第401話 国之常立神
――インド――
日本から遥か西に位置するインド北部の山奥。
小さな村と古びた寺院のみがある、都市部からは滅多に人が来ない辺境の地、しかし、此処に暮らす住民達は一様に明るく、今の暮らしに満足しながら楽しく暮らしていた。
だが、現在この地域一帯は不気味なほどまでに静まり返っていた。
空一面が不気味なほど赤く染まる中、夜明け前とはいえ普段なら朝の早い大人達が数人は外に顔を出している筈だというのに、まるで廃村であるかのように静寂に包まれていた。
「……時を止めている者がいるな?」
古びた……いや、今は廃墟と化した寺院を後にしながら『鬼神』は独り言を呟いた。
白装束を見に纏い一糸乱れず歩く姿は一見修行僧にも見えるが、その全身にに夥しい量の血の臭いを漂わせていた。
「あからさまな時間稼ぎである事は明白。如何に知恵を振り絞ろうとも、既に決められた運命からは逃れられぬ。それを今より世界に示そうぞ」
そう言うと、右手に握り締めていた錫杖で足元を突く。
シャンという音が周囲に響き、同時に『鬼神』の背後に巨大な影が現れる。
「食事は終えた。我等は東へ征こう。羅刹よ」
東の空を見つめながら、『鬼神』は背後に立つ巨大な影の主に語りかけ、影の主は黙したまま頷き、ゴクリと何かを飲み込んだ。
その数秒後、『鬼神』と影の主はジャンッという音と共にその場から姿を消し、残されたのは夥しい血の跡が散乱する無人の寺院と、同じく無人となった小さな村のみだった。
この日、インドの山奥で幾つもの村が全滅した。
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――日本 東京某所――
蒼空の爆弾発言の後、勇吾達はガーデンから東京のとある神社の境内に移動していた。
世間では通勤ラッシュの時間帯だが、その神社の前を通る大通りには一般人の姿は無く、彼らは人目を気にせず準備を進めていた。
「此処が最寄で一番適した“神域”だ。既に周囲には人避けの結界を張ってある。まあ、あの空を見たら参拝どころじゃないだろうが」
「成功率は大丈夫なのか?」
「今回はそれを算出する必要は無い。奴が協力を申し出てくれたお陰で、実行さえできれば失敗は無い。だから警戒は怠るな」
勇吾と会話をしながら蒼空は素早く準備作業を終える。
地面に梵字やルーン文字といった数種類の文字を使用した魔方陣が敷かれ、その回りを灯籠にも似た金属製の置物が設置されている。
端から見れば新興宗教の儀式場にも見えるそれは、彼が急遽現れた「協力者」の力を効率よく世界に干渉させる為に用意したデバイスである。
そしてその「協力者」は勇吾達から距離を置いた場所で彼らの様子を眺めていた。
『………』
「協力者」は無言のまま勇吾達の作業を見守る。
そこへ、今はまだ出番のない黒王が話しかける。
「迷っているのか?」
『そうではない。今更ではあるが、人の子というのは時に神すら戦慄させる行動をとるものだと驚いているだけだ。長い時の中で『神殺し』は幾人と見てきたが、世界ではなく個人の為に最高位の神々と戦をしようとはな』
「それも“子供が”とは言わないのだな?」
『齢は関係ない。何より古き世でなら、彼らは既に成人している。私が言いたいのは、“神”を畏れ祀り続け、時に政に利用するだけだった人間の中からあのような者達が現れるのが不思議でならない、という事だ』
「……。お前も人間によって使い潰された過去があったな。国之常立神」
国王の言葉に「協力者」こと国之常立神は何も答えなかった。
彼の神は日本書紀では天地開闢の際に最初に現れた神、古事記では別天津神の後に最初に現れた神とされ、その名には「日本国が永久に立ち続けるの」や「日本国の国土の出現」といった意味があり、古くから始原の神や全ての根源を司る神として信仰されてきたが、一方では時代によって政治事情により不遇の扱いをされたりするなど、人間の都合に振り回され続けてもいた。
もっとも、古今東西の神は例外なく人間の都合により振り回されているのだが。
『――――今、私に協力できるのは此処までだ。“加護”と僅かな“知恵”、これ以上は干渉範囲を超える上、私は余程の事が無い限りは契約は結べない。それが世の理だ』
「理解している。後は勇吾……いや、俺達で解決すべき事だ。此処までの御助力、感謝する」
謝辞と共に黒王は頭を下げる。
国之常立神はそれを無言で頷きながら受け取り、再び視線を勇吾達の方へと戻す。
此処から先は見届け役に徹すると言わんばかりに全身に纏った空気を周囲に溶け込ませ、万人の意識の外へと存在を移した。
その横で、そっと彼の神から視線を逸らした黒王は目を細めながら1人黙考していた。
(あれほど人の世への干渉を避けていた奴が重い腰を上げるとはな。良くも悪くも天神に多少は丸められたのかもしれないが……やはり、避けられないのは確実という事か)
その神格故に違う世界に居ても少なからず親交のあった神の前代未聞の驚愕しながら、黒王はほんの数十分前の事を思い返していた。
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――回想――
赤い空を確認し家へと戻っていった勇吾を見届けた直後、黒王は空を見上げながら自分の横に向けて声をかけた。
「――――そこに居るのだろう。国之常立神」
『……流石に、お前は気付いていたか』
其処には1柱の男神が立っていた。
この国において最も旧き神の1柱であり、此処には居ない天神雷鳥の祀られている神社の祭神である“根源”を司る神――――国之常立神であった。
「ライは一緒じゃないのか?」
最近姿を見せなくなった仲間が同行しているのではと思って訪ねるが相手は首を横に振って否定した。
『あの者は今、私の指示で動いて貰っている。契約者が呼べば来るだろうが、此方も此方で重要な案件である為、もう暫くは戻っては来ることは無い』
「それは、今回の件と関係する事か?」
『否ではないとだけ答えておく』
「……そうか。ならばこれ以上聞くのはよそう」
何かを察したのか、黒王はそれ以上ライの事を追及するのを止めた。
「それで、此処へ来たのは今回の件――――この“赤い空”とは無関係では無いのだろう?更に言えば、《盟主》の1柱とも」
『時間が無いので結論から言う。此度の件は我が半身たる天之常立神の意志によるものだ。他の神には感じられないが、彼の者の明確な敵意を私は感じている。既に封印のほぼ全てが解けている以上、これまでの様に加減して動く事は無い。断言する。このままではこの世界は終わる。それを避ける為、汝らに協力を申し出に来た』
「やはり、か……」
国之常立神の声には微かに焦りがあり、それを黒王は見逃さなかった。
目の前の男神は一切嘘を吐いてはいない。
そう確信した黒王は続きを話すよう勧める。
『既に彼の者の《眷属》達は各地で「封印されし者」、「滅びし者」を復活させている。以前現れた『大罪獣』という出来損ないではない、真なる存在として現世に蘇らせ続けている』
「――――ッ!」
黒王は息を飲む。
ほんの数ヶ月前に日本を始めとした各所で被害を齎した『大罪獣』――その中でも邪神・悪神といった『大罪獣』を器に復活した神々――を出来損ないと言われた事にではない。
あの“悪神・邪神達は『大罪獣』を仮初の器にして復活した不完全な存在”であり、その力も各々の神の全盛期と比較すれば明らかに劣っていたのを黒王はよく覚えている。
だが、今回復活しているのはそんな不完全な存在ではなく、全盛期の状態そのままの、『大罪獣』のような仮初の器を必要としない「完全な存在」だという。
つまり、これからこの世界では中途半端ではない完全な状態の神々が暴れるという事である。
『元来、我等は現世での活動を大きく制限されている。最近は諸事情で異国の神アポロンが別世界の現世に長期で滞在しているが権能のほぼ全てを封じられている。だが、此度復活した存在等にはその制約も戒めも効いていない。思うが儘にその力を奮う事になる。言うまでも無く由々しき事態なのだ』
「それをどうにかする為に来たと?」
『如何にも。今世は神代とは異なる。嘗ての時代の様に我等が直に顕現して彼奴等と戦う事は叶わぬ。今世を生きる者達の力に頼らざるをえない』
「俺達よりも相応しい者達が居た筈だが?」
『その者達は不干渉を決めている。現時点で頼れるのは汝らのみだ』
「……」
黒王は内心舌打ちした。
この世界には勇吾達よりもずっと強い猛者達が複数存在するが、その者達は事情はどうあれ傍観に徹するつもりらしい。
『他の天津神達も私と同意見だが、此度の件では“路”を開く以外の干渉は出来ない。契約すれば別なのだが、つい数日前に揃ってとある個人と契約を結んだために新たに別の個人と契約を結ぶことが出来なくなっている。現状、この国の高位神の中で自由が利くのは私と須佐之男尊のみだ』
「……協力は有り難いが、具体的には何を?勇吾達と契約を結ぶのか?」
『解っているのだろう、黒の龍王?私が与えられるのは“加護”と“知恵”のみであると』
「……」
『そして、与えられるのは現状1人までだ。複数人には与えられない。誰に与えるか、それはお前が選べ、黒の龍王よ』
「1人、か……」
意味深な指摘を受けながら黒王は黙考した。
選べるのは1人だけ。
この時点で黒王は自分達が敵に先手を取られ不利な状況に陥っている事を理解し、この状況を打開するには並大抵の策では駄目であると悟っていた。
最も必要なのは戦力、それも最低でも龍王である自身以上の者達でなければならない。
他にも理想はあるが、それらを加味した上で黒王はある人物を選んだ。
「――――転生者である諸星蒼空に与えて欲しい。そして“ある情報”も」
『了解した』
そして1人と1柱は即座にその場から《転移》にて蒼空の下へと移動し、彼に事情を伝えた上で了承させて国之常立神の加護を受けさせた。
黒王はそのまま勇吾の下へと帰還し、残った蒼空は国之常立神の知恵を受けつつ準備を始めたのだった。
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(この神は自身の存在を賭けているのだろう。《盟主》を討滅するにしろ封印するにしろ、どの道奴も只では済まない。《盟主》の1柱である『天界神』は奴と対を為す半身。場合によっては共にこの世から消滅することになる)
それも致し方無い、と考えているのだろうと思いつつ黒王は視線を勇吾達に戻す。
準備は全て整い既に作戦が開始されようとしていた。
「何時でも始められる。準備は良いな?」
「ああ!何時でも大丈夫だ!」
「OK~♪」
「此方も万端だぜ!」
「直ぐに始めて!」
勇吾達はそれぞれ蒼空が用意した『神器』を構え、後は蒼空が魔術を発動させるのを待つだけだった。
蒼空が予め用意していた作戦の内容は全員の頭の中に入っており、此処からは如何に速く動けるかが勝負の鍵となっている。
成功するまで対象に気付かれてはならない。
相手はその身に宿す“神毒”故に他者との、特に同族との接触を避け続け、気付かれれば即座に逃亡するのだから。
「では、開始する」
蒼空の声と共に魔方陣が発光し、次の瞬間には彼ら全員を飲み込むほどの空間の穴が魔方陣を中心に出現した。
そして、彼らは迷うことなく穴の向こうへ飛び込んでいったのだった。




