偽善の終焉と、再生への一歩
勇者シグムント討伐から三週間。
最終決戦の地、古代の祭壇跡は静寂に包まれていた。シグムントの遺体は、セレスの要望により、簡素な墓に埋葬された。
彼の死は、世界に安寧をもたらすどころか、巨大な力の均衡を崩した混乱の始まりでもあった。
魔王ガルフは、約束通り、人類との間に一時的な不可侵条約を結び、魔王軍を魔王領へと撤退させた。彼はアリアとセレスに言った。
「シグムントという鏡は消えた。だが、貴様らの社会の構造的な病は、何も解決されていない。真の戦いは、これからだ」
ガルフは、人間社会がシグムントの破壊から立ち直れるか、それとも自壊し続けるかを静かに見守る姿勢を示した。
セレスは、命を削る秘術の後遺症で、身体は弱っていたが、精神はかつてないほど強靱になっていた。
彼女は残された神官たちを率い、破壊された神殿の瓦礫の撤去を始めた。
「神殿が守るべきは、古い教義ではない」セレスは信徒たちに語った。
「現実に苦しむ人々の心の居場所です。勇者殿が破壊したのは、私たち自身の独善的な傲慢さでもあった。私たちは、一から、真に人間に寄り添う教えを再構築しなければならない」
アリアは、野火団の生き残りと、シグムントの討伐によって居場所を失った貧困層を率いて、アルベド帝国領の最南端、かつての荒れた村に共同体を築き始めていた。
彼らはもう略奪に頼らなかった。魔王軍が撤退時に残していった物資と、セレスが神殿のわずかな残財から工面した資金を元手に、開墾と建設を始めた。
「なぜ、そこまで地道なことをするんだ?」
かつての野火団の仲間がアリアに尋ねた。
アリアは、土まみれの手で汗を拭った。
「シグムントに、私たちが生きる権利を奪われたからだ」
彼女は、シグムントとの最後の対峙を思い出していた。彼の最期の言葉は、「なぜ、間違ってしまったのだ」だった。
「奴は最後まで、自分が『悪』である理由が理解できなかった。奴が正義を貫けたのは、力が全てを解決すると信じていたからだ。だが、現実は違う」
アリアは、荒れた土地を見た。
「真の善意ってのはな、地道で、面倒で、利益にならなくて、誰からも英雄と讃えられない、こういう作業のことなんだ。力を振るうことじゃない。誰もが生きる場所を作る努力だ」
アリアの共同体は、最初は貧しく、小さなものだったが、シグムントの暴走によって絶望していた多くの人々にとって、現実的な希望の光となりつつあった。
彼らは、シグムントの「絶対的な正義」よりも、アリアの「生きるための連帯」にこそ、未来を見出した。
物語の数ヶ月後。
世界は依然として混乱していたが、シグムントという**「善意で動く邪悪」**が消えたことで、人々は新たなバランスを見つけ始めていた。
セレスは、荒廃した神殿の跡地で、貧困層や孤児たちに知識と食料を提供し、彼らが社会に復帰できるための地道な支援を続けていた。
彼女の神殿は、権威ではなく、奉仕の精神を基盤として再建されつつあった。
アリアの共同体は、周辺の貧しい村々との協力関係を築き、人々の連帯によって生きる力を取り戻していた。彼らの存在は、シグムントの正義が目指せなかった**「弱者による自立」**を体現していた。
魔王ガルフは、魔王城からこの光景を眺めていた。
「面白い。人類は自滅しなかったか」ガルフは笑った。
「彼らは、シグムントという絶対的な敵を得たことで、最も敵対していた者同士が協力し、新たな社会の土台を築き始めた」
ガルフは、シグムントを討ったことは、彼自身の目的――人類社会の崩壊――にとっては失敗だったかもしれないと悟っていた。しかし、彼はその皮肉を楽しんでいた。
「勇者シグムントよ。貴様の正義は、世界を救うものではなかったが、貴様の存在は、結果として人間に『真の善意』とは何かを教える、最大の犠牲となったな」
アリアは、夜明けの共同体の外れに立ち、遠く、シグムントが埋葬された方向を見た。
彼女の瞳に、憎悪はもうなかった。あるのは、過去への反省と、未来への静かな決意だけだった。
「あんたは、間違った。だが、あんたの死は、私たちを繋いだ」
シグムントが残した**「善意の暴力」の深い傷跡は、消えることはない。
しかし、その傷跡を教訓として、人々は絶対的な正義**ではなく、現実的な責任を重んじる、新たな世界の構築へと歩み始めていた。
勇者なき世界で、人魔の間の和平は脆いバランスの上に成り立っている。
だが、少なくとも、彼らは**「独善的な善意こそが、最も危険な悪である」**という、最大の教訓を得たのだ。
真の善とは、独善的な暴力ではなく、他者の痛みを理解し、面倒な現実と向き合い続けること。
物語は、その地道で、しかし確かな一歩をもって、幕を閉じた。




