02. お前だけは許さん
しゅうと音を立てて黒いもやが晴れる。
片膝を立てた状態の八重は、立ち上がりながら周囲を見渡す。
整理された机、地味な布団。
間違いなく八重の部屋だ。
八重は試験管を見る。
以前までは黒いもやがたまっていた試験管は、今は空だ。
神官は神官という職名ではあるが、ただ神々を祀ることだけをしているわけではない。
呪術的な研究もしているのだ。
須見家は一般的な神官の家庭に比べると、そちらよりだった。
精霊は精霊でも「死霊」を扱うことに集中している一族なのだ。
とはいっても今八重が使ったような、死霊の力を利用する術は大変難しい。
死霊を見つけたら、すぐ神官が浄化し転生させるのが一般的な対処法であり、きちんと研究した事例が少ないからだ。
また死霊は悪しき神であり、血や汚れを好む。
死霊のご機嫌を取ってお供え物をすれば、禁術として法に触れてしまう。
死霊の利用方法はたった二つ。
能力の抽出、あるいは死霊本体の調教だ。
能力の抽出には分析含めて数年かかるし、調教には数十年、数百年だ。
抽出した力を使えるのは一度きりだし、調教ではそもそも過程で滅する場合がほとんど。
コストパフォーマンスが悪すぎるのが、死霊術の難点であった。
とはいえ、須見家が死霊研究の最先端であることには変わりない。
死霊を弱体化させたり、一時的に言うことを聞かせたりすることもできる。
だからこそ、須見家は特別なのである。
八重は机の引き出しから深緑の風呂敷を取り出して広げると、机のうえに整然と置かれた試験管や、書棚に陳列しているノートや小瓶などを次々と放り出し、縛って背負った。
八重は部屋を出ると、まっすぐ廊下を渡り、突き当りの豪奢な扉を勢い良く開いた。
「邪魔するよ、虹梅!」
「わっ、どうしたの、姉さん」
扉に背を向けて舞の稽古をしていた虹梅は、驚いて大きな扇を落とす。
この八重より少し上背がある、腹違いの妹こそが正妻の娘であり、須見家の真の跡継ぎだ。
「ちょっと本を借りたい」
「え……いいけど」
八重は猛然と本棚に近づく。
八重の部屋とは違い、虹梅の部屋にはたくさんの本がある。
八重は分厚い法律書を取り出し、ぶつぶつと呟く。
「なるほど、――が――で――」
「ちょっと、どうしたの姉さん」
「いや、法律と王家の伝達システムは、姉さん専門外だったから。ちょっと調べさせてほしくて」
「いや、それはいいけど、何で……というか仕事は……」
「虹梅」
八重はガシッと虹梅の肩を掴む。
虹梅の長く垂らした髪と花簪がしゃらりと揺れる。
「姉さんは、ちょっとこの家を離れる」
「何を言い出すの」
「姉さん、公文書偽造をする」
「本当に何を言い出すの!」
「いや、これだけじゃ油断はできない……なぜなら相手は奴だから……」
「待って待って、話が全く見えないんだけど」
「ごめんね、今は話している時間はない」
風呂敷包みを肩に担ぐと、八重は片手をピシッと上げた。
「本当に許してね、じゃっ」
「じゃっ……じゃないのよ!」
虹梅は駆け寄ると、八重の腕をつかんだ。
「帰ってくるのよね?」
顔は怒っているが、目に明らかな心配の色が浮かんでいるのを見て、思わず八重は目を潤ませる。
召使はもちろん、実の父すら冷たく当たるこの家で、唯一妹だけが味方だった。
だから、八重はこの妹に向かって全力で姉面をする。
「……これを」
八重はそっと虹梅の手を外すと、手のひらに灰色の直方体を握らせた。
「これは?」
「通信機。西方の技術で作られたものだから、神々を通じて盗聴される恐れはない。これを持っていて」
「……絶対連絡するのよ。ちゃんと私に事情を話すのよ。何かあったら逐一報告して」
うっと八重は目頭を押さえる。
「ありがとう。姉さん、虹梅のこと一生忘れない!」
「不吉なこと言ってんじゃないわよ!」
絶叫する虹梅を置いて、八重は部屋を飛び出していった。
優しい虹梅のためにも、八重は、走る。
充月は栄誉でもって八重を獲物にした。
いいだろう、ならば八重が賭けるのは八重のあらゆる能力に積み上げてきたコネ――八重の生きたすべてだ。
「公務員(神官)なめんなよ!」
勅命のあらゆる穴を突いてやる。穴がないなら丸ごと潰す。
――怒りのあまり一首詠んでしまった。
***
「……そういうわけで、姉さん充月の嫁にされそうなんだ」
「は?」
「だから公文書偽造をする。今すぐ」
「はぁぁぁ!?」
今八重がいるのは学校、西洋研究会の部室だ。
学生だった時分は、八重はここの部員だった。
机の上に通信機を置き、虹梅と話しながら、八重はするする袴を解き、白衣を脱ぐ。
共用ロッカーから薄黄色の小花柄のワンピースを取り出し、着る。
卒業生の忘れ物だ。
風呂敷包は少し迷った後、洋風の籠の中に入れた。
つば広帽をかぶれば、もはや八重だと分かる人はいまい。
八重は普段は和装しかしないのだ。
最近巷では洋装が流行している。
折しも今は夏。暑苦しい和服を着ない者は多い。
ちょっとした変装にはぴったりだ。
混乱したように虹梅は言う。
「確かに姉さんは官吏だけど、地位なんて高くないじゃない。公文書偽造なんて、そう簡単にできるものではないでしょう? ましてや今すぐなんて」
「姉さん、学生の時分に働きに駆り出されていたじゃない」
「あ、ええ。確か、死霊の鎮静化と拘束施設への誘導をしていたんだったわね?」
「あれね、不正されてた」
「何ですって!?」
「普通、そう簡単に学生を戦地に駆り出せない。公家の長女ならなおのこと」
「招集書類を偽造されたってこと? もしかして、前に家に来て姉さんの論文を見ていった上司の方?」
「よくわかったな」
「何故今まで放置していたのよ!」
「状況も切羽詰まっていたし、仕方ないかと思って。でも……」
八重は口の端で笑った。
「今はそれが役に立つ」
「……そいつを脅して、書類を偽造させるってことね?」
「あの上司、あれから出世したんだよ。お父様が姫騒動の登録書類を提出したのは一週間前。もちろん事前に作られた名簿には、手が出せないけれど。あなたに借りた本によると、正式な登録書類は、今はあの上司の手の届くところでストップしているはず」
「そこで破棄させると」
「そのあとは、名簿が手違いだったと主張するよ。今から上司の家に行ってくる」
「どうか、気を付けてね」
通信機を切り、部室を出る。
廊下に立ち並ぶ窓は、いくつかは図書室につながっている。
なんとなく八重は中を覗き込む。
毎日、充月と勉強していた席が見えた。
別に約束なんてしていない。
特に何も言わなくても、片方が勝手に同じ席に来ては、もう片方が向かいに座った。
そんな関係が一年ほど続いたある日――そうだ、十一歳のころだ。
いつまでたっても充月が来なかったので、なんとなく図書室の前まで様子を見に来た。
気分だった。
充月は同級生達に話しかけられていた。
『なぁ、お前あの須見家の長女とつるんでるだろ、なんで?』
『なんで、とは?』
『いや、だってあの長女、なぁ』
反笑いで答えた少年を小突いて、もう一人の少年が言う。
『いや、なんかいいことあるのかなって思って』
『いいこと?』
『あるから、つるんでいるんだろ?』
『もうやめてやれよ。こいつ気づいてないんだって、庶民だから』
八重はすぐに何の話か分かった。
八重は鉛筆くらいは買ってもらえこそすれ、専門書は買ってあたらず、図書館に行かねばならない。
装飾具だって満足に持たされていない。
神官の家の子供から見れば、八重が当主の長女にふさわしい可愛がり方をされていないのは明らかだった。
妾腹の子供であることまではわからなくとも、皆なんとなく、この娘は使い物にならないと気づいていたのだろう。
充月は八重のことを須見家の次期当主だと思ってすり寄っている、愚かだと言いたいのだ。
充月は首を傾げた。
『特に損得勘定は働いていません』
『はぁ?』
『しいて言うなら、楽しいからですね』
充月はいつものうさんくさい笑みを崩さない。
『いつでも勉強熱心で、神官としての固定観念にとらわれない。一度腹をくくったら、諦めずにとことんやる。これ以上、勉強友達にして楽しい人って、そんなにいます?』
八重は目を見開いて、固まった。
望みの答えを聞けなかったからだろう、少年たちは鼻白んだようだった。
『つまんねえなぁ、帰ろうぜ』
『待ってください。僕、報復は五十万倍以上を信念にしているんですよ』
『はぁ? 何言ってんだ、こいつ?』
『放っとこうぜ、孤児なんかとしゃべってもつまんないよ』
『覚えて帰ってくださいよー、大事なことなので―』
帰っていく子供たちに、充月はひらひらと小さな手を振り返す。
『あ、八重さんが何故ああいう言われ方をしているのか、聞き忘れましたね』
充月は無表情だった。
初めて見る顔だった。
『まぁ、どうでもいいか』
八重はすぐさま回れ右をして、図書室に戻った。
充月が廊下で『とりあえず牛糞か?』とか呟いているが、今はどうでもいい。
どうでもよかった。
早く涙を引っ込めないと。
あいつの前で泣きっ面なんて情けない。
八重はいつもの机に突っ伏して、充月が前に座った後も、寝たふりを決め込んだ。
――記憶から我に返り、八重は図書室に面する廊下の窓枠に爪を立てた。
ふざけんなよ、充月。
私は泣いたんだぞ。
ガチ泣きだったんだぞ。
あの時の涙をどうしてくれるんだ。
八重は基本的に大して怒らないたちだ。
怒っても、事態はそんなに好転しないことを理解しているのだ。
だが充月、お前だけは許さん。
八重は速足で廊下を後にした。




