火を共すもの6
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「……どうやら、許容範囲を超えたみたいね。…貴方は、多分自分の心を疎かにし過ぎた。心の声を無視し続けたんじゃない?その貴方の独りよがりが、貴方に破滅を……」
「た、すけ……」
浅い息を繰り返しながらここまで聞いて、何かがおかしいと感じた。
さっきの世界の停止は《時間逆行》の前触れではないのか?
何がおかしいかって――。
「なんで、こんなちょっとしか戻らないんだ…?」
次の瞬間、またしても体内を虫に這いずり回られるような感覚が時定を襲った。
《時間逆行》の能力者にして、記憶を持ち越す時定であるから、二度続けてということになる。
…ではあるが、慣れなんてことはもちろんなく、何が原因かが判明したことでむしろさっきよりも気持ち悪く感じられた。
「時定君、覚えておいて。これが――」
「嫌だ、心が壊れる…」
その氷丘の言葉を先読みしたような発言に、凍狐が時定の顔を覗き込んだ。
「…もしかしてとっきー。今、時間を?」
凍狐の質問に、必死で気持ち悪さを堪えて小さく頷いた。
「ねっ、美咲!」
こちらを振り向いた氷丘の顔も動揺しているようだが、それでも前を向き直り凍狐の言葉を遮る。
「それは後にしましょ。…出て来るわ」
そう氷丘が言ったのとほぼ同時に火野の体から完全に《何か》が抜け出した。その途端、気持ち悪さが最高点に達し、軽く目眩まで覚える。
「大丈夫?…あのね、なんとなくは分かるだろうけど。あれが《野良》よ」
時定の背中を尾でさすってくれながら凍狐がそう説明する。
喉元まで迫り上がる気持ち悪さのせいで涙目になりながらも、その揺らぐ視界の中で時定はなんとか正面を見た。
四足で立つその獣は、大きさこそ少し小さいものの、昨日校庭で見たものと同じような形をしていた。
大きな相違点を挙げるとすれば、目の前の獣の口からは赤い炎がチラチラとのぞいていること。だが、まるで影で出来ているような、全身のおぞましいまでの黒さはやはり変わらない。
「あんなふうには、なりたくないものね……」
細められた目に悲哀の色を濃く浮かべながら凍狐が呟く。
凍狐の口ぶりや今の現状から察するに、野良と呼ばれる心獣達は揃ってこんな風貌のようだ。実際、口元の炎が無ければ時定は昨日までの見馴れた野良と同じ個体だと思ったことだろう。
「グ、ガガグッ…」
獣は氷丘に対して低く唸った。氷丘が手に持っていた瓶の栓を指で器用に弾く。
「…貴方からすれば主人を壊した張本人ですものね。威嚇されて当たり前か。…少し痛いかも知れないけれど、ゴメンね」
本当に申し訳なさそうに言って、栓を開いた瓶を大きく振った。必然、空中へと中の水が零れるのだが、その水は氷丘の胸くらいの高さまで落下すると、鋭利な形状を保って凍り付いた。
「――っ!」
何事かを囁き氷丘が左手を払うと、弾き出されたように氷の破片が野良へと向かった。
これを時定は昨日、一度見ている。雨を凝固させて攻撃していた昨日のあれの晴天時版という訳だ。
考えてみれば、今日のような雨などの降っていない日では、水を凍らせて戦う氷丘のようなスタイルは攻撃源たる水分を持参しなくてはならないのか。瓶に入れてきた水道水はつまりそういうことで――。
そこまで漠然と時定が考えたその時、氷丘の動きを見た獣の血のように紅い眼が鋭く細められた。そして、牙の間から漏れだす炎が激しさを増し、
「グウッ、バァッ!」
お互いの中間地点で、氷と吐き出された炎がぶつかり合い、互いを相殺した。しかし、数で勝りその衝突を避けたいくつかの破片が獣の体に傷を刻む。
「グガッ!…キュゥーン……」
情けない声を出し野良が後ずさる。毛の荒く逆立った尾が、ちょうど飼い犬が飼い主に叱られたときのように後ろ足の間に巻かれた。
「そのまま大人しくしててね…」
そう言ってポケットから昨日と同じ紙の札を氷丘が取り出す。あとは、前と同じようにその札を野良に張り付け――。
だがその時だ。ビルを背に、後ずさっていた野良が動きを止め、先程より低く唸った。
牙がこれでもかというほど剥き出しになり、口角が深く裂けていく。そして、その口から漏れだす炎が紅から――蒼へと染まった。
「なに…?」
いかぶしむように眉をひそめる氷丘に向かって、立て続けに《蒼い炎》が吐き出された。
「っ!?凍狐!」
「ゴメンね、とっきー!」
氷丘が横に飛び炎を回避し、凍狐が時定を突き飛ばしたので、地面に強かに叩きつけられはしたものの、炎が当たるのは免れた。
「ごめんなさい、時定君!」
氷丘に謝られるが、何がなんだか時定には分からない。補足のように凍狐が言葉を続ける。
「あのね、とっきー。蒼い炎って温度が高いのよ。分かる?理科とかでやらなかった」
「えっと、よく分かんないけど……消せない、ってこと?」
「うん、そういうこと!」
氷丘が手に残った札の燃えカスを忌ま忌ましげに眺める。どうやら燃えてしまったようだ。
さらに後方を振り返る。会社の敷地を囲うように設置されていた鉄製の柵が円形に熔けていた。
「どうしろって言うのよ…」
そう言って、続けざまに新しい瓶を二本宙へと放り投げる。空中でぶつかった二本の瓶は砕け、水と瓶の破片が氷丘に降り注ぐ。
「――っ!」
再び何かを囁いた後には、今度は氷丘の左手に昨日と同じ流麗な剣が握られていた。瓶の破片だけが地面へと到達した。
「グガブァッ!」
形勢の有利を感じたのか、野良の口元から蒼い炎が激しく漏れる。
「…札の予備とかは?」
「ないわ、そんなの」
時定の期待を込めた問いに間髪入れずに即答し、氷丘が大きく髪を掻き上げる。
「戦闘中に進化…。それでも、とにかく接近できれば……くっ!?」
氷丘の独り言の間に、野良から再び蒼い炎が吐き出される。それを今度は氷の剣で受けたのだが、消し切ることができずに残った火の粉が氷丘の髪や服を焦がし、剣の形も大きく変容させた。
大きく腹の辺りが削られたそれを、氷丘がしげしげと眺める。
「…あと二回も耐えればいい方ね。…冷気は剣に集めてるのにこれじゃ。何か、方法は、……あっ」
何かを思い出したように氷丘が勢いよく振り向いた。
「そうよ、時定君!銃!」
「へっ、じゅう…?」
「そう、鉄砲!」
「あっ!」
慌てて自身の右腰へと手をやる。そこには、ここに送り出される前に英木に手渡された対心獣用麻酔銃が。今の今まで完全に忘れていた。
「でもこれ、どうするの!?」
「決まってるでしょ?撃って、それで!」
「僕が?…む、無理だよそんな!」
氷丘の無茶ぶりに大きく頭を左右に振った。
所詮、時定はただの中学生だ。銃などモデルガンすら扱ったことのない時定に、どうすればいきなり本物を撃つことが出来るというのだろう。
そんなふうに、気持ち悪さのせいもあって回転の悪い頭で言い訳を考えたが、それよりも氷丘が先に動く。
「一瞬隙は作るから。お願いね!」
そういうと、右手で足元のガラスの瓶の破片を拾い上げ、氷丘は駆け出した。
「えっ、ちょっと!」
時定の制止の声は届かず、走った勢いを乗せて氷丘が投げたガラス片が獣の眉間に命中した。怪訝そうに一つ低く唸った獣の眼が、時定から離れていく氷丘を追っていく。
今なら獣の視界に時定は入っていない。…絶好の射撃チャンスだ。
「もう…!」
半ばやけくそになりながら時定は銃を一気に腰から抜いた。銃口が真っ直ぐ獣を照準する。
だが、引き金に指を掛けると銃身がブレ出した。気付けば銃を構えた時定の腕が大きく震えていた。
「っ…!やっぱり、無理だよ…」
やったことのない、未知の体験への恐怖が時定を極度に緊張させていた。
「…これ撃ったら、法律に引っ掛かっちゃうかもしれないし。…これが本当に効くのかも分からないし。…それに、どうせ僕なんかじゃ当たらないよ…」
傍にいる凍狐に言うでもなく、誰に向けているのかも分からない言い訳が口から勝手に零れた。銃を構えていた腕も自然に下がっていき、銃口が地面にぶつかって、コツンと音を立てた。
目の前では今だって氷丘が戦っている。炎が自分を狙い撃てないように細かく動き回り、隙を見てはサイドスローの要領で手に握るガラス片を投げ付けていく。
その度に、獣が不機嫌な声を出す。首を左右に振りながら攻撃する機会を図っているようだが、中々チャンスが訪れないことに不満げだ。
「そうだ…」
今時間を戻せれば、と時定は考えた。札が燃える前に戻れればこんな事にもならないんじゃ、と。
だが、それには前提として任意のタイミングで《時間逆行》が出来なくてはならない。…そしてそれは、時定には出来ないことなのだ。
再び落胆し、俯いた時定の顔を白い尾が叩いた。
「うわっ…。凍狐、何を」
「下手な鉄砲も数撃てば当たる、って言うじゃない?」
「それが…」
「やってみる前に諦めちゃ駄目よ。バレバレだからね」
凍狐の尾が時定の腕の下に入り込み、射撃可能な高さまで持ち上げた。その時、ついに吐き出された炎が氷丘を捉え、左手に握られていた剣を完全に溶かした。氷丘の顔が歪む。右手も開かれており、既にガラス片もないことが分かった。
「いい?今、時定君が撃ってくれなきゃ美咲は負けるわ。…それが効かないかもしれないし、当たらないかもしれない。でもそれって、撃ちさえすれば効くかもしれないし当たるかもしれないってことよ。やってみましょう、ね?」
諭すような凍狐の口調にいつしか腕の震えは止まっていた。
銃の射線の先には今にも火を吐きそうな野良が見えた。凍狐にもらったなけなしの勇気をかき集め、銃のトリガーを引いた。
パンッ!!
乾いた音が響いた。反動で少し肩が痛んだ。…が、それだけだった。音に反応した野良が紅い眼で時定を見た。口元が獰猛に笑った。
「っ……」
火が飛んで来ることを覚悟した。凍狐が時定の前に進み出る。
構えたままの銃の向こうで野良の口が開かれ…停止した。
野良の四肢が力無く崩れ落ち、焔を吐くことのなかった口から小さく煙が上がった。
「当たったんだ…」
状況をそのまま口にした時定の言葉に、まず一番に凍狐が反応した。
「やったじゃない!」
凍狐の前足が時定の肩に乗せられた。人同士で行えば、『ハグ』と言われる行動だが、相手が凍狐であるからか、全くそんなことは意識しなかった。
「やった…当たったよ…」
「ねっ、だから言ったでしょ」
放心気味の時定を凍狐が褒めたくる後ろで、氷丘が地面に崩れたまま沈黙を守る野良に近付いた。野良のそばでしゃがみ込み、その横腹を指で突いた。
「本当に反応しないわ。英木も偶には、まともな物も造るってことね」
そう言って氷丘は、野良の脇腹に掌を当てながら眼を閉じた。すると、ピシピシッと小さな音を立てながら野良の全身を透明の氷が覆っていった。
「直接触れば、濡れてなくても凍らせられるんだね」
声をかけた時定にひどく疲れた笑顔を氷丘が向けた。
「あれはね、ちょっと違うのよね」
そう答えたのは凍狐だった。時定から体を離し、すぐ正面に鎮座している凍狐に軽く首を傾げてみせる。だって、凍狐の言葉は少し意味深だ。
「違うって?」
「えっと…美咲、とっきーになら話してもいい?」
「……んー」
氷丘の顔が渋くなる。凍狐が苦笑いを浮かべる。
「テイマーの能力ってね、そのままその人の過去に直結してるのよ。だから、説明しちゃうと美咲の過去が分かっちゃうって言うか…」
「凍狐」
「大丈夫よ。言わないわ」
「違う…何か感じない?」
いたって真剣な面持ちで氷丘が時定に歩み寄る。その間も何かを探すかのように、視線が散らばる。
「…そうね、何かしら?」
氷丘同様、何かを感じたらしい凍狐も表情を硬くした。
だが、時定は何も感じない。強いて言えば、冷気使いが警戒を強めたせいか、周囲を白い冷気が漂い始め肌寒く感じる。
「…そこね」
時定の前まで来た氷丘が呟いた。氷丘の綺麗な指が銃を握ったままの右手に絡んだ。時定がドキッとした次の瞬間、乾いた銃声が立て続けに三発響いた。
時定に触れていた氷丘の手が、銃を握ってビルに向けていた。
「出て来なさい。じゃなきゃ次は当てるわよ」
威圧的な氷丘の声だが、もちろん答えるものはいない。
――はずだった。
『危ないッスね。当たったらどうするんスか……あっ…』
《心話》だ。聞き慣れぬ声が時定の中に響いた。だが当然と言うべきか、声の主は見当たらない。月明かりのためにビルには時定たちの背後に立つ電柱の影が写っているが、それだけだ。
「…出て来なさいよ」
謎の高い声に対し、氷丘が低い声で答える。再び引き金が引かれ、ビルの壁に麻酔弾が弾けた小さな音がする。
その時、明らかに不自然な光景が時定の目に飛び込んだ。氷丘が撃ったあたりにあった、電信柱の影だとばかり思っていたそれが、グニャリと曲がったのだ。
「場所がばれないようにしてるのかも知れないけど、意味ないわよ」
銃を下ろして言う氷丘にしばらく答える声はなかった。さっき曲がった影も、錯覚だったのかと思ってしまう。今はもう、電柱らしくただの真っ直ぐな影だ。
「もう逃げたんじゃ…」
氷丘に声を掛けようとするが、凍狐が無言で止める。
諦めたようなため息が聞こえ、再び視界に変化が訪れた。
電柱の影に波紋のようなものが広がり、そこから真っ黒なフードを被った小柄な人影が現れた。
「……はぁ」
無言で見つめる先で、その小柄な人物が今度はハッキリと分かるため息をついた。
「なんでそんなやる気満々なんスか。自分、戦闘向きじゃないんスけど」