。遊びも恋愛も、同じ年頃の人ほど気楽なものはないわよ」


 彼女が僕の後方に目をやりながら言う。僕は彼女の言葉に肯定も、しかし否定もせずに言った。


「先生、おめでとうございます」


 幸せになってください。心から思う言葉を口にする。


「愛していました」


 僕は目の前の菜子さんのことも、そしてあの“彼女”のことも確かに愛していた。好きだと自覚した途端に失恋したはずの胸は、さっきよりも不思議と痛くはなく、ただ現実を受け入れて切なく鳴るだけだった。






- 完 -


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