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第一話

 悪魔は嘘をつく。

 それ自体は、特別なことではない。

 ルシアは、石畳に膝をついていた。

 長い袖の先だけが、地面から少し覗く。指先を閉じず、ただそこに置く。

「……だいじょうぶ」

 声は小さく、届くかどうかも分からない。

 子どもは不安げに顔を上げる。

 熱に浮かされた赤い瞳が、揺れている。

「……ほんと?」

 ルシアは、すぐに答えなかった。

 口を開く前に、一拍、呼吸を整える。

「……うん。たぶん」

 角が視界の端で揺れる。俯くと、形がほとんど消えた。

 ――嘘だ。

 治る保証は、どこにもない。

 それでも、子どもは母親の腕に顔を埋め、呼吸を整える。

「ありがとうございます」

 母親は深く頭を下げた。

 ルシアは正面を見ない。

 見れば、また胸の奥が痛むから。

「神様……」

 その呼び方に、喉が鳴った。

 違う、と言おうとした。口は開いた。

 でも、声は出なかった。

 母子が去ったあと、ルシアは膝を抱える。

「……あとで」

 誰にともなく呟く。

 胸の奥に、熱と痛みが残る。いつも通りだ。

 背中で羽が淡く揺れる。

 視界の端に見えるが、ルシアは目をそらす。

 理由を考えると、また同じことをしてしまうからだ。

 そのとき。

 背中に、やわらかな重み。

「……たすけて……」

 振り返らない。

 逃げるかどうか、先に決める。

 空には雲。

 誰もいない。

「……きのせい」

 言えば楽になる。

 それでも、口にした。

 足元に、小さく光が落ちた。

 豆粒ほどの、淡い光。

 近づかず、離れず、揺れている。

 ルシアはすぐ触らない。

 一度、周囲を確認する。

 誰もいないと分かって、ようやく指先を伸ばす。

 光は逃げない。

 ――ありがとう。

 息を止める。

「……それは……」

 言葉は途中で途切れる。

 悪魔に祈りは届かない。それが世界の決まりだ。

 でも、ルシアは振り払わなかった。

 包むほど強くも、閉じ込めるほど冷たくもない。

 ただ落とさないように、手を丸める。

 空のどこかで、視線が重なった。

 ルシアは気づかないふりをする。

 気づいたら、戻れなくなるからだ。

「……あとで」

 また呟く。

 先延ばしの癖は、今日も消えなかった。


 夜が深くなる。

 川沿いの石に腰を下ろすルシアの手の中で、光が小さく揺れる。

 胸の奥が、ぎゅっと締め付けられる。

 嘘をついたあとの痛みだ。少しずつ、昨日より強くなる。

「……見なければ、考えなくていい」

 独り言は、自分への言い訳だった。

 そのとき、背後で影が動いた。

「……まだ、やってるな」

 低い声。

 振り向くより先に、ルシアの身体が一瞬硬直する。

 月明かりに浮かぶのは、長い影と、くっきりとしたシルエット。

 ヴァルだ。川を挟んで立っている。

「……ヴァル」

「その顔、人間助けたな?」

 口元だけが少し笑む。

 腕は組まず、でも距離は縮めない。

 見ているだけで、ルシアの心臓が少し跳ねる。

「……たまたま」

 声は小さい。

 でも、間を置くことで、嘘を隠していることが伝わる。

「たまたまで三回目だ」

 指を三本立てて、ルシアをからかう。

 だが近づかない。

 余裕と距離が、自然な色気になっている。

「やめとけよ。悪魔が“よかったね”なんて言われるの、ろくなことにならない」

「……分かってる」

 口を開いた瞬間、胸がまた痛む。

 昼間よりはっきりとした痛み。

 嘘を重ねる代償だ。

 ヴァルは近づかない。

 でも視線だけで、逃げ場を塞ぐ。

「見せろ」

「だめ」

 即答。

 胸元の光を守る手は、自然と丸まる。

 ヴァルは短く舌打ちをする。

「……二回目だな」

 光は微かに脈打つ。

 昨日より少し大きい。

「……勝手に……出てきた」

 ルシアの声は震えていない。

 でも、指先の光が語る。

 ここに、確かに“祈り”がある。

 ヴァルは顔を曇らせた。

「……最悪だ」

 短い言葉に、意味は重い。

「やっぱり、だめ?」

「だめとか、そういう話じゃない」

 視線を空に向ける。

 星のない夜を、睨むように。

「それは“祈り”だ。しかも、生きてる」

 ルシアは小さく息を吐く。

 胸の奥で痛みが広がる。

「……捨てればいい?」

「できるなら、とっくに言ってる」

 ヴァルは答えない。

 答えは、沈黙の中にあった。

 光が、少しだけ強く揺れる。

 ――たすけて。

 はっきりと、聞こえた。

 胸元で手を丸める。

 守るでも、閉じ込めるでもなく、そっと。

 空の奥で、何かが動いた。

 確かに、視線が降りてきた。

 ヴァルが低く呟く。

「……来るぞ」

 ルシアは、空を見上げない。

 見れば、決めなければならない。

 胸の奥で、覚悟と痛みが混ざり合う。

 今、この瞬間、何かが始まる――

 そう、自然に分かってしまった。

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