時を廻るもの
薄暗い研究室。各種機器が所狭しと並んでいるせいで、部屋唯一の窓さえも資料の棚に隠されてしまっている。
そんな埃っぽい部屋の中に二人。如何にも不健康そうな白い顔とひょろひょろの体を白衣で包んだ研究者然とした男が一人。
それからもう一人。
「――だから、今回の君の仕事は《能力者》の保護で―――。って氷丘くん、聞いているのかい!?」
少々ヒステリックに名前を呼ばれ、書類を読み耽っていたこの部屋のもう一人の人間、氷丘美咲はその整った綺麗な顔に、さも煩わしそうな色を浮かべながら彼女の上司でもある男、英木隆志を見遣った。
「……聞いてる」
面倒臭さを前面に押し出した静かな声でそう呟くと、彼女は腰掛けていたデスクから立ち、黒のロングスカートについた埃を手で払った。
その優雅過ぎる仕種に、英木は一つため息をつく。
「全く、君は仕事は出来るのに人の話を聞かないね」
「……15の女の子に仕事を頼むのがそもそも間違っているわ」
そう言われ、英木の顔に苦笑が浮かぶ。
「だって、仕方ないじゃないか。《能力者》、つまり《テイマー》の相手は君達にしか出来ないからね。もう一度言うからよく聞きなよ」
英木が一枚の紙を取り上げる。その紙には『時定 水城』という名と彼の素性についてが明記されている。その紙をバサバサとするものだから、周囲には埃が舞い散っている。
「リュウに任せればいいのに……」
そんなボソッとした呟きを無視し、英木は説明を始める。
「君は明日、この彼の通う中学に行き、彼の《ビースト》が引き起こしている問題を解決する。《野良》の出現情報も無し!なに、君なら一日もあれば完了するさ」
やや饒舌な物言いに、今度は美咲が呆れたようにため息をついた。
「あのね……わざわざ貴方の口から聞かなくても資料を読めば事足りるのよ」
その美しく、且つ冷ややかな声はしかし、彼女のやる気の顕れでもある。豊かな長い黒髪を手で後ろに流しながら、彼女は言う。
「…簡単に、終わらせて来てあげるわ……」
◇
◇
◇
六月第一週 金曜日 午前八時 教室
金曜日。すなわち明日から華の休日。更に言うならば、僕の誕生日ですらある。だが、なんら楽しさを感じない。何事も繰り返し過ぎは良くないものだ――。
「おう、水城!おっはよう!」
僕以外無人だった3−Aの教室に、『わざわざ』後ろのドアを開けて、一人の男子生徒が入って来る。
元々、四十一人のクラスに机が四十二個、つまり一列に七×横に六個置けるような配置なので、廊下側二列目最後列の僕の右隣は開いており、出入りにはむしろ便利なのだが、如何せん僕が座っているために積極的に利用するものは、この男ともう一人しかいない。
その数少ない物好き生徒に、卓上の参考書から顔も上げることなく返事をする。
「おはよう、朝霧」
朝霧健太。クラス一の秀才にしてスポーツ万能、そしてムードメーカー。そんな人気者を絵に描いたような彼が、根暗メガネの僕に声を掛けるのには最初のころこそ違和感を感じたものだが、もうそんなことも気にならない。
「なんだよ、テンションひっくいなぁー。華の休日前だぜ!もっと上げていこうよ!」
そういいながら僕の肩をバンッと一つ叩く。簡単に避けることも可能なのだが、そうした場合更なる絡みが発生することを知っている。
あと少しの我慢だ、と自分に言い聞かせ、僕は朝霧に返事をした。
「ああ、そうだね…」
言葉とは裏腹に、全く元気のない声に朝霧は軽く首を傾げる。が、彼の出来た頭はすぐに次の話題を見つけたらしく、満面の笑みを顔に浮かべながら再び口を開いた。
「そーいや、水城って今日誕生日じゃん!おめでとう!」
……こいつの人気は、こういう小さい気配りが出来るからなんだろうな。なんてことを思うと同時に、これまで幾度となく同じことを考えたな、という思いが浮かび、口から気味悪く自嘲の笑みがこぼれる。
「ふっ、ははっ…」
流石にこれには、人付き合いスキルの高い彼でも耐えられなかったらしく、会話を諦め大人しく自分の席につき、続いて前のドアから入って来た生徒達と談笑を始める。
そう、誰も干渉しなければいいんだ。何度も何度も同じことを繰り返すだけなのだから――。
と、暗い感情が頭の中を占拠していたせいで、《この日》唯一の楽しみといえる恒例行事を忘れていた。
ガララッと再び後ろのドアが開き、もう一人の例外が入って来る。
「おっはよう!あっ、水城くん、今日お誕生日だったよね!あのっ、これあげるねっ!ホントおめでとっ!」
まくし立てるようにそう言い、僕の机に小さな包みを置いて、横を一人の女生徒、綾瀬琴音が通り過ぎる。背の低い彼女の短く切り揃えられた髪の毛が揺れる後ろ姿を、半ば以上見とれるように見つめる。
が、そこで無理矢理に視線を切った。
あと十二時間後、午後八時には残酷な現実が待っているのだ。こんなラッキーサプライズ、楽しめばその時の落差が増えるだけ。
「こらー、席につけー!朝のHR始めるぞー!」
担任が教室に入って来る。俺はいつも通り、包みを開けることもなく鞄に詰め込んだ。
さあ、《いつも》の始まりだ――。
◇
◇
◇
四限目
窓の外では、しきりに雨が降り続けている。
「えー、今日の体育は雨だから中止ー。だからして、数学の抜き打ちテストを実施するー」
教卓の前に立ち、片手にテストを掲げて見せる数学教師にクラス中からバッシングが巻き起こる。
「なんだその理屈!」
「ざっけんな!」
「数学ヤダー!!」
そんな生徒たちを数学教師が一喝する。
「やかましい!ほら、朝霧の落ち着き様を見ろ。普段から勉強してないからおまえ達はそんなに慌てるんだ!」
そういいながら教室中を見渡していた数学教師の顔が僕を捉えて止まった。
「おっ?時定も余裕そうだな?期待してるぞー?」
お世辞にも勉強が出来る方でない僕に、数学教師がそういったことでクラスに笑いが巻き起こる。
そのままの流れでテストを配り始める数学教師を、垂れ下がった前髪の下から一瞥し、頭の中で数字の羅列を始める。
問い一、196……問い二、312……問い三、Y=5X+7………
「ちょっと難しいから三十分やるぞ。始めー」
手元に来たテストの回答欄を次々埋める。そのスピードは朝霧のそれより速い。
クラス内を回っていた数学教師が横で立ち止まり、驚いたと言わんばかりに目を見開き大袈裟な声を出す。
「おおー!もう終わったのか時定ー」
「えぇ、まぁ……」
僕の答えを聞き、数学教師が僕のテストを取り上げる。
「ほぉー、朝霧より速いなー。……今ここで採点してやろうかぁ?」
ねちっこいその声にクラスのあちこちから忍び笑いが漏れ聞こえる。《最初のうち》は捨て鉢で埋めていた回答欄をこんなふうにされるのは嫌だったが、今は気にもならない。
むしろ、断ってそれでも採点される方が気分が悪い。
「どうぞ、ご自由に……」
この返事にニヤッと嫌な笑いを浮かべ、テストを取り上げたまま数学教師が教卓に向かう。
「えー、じゃあ今から時定のテストの採点を始めるー!」
その宣言に今度こそクラスからドッと遠慮のない笑いが巻き起こる。その中で、なぜだか《何度見ても》笑っていないのは朝霧と綾瀬だけだ。
「えー、問い一。…おっ、正解だー!まー、これくらい当然だなー。次、問い二―――」
こんなの、公開処刑だ。当初こそそんなことを思っていた。以前から、陰湿なイジメには苛まれていた。
だが、《この日》を繰り返すようになってから少し安心感を覚えている。
何が起こるかが分かっていれば、イジメに怯えることもなく最善の《道》を選べるのだ――。
「問い八……むぅー!?」
いつの間にか採点を終えていた数学教師が、さして多くもない髪の毛を掻きむしりながら苛立ったように唸る。
「時定ー……満点だー……」
これには、おぉー、という低い歓声が教室に満ちる。中には「マジか…」「カンニングじゃね?」なんてものが混じっているが。
「時定ー。お前、何をしたー?」
疑わしげに眉根をひそめながら数学教師が詰め寄る。
「いえ…。別に何も……」
バンッと乱暴に、僕の肩に数学教師の手が置かれる。朝の朝霧と同じ行為のようでもあるが、本質がまるで違う。
「この問題はなー。朝霧レベルじゃなきゃこんな完璧に答えられる問題じゃないんだよ?なんせ、有名私立の入試問題から特に難しいのを取って来たんだからなぁ?」
「なんだそれっ!?」「始めから解かせる気ないじゃん!」等などと方々から十人十色の批判が数学教師に向かって上げられるが、それらは一様に一つの感情を孕んでいる。
……つまり、虐められている僕を見て楽しんでいる。
――ほらっ、出番だぞ。人気者――
声に出すことなく心の中で呟く。すると、それに呼応したかのようにガタッと席を立つ音がした。
「先生。俺も終わったんで採点お願いできますか?……それと、水城が痛そうにしてるんで、手、離してやってください」
《いつも》のように朝霧にそう言われ、渋々といった形でようやく僕は数学教師から解放された。
◇
◇
◇
放課後 靴箱
下校していく生徒たちの嬉しそうな声の中、僕は自分の靴箱の前で今日一日を振り返っていた。
――別に、可笑しなことは何もしていない。いつも通り陰湿なイジメを受け、それに立ち向かうこともなく今日を過ごした。クラスメートに弁当を落とされる、というのも回避しなかった。……以前、それをしたときにはこの靴箱を開けた途端ゴミが流れ出てきたものだ。その時も、《あの手紙》は入っていたわけだが――
周りから変な目で見られているのも気にせず、大きく息を吸い込むと勢いよく靴箱を開いた。そこには、もちろん下履きと、一通の可愛らしい花柄の便箋が入っていた。
その便箋を慣れた手つきでばれないように回収し、下履きには替えはせずに図書室へと向かう。
この時間、というより《この日》にはプロセスさえ間違えなければ生徒はおろか、教師さえ図書室には来ない。あそこでなら学校から誰もいなくなるまで居続けられる。
◇
◇
◇
放課後 図書室
図書室のかなりガタが来ている木製の横開きの扉を力付くで開く。そして、少々息切れしながらも再び扉を閉める。
この扉をしっかり閉めなかったせいで、下校時刻を過ぎた後に体育教師が偶然ここに現れ、そのまま教官室に連れていかれてしまったことがある。その経験を生かした行動である。
何ヶ月も掃除されていないので、かなり埃の積もった床を横切り、《本当》の昨日までの僕が使っていたせいでそこだけ埃の払われている席に腰を下ろす。
そして、先ほど回収してきた便箋を鞄から取り出す。差出人は綾瀬琴音。内容は『夜八時、校庭で待っています』という簡素なもの。
その見慣れた丸っこく可愛らしい文字をたっぷり眺めた後、丁寧に手紙をたたみ直し仕舞い終えると、ギシギシと軋む背もたれに身を任せ、仮初めの静寂に身を任せた。
◇
◇
◇
午後八時 校庭
目の前に、壮絶な光景が広がる。降り続く雨のせいで水溜まりの出来た校庭に横たわる綾瀬琴音。その姿は、体中ぼろぼろに引き裂かれセーラー服が泥と、彼女自身の血の紅で汚れている。
そうなる一部始終を僕は、校庭の片隅から傍観していた。
どれだけ逃げようとも、今日という《この日》はここに終着する。
「…グルルッ!」
綾瀬の傍には、まるで影で出来たように黒い、四足で立つ獣が。
その獣が、荒い鼻息が顔に当たるほどの距離に肉薄する。
そして、綾瀬の血に濡れた牙を僕の体に突き立てる寸前――時間が停止する。
深い絶望感に沈みながら思考する。
――ああ、今日も終わった――
意識はそこで途絶え、続きのないまま新たなる《この日》へ向かう―――。
◇
◇
◇
六月第一週 金曜日 午前八時 教室
朝、僕以外誰もいなかった教室に一人の男子生徒が入って来る。
「おう、水城!おっはよう!」
「おはよう、朝霧」
「なんだよ、テンションひっくいなぁー。華の休日前だぜ!もっと上げていこうよ!」
「ああ、そうだね…」
「そーいや、水城って今日誕生日じゃん!おめでとう!」
一言一句、記憶と違わぬ会話。
「ふっ、ははっ…」
もう、幾度となく繰り返した自嘲の笑い。
立ち去る朝霧。
再び後ろのドアが開き、それと同時に顔を上げた僕と、綾瀬琴音の視線がぶつかる。
瞬間、綾瀬の幼さの残る顔に恥じらいの色が浮かんだようにも見えたが、《いつも》のように綾瀬が一方的にまくし立てる。
「おっはようっ!あっ、水城くん、今日お誕生日だったよねっ!あのっ、これあげるねっ!ホントおめでとっ!」
卓上に小さな可愛らしい花柄の包みを置き、綾瀬が隣を通り過ぎる。
いつも、通りだ――。
《最初のころ》、このタイミングで盛大に泣き出してしまったことがある。理解不能なこの《繰り返しの日》に、感情が溢れ出したことが。
だが、今となっては感情は、僕の深いところで渇ききり、凝り固まり、二度とそれが外に出ることはないのだろう。
ふと、些細なことに気付く。この包み、開けたことないな、と。
担任が来るまで後一分ほどある。中身の確認くらい可能だ。
少々、いやかなり《この日》に対して干渉することに抵抗を覚えた。だが、久しぶりに感じる好奇心のようなものを抑えることは出来なかった。
――気にすることはない。綾瀬との朝のやり取りの些細な変化も、一日に干渉することはないのだ。このくらい、問題ない――
半ば言い訳のようにそう自分に言い聞かせ、丁寧に結ばれたリボンを解き、中のものを取り出す。それは、今時なかなか見かけることのない文字盤の付いた時計だった。
だが、僕には見覚えがあった。黒を基調としているその時計は、以前大切にしていた、そして《本当》の一昨日壊されてしまったそれに酷似していた。
「こらー、席につけー!朝のHR始めるぞー!」
妙な感覚を覚えつつあったが、《いつも》のように朝の挨拶をした担任が意識を持っていく。
さあ、《いつも》の始まりだ――。
漠然とそんなことを考えた。だが、いつもなら早速諸連絡を始めるはずの担任が違うことを口にした。
「ちょっと急だけど、今日は転校生を紹介するぞ。ほら、入って来なさい」
ただただ呆然とし、僕の目は一人の女生徒に釘付けになった。
勢いよく扉を開け入って来たその生徒は、担任が促すこともなく自己紹介を始めた。
「中田美咲です!この度、家の都合で引っ越して来ることになりました!前居たところは……田舎だからちょっと言いたくないかな?えっと、みんなよろしくね!」
言い切りとともに元気よく両手でサムズアップを突き出した彼女に、少々遅ればせながら大きな歓声が巻き起こった。
「ヤベー!かわいー!」「なんだあの美人転校生!?」「元気っ娘だとっ!?」等々様々だ。
彼女の外見は確かに所謂美人というやつに分類されるだろう。
色白な肌、長く綺麗な黒髪、可愛いよりは美しいの形容の似合う整った顔。スラッとした体つき。
今こそ満面の笑みで破顔しているが、静かにしていれば涼しげで、さぞ美しいことだろう。
「えー、全部中田が自分で言っちゃったけど。みんな、仲良くしてやってくれ!席は…時定の横だな!廊下から椅子と机を持って来てやってくれ」
担任の言葉に反応できなかった。そんな僕を気遣ったのか、転校生の彼女はビッと音のしそうなくらい真っ直ぐに手を挙げた。
「いいよ!自分でするから!」
その少々天然と言わざるを得ない行動にクラスが湧く。
だが、それでも尚僕の思考が戻ることはない。
深い後悔が僕の中に渦巻く。新たな《道》を選んでしまった…、という後悔が。
「よいしょっと…」
一日に四度しか開かない後ろのドアが開き、謎の転校生が机と椅子をえっちらおっちら運んできた。
「よろしくね!えっと、名前は?……聞いといた方が、いいわよね……?」
その妙に彼女自身に問い掛けるような問い掛けが、自分に対してのものだと気付かず、変に間を置いて返事してしまう。
「……時定…」
「そっかぁ!じゃあよろしくね!……とっきー!」
元気よく謎のあだ名で呼ばれ、さっきと違う意味で惚けてしまった。間近で見る彼女の顔は、本当にこの世のものかと疑いたくなるほどまるで氷細工のように美しく、その透き通るような双眸はなんらかの誘引力を持っているかのようで――。
そんな僕らしくもない思考は、恥ずかしそうに彼女が頬を仄かに染めたことで打ち切られた。
「あの、私の顔変かな?」
「えっ…あっ…ごめっ……」
根暗の性で、相手に目を逸らされる前にこちらから逸らした。
僕の右斜め前、彼女の正面の男子生徒が後ろを向く。その生徒は、率先して僕を虐めている生徒たちの一人だ。
「中田さん。あんまそいつと関わんない方がいいよ」
「えっ、なんでかな?」
「根暗が伝染っちゃうよ。せっかく中田さん可愛いのに」
内心、げんなりする。新たな虐められパターンが増えてしまった。
だが、男子生徒の言葉に中田美咲は笑顔を崩さないまま首を傾げた。その表情はいっそ、圧力を持っている。横目で見ている僕の背筋にすら悪寒が走った。
「そんな言い方って、ないんじゃないかしら?」
その表情を正面から見たその生徒は僕以上の何かを感じたらしく、サッと前へ向き直った。
◇
◇
◇
四限目
「えー、今日の体育は雨だから中止ー。だからして、数学の抜き打ちテストを実施するー」
「なんだその理屈!」
「ざっけんな!」
「数学ヤダー!!」
「やかましい!ほら、朝霧の落ち着き様を見ろ。普段から勉強してないからおまえ達はそんなに慌てるんだ!」
嫌だったのに、嫌にならなくなるほど繰り返された時間。
「おっ?時定も余裕そうだな?期待してるぞー?」
そんな日々の中の、ほんの些細な変動。
「ちょっと難しいから三十分やるぞ。始めー」
その変化は、凝り固まった感情の黒い部分、恐怖だけを溶かし、それが胸の内側を染め上げる。
「おおー!もう終わったのか時定ー」
「えぇ、まぁ……」
「ほぉー、朝霧より速いなー。……今ここで採点してやろうかぁ?」
「どうぞ、ご自由に……」
その黒が、絶妙に上書きされる。
「はいはい、先生!私も出来たんでこっち先にお願いします!絶対満点だから!」
イジメのチャンスを潰された数学教師の顔が複雑に歪む。
「むっ…じゃあ中田のから見ようか」
採点を待ち兼ね、中田美咲は椅子の上で妙なリズムを刻むように体を揺り動かしている。
「中田……二問間違いだぞ?」
「えーっ!そんなー!」
椅子から立ち上がって悔しがる中田美咲にクラス中を暖かい笑いが包む。
「間違ってるはずないって!ねぇ、とっきー?」
急に話を振られ固まった僕の答案を中田美咲が勝手に覗き込み、奇声を上げる。
「あー!そこってそっちの公式使うんだったんだー!凄いねとっきー!」
パチパチと拍手をする中田美咲につられたように、クラス内からチラホラ拍手の音がする。
こんな経験、したことがない。
「ちょっと待て中田!時定が正解かどうかなんて分からんだろ!」
どうしても僕を虐めることを諦められなかったらしく、数学教師が中田にすら突っ掛かる。だが、そんなことも意に介さないように中田美咲がピースを数学教師に向かって突き出す。
「大丈夫!私が保証するから!!」
「おまっ…さっきの満点宣言といい、その自信はどこから来るんだ!?」
「んー、さあ?」
とぼけたように両手を左右に広げて見せる中田美咲に数学教師が盛大にため息を付く。
「もういい…後は自習だ……」
そう言い残し、数学教師はテストなんて忘れたように教室から去った。
突然の自習(という名の自由時間)の到来に、まるで戦争にでも勝ったように瞬時に喧しくなった。
◇
◇
◇
放課後 図書室
軋む背もたれ。束の間の静寂。
(疲れた……)
心底疲れた、新しい《この日》に。今まで、こんなにも大きい変化が起こったことはない。
「…疲れたわ……」
ビクッと体を震わす。
心の内の言葉を、鈴を鳴らすような透き通った声がリピートした。その声はどこまでも静かで、だがそれでいて今日散々横で聞いたものと同じだった。
「はー……本当に疲れた…。キャラなんて作んなきゃ良かったわ……」
相当に優雅な動きで、黒髪の彼女は僕の横の埃だらけの椅子に腰掛ける。
「……埃だらけになるよ…」
「ラボよりマシよ」
元気のなくなった、というより素がこちらであるかのように中田美咲は抑揚の小さい声で問いに答えた。
――謎の闖入者が、《この日》を変えてしまう――
そんなどうしようもない考えが頭を埋め尽くしていく。
「大変だったわね、貴方」
――この娘が、《この日》を終わらせてしまう――
「何度、この日を繰り返したの?」
優雅に髪を払いながら向けられた視線に、再び寒いものが背筋を走る。すべてを見通したようなその目から、視線を逸らせなくなる。
「な、にを…言ってるのかな……?繰り返す?何を……?」
たどたどしい必死の抗議に、中田美咲の視線が鋭くなる。
「…記憶の持ち越しは出来てるはずよね……?…それとも、あの阿呆の資料ミス……?…確かにその可能性は捨てきれないわね……」
自問自答らしき呟きを繰り返し、中田美咲は不意に僕に顔を近付けた。びっくりするほど冷たい手が僕の頬を優しく撫でる。
「なっ、何をっ……」
「本当に、分からないの?」
「……ああ、全く分からないね。…これで失礼する」
僕は彼女を一人置き去りにし、図書室を出た。
どうせ彼女も、次の《この日》になれば何も覚えていないのだ。そもそも彼女が現れたのは朝、僕が興味本位で《分岐》を増やしてしまったのが原因に決まっている。それさえ選ばなければ――。
腕にした贈り物の時計を見る。漆黒の文字盤に銀の針がもうすぐ八時になることを示している。
意識することなく、足は校庭へと向かった。
◇
◇
◇
校庭
校庭の中心に傘を差し立つ、綾瀬琴音。と、それをずぶ濡れになりながら見詰める僕。
傘でちょうど死角になるのか、一度も彼女がこちらを振り返ったことはない。そして、二度とあの笑顔が僕に向けられることもない。
ある意味では、この《この日》さえ終わればまた生きた彼女には会える。だが、それでは彼女の表情は繰り返されるばかりだ。
――なにを望んでいるのだろう――
突如、校庭に獣の遠吠えが響く。僕から見て校庭の反対側に現れたその獣は唸りを上げながら綾瀬に接近し、それに驚き綾瀬が尻餅を付く。
そして、飛び掛かった獣の牙が綾瀬の体を捉える――。それが今まで幾度となく繰り返されてきた《この日》のエンディングだ。
だが、この時ばかりは直観する。何かが起こる、と。
大きく開かれた獣の口が、綾瀬を捉えることなく乱暴に閉ざされる。
そして、今度はこちらに向かって唸り声を上げる。だがそれは、何かに恐れているような声。
「《野良》は出ないって言ってたのに……」
中田美咲。彼女が僕の横を過ぎた瞬間、生温い雨に濡れていた頬を確かな《冷気》が撫でた。
彼女が前進するにつれて獣は逆に後退りしていく。
「立てるかしら?綾瀬琴音さん?」
「あっ、中田、さん……?」
綾瀬を庇うようにして、中田美咲が立つ。いや、庇うなんて消極的な表現は似合わない。その限りなく低温で静かな、それでいて迫るような気迫は《狩人》のよう。
「貴女の待ち人なら後ろにいるわ。死にたくなければそこまで下がって」
中田美咲の言葉に、腰を抜かしていたはずの綾瀬が電光石火の速さで立ち上がり、踵を軸に回ってこちらを向く。
その顔がこの薄暗い中でもはっきり分かるほど赤く染まった。それでも、綾瀬は中田美咲に向き直り呼び掛ける。
「中田さんもっ、一緒にっ!」
綾瀬の声に反応したように、獣が姿勢を低くする。その動きを見て、中田美咲の手が持ち上げられた。そして、まるで剣でも振るうかのように横薙ぎに払われる。
「ガルルッ!…グガッ!?」
次の瞬間には、獣の体には幾筋もの切り裂き跡が刻まれていた。
「早く下がってくれないかしら?貴方が居ては思ったように動けないわ……」
静かに、少しの煩わしさを孕みながら、こちらを振り返ることもなく中田美咲がそう言う。それでもなお、人思い過ぎる綾瀬は転がっていた花柄の傘を拾い上げ、丁寧に泥を払って中田美咲に差し出した。だが、その傘もすげもなく無視される。
「私に傘はいらないわ」
そう言った彼女の体は驚くべきことに全く濡れていなかった。強いて挙げるならば、彼女の黒髪の所々が宝石でも散りばめたようにキラキラと輝いている。
「彼と相合い傘でもしていなさい」
その言葉に後押しされたように、フラフラと頼りない足取りで綾瀬が僕の横まで来る。
それを見もせず確認したかのように、中田美咲が自身の黒髪を後ろに流す。
「凍狐、やるわよ…」
その囁きが合図であったかのように、中田美咲の体を濃い白い霧が包み込み、その霧が校庭中を這うように拡がる。
「っ……!?」
足元まで来たそれが、強烈な寒気を呼び起こす。白い霧の正体は《冷気》なのだ。
『厭よ、こんな雑魚私が出るまでもないでしょ』
突然、聞き慣れない声が聴こえた。この校庭にいる中田美咲でも、綾瀬でも、もちろん僕のものでもない大人の女性然とした声が。
「誰だ…。誰がいるんだ……?」
「どうしたの?水城くん?」
心配そうに綾瀬が僕を見る。その問い掛けにズレを感じる。
「綾瀬には、聴こえてないの……?」
『へぇ、貴方には聞こえるのね』
再び、女性の声が聴こえる。そして今度は確かに感じた。体の《内側》から声が響いた。
「なっ、なんだ!?」
慌てて体中を見回す。
『ふふふっ、可愛いのね。ビックリすることはないわ。ただ貴方は、貴方の中の《心獣》を通して私の声を聴いてるだけなんだから』
聞き覚えのない言葉になぜか反応する。《心獣》、その言葉を聞いた途端、体の奥深くが一度大きく脈打った。
まるで、なにかの目覚める前触れのように。
『でもこのまま私と貴方だけで話してたら、可愛い彼女が心配するわよね』
油断なく《野良》と呼ばれた獣を見据える中田美咲の横で、冷気が烈しく渦巻く。その渦が徐々に収束した時には、そこには一匹の美しい《白い狐》が鎮座していた。
でも、僕の記憶にある狐とは少々異なる。まず、その大きさ。《野良》と呼ばれた獣が狼を一回り大きくしたくらいなのに対して、さらにその一回り分は大きい。
そして、最たるは。
「九尾の、狐……」
白い九本の尾が冷気とともにユラユラ揺れる。
「今晩は。新人さん」
間違いなく狐であるその顔に、余裕を感じさせる笑みを器用に浮かべながら、凍狐と呼ばれた狐は話し掛けた。
今度は僕の中からではなく、その狐から声が聞こえ、それは綾瀬にも聞こえたようで驚いたように片手で口をふさぐ。
「ラブラブしてるところ悪いんだけどお二人さん。傘なんて差さなくてももう雨には濡れないはずよ?」
ラブラブ、と言われたタイミングで綾瀬が傘を取り落とす。
だが、しきりに降り続ける雨が僕達を濡らすことはいつまで経ってもない。そのかわりに、体にキラキラとした結晶が付く。その一つを指先でつまみ上げると一瞬で溶けてしまった。
「これって…雪……?」
「雪、というよりただの氷かしらね?あらあら、そちらの彼女は赤面しちゃって可愛いわね。でもあんまり照れるとせっかく凍らせた雨粒が溶けちゃうわよ?」
狐の言ったことを要約するとつまり。
「僕達に当たる前に雨が凍るから…濡れない……?」
「その通りよ。よく出来ました!美咲本人なら体ごと冷やせるから体温で溶けるなんてことないんだけど、赦してね?貴方たちにそれしちゃうと、最悪命に関わりかねないから」
器用に今度はウインクしながら、解説を終えた凍狐に中田美咲の冷たい声が飛ぶ。
「うるさいわよ凍狐。…英木に似てきたんじゃない?」
「ふふふっ、それってつまり。貴女が似てきたってことよ?」
「っ!?……願い下げだわ、そんなこと」
涼しげな声で目まぐるしく交わされる一人と一匹の会話に、意識しないうちに口から言葉が零れ出した。
「中田美咲……君は…一体……」
呼ばれた彼女は、優雅な仕草で髪を後ろに振り払いながらこちらを向いた。
「名前、違うわ。私の名は、氷丘美咲。…《テイマー》よ」
キラキラと氷の粒が校庭の外灯の光を反射し舞い散る、あまりにも美しい仕草に見惚れて、一瞬反応が遅れた。
横で綾瀬が叫ぶ。
「中田さんっ!後ろっ!」
見ると、無防備な背中を晒している中田美咲改め氷丘美咲の背後から《野良》が飛び掛かっていた。
「グルアッ!!」
かなり華奢な氷丘の体など簡単に貫通してしまいそうな長い牙を剥き出しにして、今が好機と言わんばかりに飛び掛かる。綾瀬が先に、最悪の事態を予測したのか目をつむった。
だが、僕はしっかり見た。先程と同じように氷丘が何気ない動作で左手を横薙ぎに振るったのと同時に、《野良》の上方に無数の煌めきが生まれ、そして降り注いだのを。
「ちゃんと名乗ってあげたのに……間違えないでくれるかしら?」
「グ、ガガーッ!?」
再びの光景に、さして賢くもない頭が追い付いた。
氷丘は降り続ける雨を《凍らせて》攻撃しているのだ。
「…魔法かよ……」
「魔法とは、少し違うかしらね?」
いつのまにか氷丘の傍を離れ、僕の横に鎮座していた凍狐が言う。
「より具体的には、彼女の《心獣》たる私の力を使っているの」
「その、《心獣》って……?」
僕の問い掛けに、氷丘のため息が被る。
「はあ…。凍狐、手伝いなさいよ。私、疲れてるの……」
「貴女の疲労度は私と共有でしょ?むしろ、今からがエンジン全開って感じじゃない?なにより、今日一日楽しそうだったじゃない!」
凍狐の言葉に氷丘の綺麗な鼻筋にシワが寄る。
「本当に、口答えばっかりね」
「仕方ないじゃない。それが私の性格であり、貴女の性格よ」
ガルルッ、と一声鳴きながら《野良》が立ち上がる。驚いたことに刻み込まれた幾筋もの傷が癒えつつある。
それを見た氷丘が小さく舌打ちする。
「ちっ…自己治癒するのね」
氷丘が今度は右手を振るう。少々右下気味に伸ばされた腕をなぞって氷の粒が転がり落ち、さらには周囲の冷気が右手辺りに密集し始める。体の周りから冷気が引いていく。
「なんだ…あれ……」
「安心なさいよ。貴方たちの分の冷気くらい私が賄ってあげるから」
再び立ち込め出した冷気と、濡れる可能性のことなど意識の埒外だ。なおも凝集していく冷気を見続けた。そして、あるタイミングで振り上げられた右腕により冷気が置き去りになり、凝縮の正体が明らかになる。
「う、わあぁ……」
それは美しい透明の、一振りの両刃の刀、剣だった。
ゲームなどでよく見る長剣よりは短く、短剣より長い中途半端なそれはだが、そんな違和感など打ち消すほど美しく、使用者と相まっていっそ神々しささえ感じさせる。
「あらあら、美咲ったら遊んでるわね」
「…遊んでるの?あんなの相手に?」
綾瀬が震えた声を発する。僕も、まさかあんな化け物相手に『遊んでる』なんて考えたくはない。
凍狐が肩を竦める。
『まあ、受け入れがたいわよね。普通の人間の感覚なら、ね?悪いけど、美咲が遊んでいる間にちょっと説明させてね。もちろん、貴方もこっちで話すのよ?』
体の中から語りかけられたそれに、反射的に言葉を返す。
『……その喋り方やめてよ…。そんな器用なこと僕にはできな……っ!?』
『ふふふっ、飲み込みが早い子ね』
小馬鹿にしたように凍狐が言う。
『怯えてる彼女にこれ以上負荷をかけられないから、これで話すわ。教えてあげる。私たち、《心獣》についてね』
少し低い位置から凍狐が見上げる。その双眸に、僕は氷丘と同じ色を見た。
澄み渡る湖面のように静かに凍狐が語りはじめる。
『貴方たち人間にはね、《心》というものがあるでしょ。普段生きている分には気付かないけど、確かにそれは貴方たちと共にある。端的に言ってしまえば、その《心》の具現化したものが私たち《心獣》なのよ』
凍狐の言葉を頭の中で反芻する。そうでなければ、すぐにでも置いていかれそうな突飛な話だった。
『《心獣》には二種類いるの。一つはね、私の美咲との関係のように《生みの親》たる人間と共存関係を結んでいるもの。で、もう一つは今、美咲が相手している《野良》と呼ばれるものよ』
そこまで言って、凍狐の瞳が深い慈悲の色に染まった。
『……《野良》もね、元々は人とともに在ったはずなのよ。でもね、私たち《心獣》の拠り所である《主の心》が壊れて、解き放たれてしまうことがあるのよね。そうすると、制限の効かなくなった《心獣》が……人を襲い始めるの。……貴方が繰り返し見ただろうようにね…』
『っ……!?』
凍狐が体を擦り寄せて来る。意外にもその白い毛並みの下には暖かみを感じることが出来た。
『…なんで、人を襲うんだ……?』
『そうね……。基本的には生きるため、ね』
『なら…君も人を襲うのかい……?』
『まさか!…私たちが必要とするのはね、《心》つまり、自身であり拠り所なの。《生みの親》のいなくなっちゃった子は、自我を失った状態で次の在り処を探す。そしてそれが行き過ぎる……』
体を包む冷気が少し強くなる。全身を襲った悪寒に体を震わせる。
『あら、ごめんなさいね?ちょっと強くし過ぎたみたいね』
『……いや…』
おそらく、凍狐の感情を映してのことなのだろう。
『あの。質問、してもいいかな?』
『…良いわよ。なにかしら?』
複雑な感情を映した凍狐の瞳に、無意識のうちに話題を変えてしまう。
どこまでも、ダメな奴だ。狐にすらなんら言葉を掛けられない。
『《心獣》は心の権化なんだよね。なら、なんで氷丘みたいな不思議な力が使えるんだ?……なんだか、おかしくないかな…?』
凍狐から目を逸らし、校庭の中心を見遣る。そこでは氷丘が《野良》を相手に奮戦し続けていた。
『頭のいい子ね。初めにそんなこと気にした者は今までいなかったわよ!』
凍狐に褒められ、相手がなんであるかも忘れて嬉しくなってしまった。
『《心》にはね、もれなく《願い》も含まれているの。心の中に満ちているそれが力となっている。…そうね、ある意味では私たちは《願い》が具現化したものなのかも知れないわね』
『知れないって……君にも分からないの?』
『馬鹿ね。それを私に聞くのは私が貴方に人間について聞くのと同義よ?』
『そっかぁ…』
そんな何気ない会話の間にも氷丘は荒れ狂う獣の相手をし続ける。
漫画のヒーローのような驚異的なジャンプ力も、視認も難しいような素早い動きもなしに。
『……ねぇ、《心獣》が目覚めると身体能力が上がったりはしないの?』
『しないわ』
間髪を入れずに質問に答えがもたらされる。その速さに思わず苦笑してしまう。気が気でないといった様子で氷丘を見詰める綾瀬はそれに気付かない。
『基本はただの人間のままよ。そりゃあ、たまに超人的な筋力に目覚めるなんてことはあるけれど』
雨を凍らせるとかそれだけで超人的だよ、と思う。だが、思うだけで言葉にはしない。
『貴方も剣の長さを変に思ったんじゃないの?あれがね、美咲の筋力の限界なのよ。あれ以上重くちゃ振り回せないし、軽くても有効な武器にならない。美咲が独自に見つけた長さね。…確か名前も付けてたような気がするけれど、なんだったかしらね?』
『氷丘が…自分で……』
『美咲はね、かなりベテランだから。貴方の言うような超人的な身体は無くても、それを補って余りあるほどの戦闘経験があるのよね……。説明は、これくらいで良いかしら?』
何故か悲しそうにそう言って凍狐が首を傾げるようにする。それに首を縦に振って答えた。
『……いろいろ教えてくれてありがとう。丁寧に説明してくれて、優しいんだね』
『あら、嬉しいこと言ってくれるじゃないの』
クスクスッと、まるで少女のように凍狐が笑った。鈴の鳴るようなその声は僕の中にこそばゆい感覚をもたらした。
『意外と凍狐は可愛いんだ…』
『あら。それは、私が人じゃないから言ってくれるのかしら?』
試すような物言いにしばしの思考の後、答えた。
『多分、そうかな?……僕はまだ人にこんなこと言えるほど《心》が出来ちゃいない。ゴメンね…』
『正直な子って嫌いじゃないわよ。むしろ好きね。うん。私、貴方が好きだわ』
その直截な言葉にまたしても苦笑する。全く、よく分からない狐だ。
『僕もだよ。……君は氷丘美咲の《心》。その心の君が、こんなに優しくて綺麗ってことは、彼女の心が優しくて綺麗ってこと、だね……』
何気なく発した一言に、凍狐は嬉しそうに尾の揺れを大きくした。だが、それと同時に口許に何とも言えない表情が浮かぶ。
『ええと、ありがとう。ただ、言いにくいんだけれど……この会話って美咲に全部筒抜けなのよね…』
キンッ、と金属質な音が静寂を破ったのはその時だった。それが薄く凍った校庭の土と氷丘が手にしていた剣との衝突音と気付いたときには既に遅かった。
剥き出しにされた牙が氷丘に肉薄し、そして。
――ドクンッ…――
体の中で何かが大きく脈打つ。それは次第に大きくなり。
――ドクンッ…ドクンッ…!――
「うっ、あああー!!」
視界が大きく引き延ばされ、薄暗い中にも関わらず氷丘の肩に食い込む牙がはっきりと見て取れた。流れ出す、血も。
「ダメよっ!今、時を戻しては!ガルルァッ!!」
凍狐の先程までと打って変わった唸り声に体の疼きが引いていく。
氷丘が肩を押さえながらフラフラと後ずさる。
「僕の、せいだ……。あんなこと、言わなかったら……」
『ダメよ!自分を諦めてはダメ!《心》が壊れてしまうわ』
「う、うぅ……」
『貴方は何度も何度も悲惨な光景を見てきたんでしょ!それでも、貴方は壊れなかった。懸命に生きてきた。ようやく正解にたどり着いたの。……ここで、貴方の《今日》は終わらせてあげる!』
どこからか声が凍狐のもので無く、氷丘美咲のものにすり替わっていた。いや、もしかすると同時に聞いたのかも知れない。彼女と彼女の《心》、二つの声を同時に。二人分の激励に体の中の何かが完全に沈黙した。
「グガルアッ!」
再び《野良》が氷丘に飛び掛かる。
――このままでは今度こそ、致命傷を受けてしまう――
こちらの思考を読んだように、先程とは打って変わって優しい声が傍らからする。
「大丈夫、信じてあげて。あの娘の、私の、氷丘美咲の《心》を」
氷丘が手を《野良》に向かって差し出す。まるで幼子が親に向かって差し出すようにされたその手が《野良》の鼻先に触れた瞬間、周囲に異様な音が鳴り響く。
ビシィィッ!!
まるで空気ごと凍りついたかのように呼吸が出来なくなった。
「美咲、やり過ぎよ。二人とも、ちょっとゴメンね?」
そう言い凍狐の尾が僕と綾瀬をまとめて包み込んだ。ようやく息が出来るようになる。
「ふわわぁ!?」
隣で綾瀬が妙な声を上げる。二人まとめて巻かれてしまったせいでその顔はひどく近くにあった。
「大丈夫…?」
「えっ!あのっ!……うん、大丈、ぶっ……」
全身を包んでいた尾が解かれる。次の瞬間目に飛び込んできた光景に、絶句せざるを得なかった。
「わ、おぉ……」
そこには、まるで飼い犬を撫でているかのような氷丘と、その彼女に撫でられている氷の彫像と化した《心獣》がいた。
「……疲れたわ…」
そう言う彼女はしかし、なおも慈しむような動作で獣の彫像を撫で続けた。
「美咲ってね、ちょっと戦闘狂なところがあるのよね。まっ、つまりは私もなんだけれど」
軽い足取りで凍狐が氷丘の元へ行き、隣に寄り添う。
「お疲れ様!最初からこうしていれば良かったのにね」
「……これは取って置きなのよ…。それに疲れるわ……」
「なに言ってんのよ。照れて剣を取り落として、隠しついでに勢い余って必要以上に強くし過ぎたくせに」
「っ!?……いいわ、さっさと終わらせましょ」
友人同士のように繰り広げられる一人と一匹の会話に半ば強引に割り込む。
「あの、終わらせるって……」
「このまま放っておいてもこの子が動くことはもうないわ。…でも、それじゃあんまりでしょ?だから、眠らせてあげるのよ」
そう言って氷丘はスカートのポケットから十センチ四方ほどの、複雑な紋様の描かれた一枚の紙切れを取り出した。
「この札をね、一時的にこの子の《住み処》にする。私の仲間が創ったんだけど、なかなか便利でしょ?」
そう言って凍ったままの《心獣》の体に札を張り付けた。その上から手を翳し。
「ふっ……!」
細やかな光とともに《心獣》が消滅した。
「ちょっとコツがいるんだけどね。…これで仕事は完了……」
氷丘が札を再びポケットに仕舞う。校庭の冷気が引いていった。
「雨、上がったみたいね」
氷丘が空を見上げるのにつられて、僕も空を見上げた。そこには、切れた雲間から驚くほど綺麗な三日月が浮かんでいた。
「まだ貴方にはお話があるんだけど……、とりあえず明日にしましょうか。貴方は綾瀬さんを送ってあげて?気を失ってるみたいだから」
「えっ…うわっ、ホントだ…。立ったまま…」
気付けば頭を僕の肩に預けるようにして気絶、というよりは寝入っていた。
「ふふふっ、本当にお疲れ様ね。貴方の今日はこれでおしまいよ。……お疲れ様…」
そう言った時の彼女の笑顔は、月夜に綻ぶ一輪の花のように優しかった。
何気なく見た時計の針は、今まで見ることのなかった午後九時を指していた――。
◇
◇
◇
六月第一週 土曜日 公園
「……ゴメン、待たせたわ…」
そう言って彼女は現れた。その服装が昨日の通りの制服だったのには正直少しがっかりしたのを隠せない。
「ふふっ、美咲の私服姿が見たかったのかしら?お年頃の坊や」
氷丘の影から現れた凍狐がからかう。そのからかいに馬鹿正直に顔が赤くなる。
「なっ、そんなことっ!」
「……あら?私の私服なんて見るに値しないかしら…?」
何故か白い肌に赤みを差しながら残念そうに俯く氷丘の仕草に言語能力がそうそうにパニックを起こした。
「やっ、そんなっ、制服も、すごく似合って、ます……。でも、私服も、可愛いかなーっ、て……」
「んっ……まぁいいわ。話を済ませましょ」
「ふふっ、ホントは嬉しいくせに。でもね、美咲の私服って意外と残念よ」
「……煩いわよ凍狐。感情の供給、切ってあげましょうか?」
「ふんっ、やれるもんならやってみなさいよ」
「ちょっと二人とも……!」
低温で繰り広げられる口論をどうにか止めようと、ない頭を使って話をすり替える。
「えっとさ、こんな昼間っから出てきちゃってるけど……一般の人に見られたりしたら凍狐まずくないの?」
「犬や猫はその辺にいるじゃない。バカ狐の一匹くらい誰も気にしないわよ」
「……そういう問題かな…?」
少々ズレた氷丘の見解に戸惑った俺に向かって、大人の余裕でケンカの火の種を華麗にスルーした凍狐が一つウインクを飛ばす。
「大丈夫よ。周りに人がいないの確認済みだから」
「……話を始めましょ。具体的には貴方の《心獣》についてね」
「は、はい」
「貴方の《心獣》、まだなぜだか目覚めてないのよね。時間逆行って意外と多いんだけど…貴方はいろいろ特殊みたいだから……。ちょっと調べさせてほしいの」
「調べる…?」
そう言うと氷丘は僕に手を差し延べた。
「貴方を《テイマーズ》に招待します。……その力、人のために使いませんか…?」
それはきっと非日常への誘いで。
「あっ、そうだ!ちょっとそのまま動いちゃダメよ?」
凍狐の尾の一本が僕の額付近に寄せられて軽く一振り払われた。はらはらと目の前を舞い落ちる癖のある黒髪。
「って、わわっ!!」
「ちょっ、なにしてるの凍狐!」
「やっぱり、こっちの方が似合うと思ったのよね。貴方の顔、私の好みよ!あっ、それって美咲もそうってことなんだけどね?」
「くっ!?……私先に行くから、来るなら付いてきて!」
本当なら交わることのなかった二人の人生が交わる。
「えっ?……ちょ、ちょっと待ってよ!」
「ふふふっ、美咲ったら照れちゃって可愛いんだから」
これから、何が起こるのだろうか?
「……よし、行こう…!」
《日常》から《非日常》へ――。