火を共すもの5
◇
「ふ、ふひっ、ふはっ…ふははっ!」
日も暮れた頃、町外れのビルの裏で断続的な笑い声が響く。それはどこか異質で、人間として壊れてはいけないところが壊れかけているような危ない響きを孕んでいた。
この辺りは周囲に住宅もなく、田園が続くだけでどうしてこんな不便なところに会社を立ち上げたのか彼には謎だった。
「…まっ、今日俺が燃やしちゃうから関係ないんだけどね〜♪」
異様なほど弾んだ声で彼は仕上げにかかろうとする。彼の目の前には、既にたっぷり灯油を染み込ませた段ボールが堆く積み重ねられている。
後はこれに火を―――
「そんなものに火をつけて、どうする気なの?」
誰もいないと思っていた、いや、いるはずのない場所から声が聞こえ彼は慌てて振り返った。
◇
さっきからなんとなく聞こえていた音はこれだったのか、と妙に納得してしまった。
町外れの建物に着き、裏に回るまでの間妙な音がし続けていた。
まさか、それが人の発する声だったとは。
氷丘が声をかけたその男は、驚いたように体を跳ねさせ、ゆっくりとこちらを向いた。
街灯の下に現れたのは齢二十を過ぎたくらいの若い男の顔だった。だがその顔は、妙に口元が拡がっていて目も見開かれていて、およそ時定は良い印象を持つことが出来なかった。むしろ、悪寒が体を襲った。
「………」
変な表情でこちらを見たままの男に、時定の前に立つ氷丘がさらに声をかける。
「そんなことして、会社を燃やしてどうするの?火野充さん」
火野、と呼ばれたその男はようやくのろのろと腕を上げるという動作を見せ、氷丘を指差した。
「…そうか、あんた達も覚醒者なんだ…《神の力》の……」
「違うわ、そんな力じゃない」
素気なく氷丘に否定されたが、気にかけるふうもなく火野が続ける。
「感じる、力を。…後ろの奴からは感じないけど、あんたからは確かに感じる…。あんたも、同じなんだろう?」
「………」
氷丘が何も答えないのを見て、男が口元に粘つくような笑みを浮かべる。
「あんたも、虐げられたんだね。可愛そうに、こんな女の子さえ社会は拒絶するのか…。安心して、こんな世界は変えてあげる。真っ白な灰にね。当然の権利なんだ、これは。……社会に虐げられてきた者に神が与えた、当然の、権利さっ!!」
尻上がりに調子を上げていく男の演説じみた言葉を聞き、時定は気分が悪くなってきた。なんだか、ここにいてはいけない感じがした。
「……今なら間に合います。あなたの心を回収させてください」
不意に、限りなく静かな声がした。もちろん氷丘の声であろうが、その声は抑揚が全く感じられないものだった。その言葉に露骨に火野の顔が歪められる。
「…そうか、あんたは対立する奴なのか。…女だと思って優しくしてやってればさぁっ!!」
途端、驚いたことに火野の両手から明るい光がほとばしり、ゴウッという音とともに火柱が上がった。
「ふへへっ、どーだっ!これが僕の力だ。ビビったか、怖いか!今ならまだ、俺の前に跪けば赦してやるぞ?」
ゴトッと鈍い音をさせて氷丘は肩にかけていた鞄をコンクリート張りの足元においた。それを見て、もう限界まで崩れていたと思っていた男の顔がさらに醜くなった。
ただ、氷丘は火野に跪くなんてことはせずに、時定の方を振り返る。
「ごめんなさい、戦闘は無しにしたかったんだけど無理みたい。凍狐、時定君をよろしく」
そう氷丘が言い終わったのと同時に、氷丘の隣に凍狐が現れ時定の元へ歩み寄った。
それを見届けて鞄から一本瓶を取り出した氷丘が火野へ向き直る。
「逆に言わせてもらうわ。今ならまだ間に合います。火を収めてくれないかしら?」
氷丘の言葉に火野の炎がさらに燃え上がる。
「ずいぶん余裕だな!決めた、あんたから燃やしてやるよ!せっかく新世界で俺のペットにでもしてやるつもりだったのにようっ!」
この状況に氷丘の不利を感じた時定が凍狐に問い掛ける。
「ねぇ、まずくない?氷と炎って相性最悪なんじゃ…」
「ふふっ」
小さく笑った凍狐の意図が分からず首を傾げる。
「ねぇ?」
「問題ないわよ。…それより問題なのは、戦い始めちゃえばあの男は助からないってことね」
再び時定には意味が分からない。
「…美咲さんがボコボコにしちゃうって話?」
「違う違う、いい?あの男は《自酔症》、つまり心がギリギリにまで擦り減ってるの。そんなまま、あんなふうに力を使い続けてたら?」
「…あっ!」
ようやく思い至り、時定は瞠目した。今日聞いたばかりではないか。
心は有限、力を使う度に擦り減り最後には―――。
「燃えて消えろっ!」
火野の右手が振られ、火の玉が氷丘に飛来する。だが、火野と自分の延長上に時定を庇っている氷丘は回避が取れない。
「美咲さんっ!」
避ける間もなく火の玉が氷丘の体にヒットした。火野の炎が満足げに揺れる。
「どーだ、焔の味はぁ。ふははっ!」
「……僕がいなかったら、避けれてたんじゃ…」
そんな後悔を口にした時定に、凍狐が左右に首を振る。
「問題無いわ。あんなのじゃ美咲には通らない」
「へっ……」
その言葉通り、先の炎など気にもかけていないかのように氷丘は髪を掻き上げた。その所作に火野の顔へ困惑の色が浮かぶ。
「なっ、なんでだよ!なんで火傷の一つもしないっ!何故燃え上がらないっ!」
「悪いけど、私にそんな低温の炎は通用しないわ。…貴方、なんで水で炎が消えるか知ってる?」
「んなもん、知るかっ!」
そう言い今度は火野の左手から火の玉が飛び出す。
「炎はね、エネルギー消費の連鎖で燃え続けているの。だから」
氷丘が左手を横に払う。すると、今度は氷丘の前方一メートル程のところで火の玉は消失した。
「連鎖の核となっている火の内部の熱量を奪ってあげればいいわけ。それが出来れば消せるわ、水だろうと、冷気だろうとね」
「なにっ!!……クソッ、クソッ、クソッ!」
氷丘に自身が《神の力》だと信じていた炎が消されたからだろうか。むやみやたらと火野が炎を連射するが、それがもう氷丘に近付くことはない。氷丘の手の振り払いに合わせて次々に消えていく。
「なんでだ、なんでだ!みんな馬鹿にして!ちょっと営業成績が悪いくらいで見下して、窓際族とか後ろ指指しやがって!そんな奴らは全員滅するべきなんだ!俺の、俺だけの焔で!」
「それが、貴方の心獣に対する考えなのね。その力は、貴方だけのものではないわ」
「クソッ!こんなガキにまで!馬鹿にされて!てめぇが悪いんだ、陽炎!てめぇが弱いから!」
そこまで言った途端、男は倒れ込み、痙攣し、胸を引っ掻き出した。
「なっ、うっ、アガッ!」
火野の口から炎が漏れ出す。苦しそうな声が漏れるのと同時に血も吐き出される。
「……どうやら、許容範囲を超えたみたいね」
隣で凍狐がそう静かに言った。
「…貴方は、自分の心を疎かにし過ぎた。心の声を無視し続けたんじゃない?その貴方の独りよがりが、貴方に破滅を……」
激しく悲哀の色を浮かべ、氷丘がつぶやく。その氷丘に火野が自らの炎によって真っ黒に炭化した手を差し伸ばす。
「た、すけ……」
しかし、その言葉は最後まで発せられることはなく、一つ大きく震えた後伸ばされていた手がコンクリートの地面へと落ちた。
次の途端、なにものとも形容しがたい感覚が時定の体を襲った。強いて挙げるなら、まるで嫌な虫が体の内側を這い回っているような――。
「…なに、これ!?」
「時定君、覚えておいて。これが、心が壊れたときの感覚よ」
言葉からして同じ感覚を体感しているであろう氷丘を見た。その向こうでは、男の背中から何かが這い出そうとしていた。
――僕は、あれを見たくない――
「嫌だっ、嫌だやだっ、やっ―――」
時定の異様なまでの連呼に振り向いた氷丘と、心配して顔を覗き込んで来ている凍狐と、這い出そうとしていた謎の物体。そのすべてが、停止した―――。