第460話 第2の盟主
――地中海東部 某所――
時はほんの少しだけ遡る。
勇吾や良則達が『天界神』天之常立神と接敵し、直後に隔離世界に監禁されてから1分も経つかという時、日本から遠く離れた地中海でそれは起きた。
――――ZUZUZUZUZUZUZUZUZUZU……
海面が――正確には海面に平行に接する空間そのものが捻じれる様に沈んでいく。
遠目にはゆっくりと見える速度で開いていく大穴、直接海に開いた穴ではないせいか海水が流れ込むことはなく、ただただ底の見えないほど深い、とても深い大穴がひらいたのだった。現実時間にして1分を超えるかどうかの事だった。
大穴が開ききってから20秒ほどは何も起きる事無く静寂が続いていた。だが、30秒が経とうとした時、「それ」は突如として浮上した。
『――――――――』
闇の様に黒く、不気味に蠢く球体状――表面は平らではない――の存在は巨大な気球の様に静かに大穴から垂直に浮上してゆき、海面から500メートル以上の所で停止した。
それは見る人によっては爬虫類の卵、それも孵化寸前のそれだと思ったのかもしれない。そしてそれを証明する様に“それ”の表面に一筋の罅が走りだした。
――――ザババババ!!
その後はあっという間だった。
罅が走った直後、“それ”の表面を覆っていた何かが一瞬で消滅し、大量の黒く澱んだ液体が巨大な滝の如く大穴の底へと流れ落ちていった。
そして――――
『■■■■■■■■■■■■■■■――――!!!』
欧州、中東、アフリカ――――地中海に面する地域だけでなく、海を越えた北米や南米、オセアニアなど、地球全域が絶叫とも悲鳴とも取れる轟音で揺れた。
人間には理解不能な音で発せられた“それ”は、しかし、明確な意思――――計り知れぬ狂気が込められた故に、精神が無防備な状態にあった人間全てを一瞬にして無力化した。加えて元から狂気を宿していた者、精神の歪んだ者は呆気なく堕ちた。
『■■■■■■■■――――生エヨ、大樹』
声ならざる声の後に続く短い人語、それが発せられた直後に大穴の底からどす黒い何かが飛び出してきた。
樹木のように見えるそれは巨大な幹を一気に伸ばしたかと主合えば海面から200メートルを超えたところで何本もの枝に分かれていき、それらの枝は縄を編むように絡み合っては巨大な六角形のような大樹へと成長していき、その頂は地上からは視認するのは困難だった。
『■■■■■■――――実レ』
縄状に絡み合った枝が更に絡み合い分かれていく10の支点、そこに仄暗い色をした大輪の花が咲き、直後に萎んだかと思えば次には巨大な宝玉状の実をつけ始め、実は少しずつ大きく成長していく。
大穴の底から“養分”を吸い上げていく大樹は僅かに脈打ちながら10個の実を育ていき、実が育つのに比例して枝葉から黒い霧上の何かを放出していき世界を暗く染め上げていった。
『………………』
「それ」は静かに大樹が成長していくのを見上げる。
しかし直後、何かに反応した「それ」はその首を西の方へと向けた。
―――――ゴッッッ!!!
世界が真っ白に染まり、大気が一瞬にして破裂した。
いや、正確には超高温の炎の塊が閃光を放ちながら大樹に直撃し、落雷の如き轟音を発して地中海を文字通り火の海に変えたのだ。
『――――――龍王』
「それ」が見上げた西の空、そこには炎の化身とも呼ぶべき紅蓮の龍が険しい目で「それ」を見下ろしていた。
全身のほとんどを炎と同化させ小さな太陽の如く地上を明るく照らす紅蓮の龍、「それ」と勝るとも劣らぬ存在感を隠す事無く晒すその姿はまさに圧倒的強者の、王者の風格が確かにあった。
『何処までも現世を汚さねければ気が済まないのか!『楽園の蛇』!!』
紅蓮の龍は「それ」――――『創世の蛇』の《盟主》の1柱である『楽園の蛇』サマエルに向けて咆哮とともに怒声を上げた。
直後、サマエルを中心に地中海の全域を飲み込むほどの業火が立ち昇った。
――――紅蓮断罪劫火
天を貫くほどの巨大な火柱がサマエルと大樹を飲み込み、渦巻きながら熱波と共に立ち昇るその姿は世界の終焉、または神の御業を彷彿させるものだったが、幸か不幸かそのような思考ができる「普通の目撃者」はほぼ皆無だった。
サマエルの最初の咆哮により無力化された者はただ茫然と眺めるか失神し、狂気に堕ちた者はそもそも正常な思考を既に持ち合わせていなかったのだ。
その中で、巨大な火柱を直視できていたのは火柱を生みだした本人を含めた参戦者達のみだった。
『――――無駄――――失笑――――無効――――既知――――排除――――滅龍――――根源――――概念――――不遜な――――………』
火柱の中から声が漏れだしてくる。
壊れたラジオの様に雑音交じりだった声は次第に鮮明になってゆき、まるでこの世界に合わせて調整しているかのようにより広く世界に浸透していった。
『――――龍神ノ成リ損ナイ如キガ、“始マリ”タル我ノ邪魔ヲスルカ。神代デノ一度限リノ勝利ニマダ酔ッテイルヨウダ』
火柱が一瞬で消滅、中から巨大な胴体を起こしながらサマエルの頭が龍と同じ高さまで上った。
小さく纏まっていたサマエルの体は天を覆うように広がり、その中心には大樹が佇む。
手足の存在がない事にさえ気付かなければ東洋の龍とも見紛えるかのようだった。
『“赤”ヲ冠スル王……神格ヲ持チナガラ定命タル愚カナ龍ヨ。奇跡ハ二度起キハシナイ。旧キ世ハ、旧キ神性ハ此ノ時ヲ以テ消エル。全テハ混沌ヘ帰リ新タナ創世ガ始マル――――』
『させるか』
サマエルの言葉を遮って赤い龍が遮る。
同時にサマエルの全身を飲み込む炎が発生、空一面が炎上した。
『元より貴様との問答は無意味だ。狂気により神性が歪み切った貴様と我らは既に違っている。完全に外れてしまった以上、最早完全なる討滅をする外は救いは無い。サマエル、貴様の保有する全ての神格ごと終わらせる』
龍の咢が大きく開く。
そして次の瞬間、太陽を思わせるほどの閃光を放つ炎が放たれた。
――――原初の龍炎
欧州全域だけでなく北アフリカ、中東、大西洋と広範囲が炎の白光に飲み込まれていく。
しかも炎は一撃では終わらず、幾度となく龍の咢より放たれ続けていく。
まるで世界ごと焼き尽くすかの如く放たれる炎だが、不思議な事に膿だけでなく地上の何処にも被害を与える事は無かった。まるで守るべき対象には一切干渉しないかのように。
『―――――クク……カカカ………ハハハハ……!』
炎の中から嘲笑の様な声が漏れてくる。
悪意と狂気に満ちたその笑い声は次第に大きくなってゆき、炎の中から大蛇の頭部が浮かんできた。
『愚カ……無様!原初ノ炎ヲ持チ出シテソノ程度カ?我等ガ封印サレテイル間ニ随分ト軟弱ニナッタモノダナ!』
サマエルの口調が少しずつ変化していく。
赤い龍の炎の直撃を受けたにも拘らず傷らしい傷を一切負っていないサマエルは嘲笑の声を上げ続け、それに呼応するように大樹――――その10個の実から禍々しいオーラが放たれ始めた。
『旧キ世ヲ庇護シ続ケタ末ニ其ノ様カ!』
『………』
嘲笑し続けるサマエルを赤い龍は無言のまま睨み続ける。
『貴様ガソノ様ナラバ、最早出シ惜シミハ無用!此ノ世界諸共、我等ノ神威ノ前ニ滅ビルガイイ!』
直後、サマエルの胴体が膨張し風船のように破裂して噴水の様に赤黒い何かが噴き出した。
『――――我ハ蛇。原初ノ神性ノ半身ニシテ全テノ天ト魔ノ根源、大イナル《大樹》ノ蛇ナリ』
赤黒い何かは何対にも分かれ歪な翼の形に変化し、サマエルの背に6対12枚の翼が形成された。
そして目の存在しない大蛇の顔からは赤黒い血が涙の様に垂れ流れ始めた。
『旧キ被造物共ニ執着スル愚カナ者共ヨ、己ガ愚行ヲ悔イナガラ新タナ創世ノ糧ヘト還ルガイイ。全テハ“真ナル世界”ヘト至ル為ニ在ル!』
サマエルの世界中にめけた宣告、それに呼応するように地中海を中心に各地で異変が起き始める。
海も陸も関係なく、各地に赤黒い柱が立ち昇り、それらは蔦の様に蠢いていた。
『貴様モ還ルガイイ!』
海面から何本もの赤黒い蔦が飛び出す。
蔦はサマエルと対峙する赤い龍に襲いかかった。
『――――言う事はそれだけか?』
その瞬間蔦が炎上、そのまま龍に届く事無く炎と共に消滅した。
『ッ!』
『一つだけ言っておく。貴様らの狂い切った『大命』に屈するほど、世界も此奴等も弱くは無い』
直後、真紅の一閃がサマエルの頭部を横切った。
―――――ブシュッ!
それはほんの小さな切り傷だった。
巨大なサマエルの体からすれば傷の内にも入らないであろう小さな一本の切り傷だったが、龍の炎にも無傷で耐えたサマエルの体に確かな傷が付き、更にはそこから僅かに血が噴き出した。
「……神剣でも掠り傷一つか。伊達に《盟主》を名乗っていないか」
『いや、初手で傷を付けられただけで重畳だ。これで今回も奴が絶対ではない事を証明された』
その少年、いや青年は何時の間にか赤い龍の隣に立っていた。
空中を足場に立つその青年は真紅の髪を風で揺らしながらその手に持った剣を一瞥すると、龍と共にその視線をサマエルへと向ける。
すべてはまだまだ想定内であると相手に告げるかのように。
『挨拶は終わりだ。此度も我々が勝ち、そして此度をもって全て終わらせる』
『………ナラバヤッテミルガイイ。成リ損ナイノ龍神――――赤ノ龍王!』
サマエルは微かに怒りの籠った声で赤い龍こと『赤の龍王』ルベウス、その契約者『黎明の王』エリオットへと言葉を返す。
かくして、日本から遥か西でもまた《盟主》との戦いの火蓋が切られたのだった。




