桃
桃の毛深い皮に指がめり込んだことに気付いて、千草ははっと手をひいた。
『桃は大変デリケートな果物です。押した場所から痛んでいきます。やさしく扱ってください。――岡田マート青果部』
なにも今ごろ目につかなくともいいのに。鼻につく甘い香りから思わず目をそらすと、ガラス戸の向こうで今にも景色が溶けだそうとしていた。透明な油でかき混ぜられるように視界が歪んでいくのは、夏の暑さのせいにちがいない。
千草は目を細めると、三年前の甲子園を思い出した。ガラスをへだてた向こう側から聞こえるセミの声が、球児の一挙手一投足にわく歓声のようだった。手に汗とスコアボードをにぎりしめた夏、千草は一回戦で敗退した野球部員たちと共に、普段は虎柄のハッピとダミ声のあふれる球場を後にした。
よくあの暑さに耐えられたものだ。汗まみれの男たちが集まるベンチには、各種ドリンクをつめこんだクーラーボックスと小さな扇風機とうちわ、甲子園名物のかちわり氷があるだけだった。
たった三年前のできごとなのに、今の千草はクーラーのない場所にいるだけで汗がにじんでくる。駅に向かう途中、日差しから逃げるようにスーパーマーケットに転がりこんだのも、ただ涼が欲しかっただけで、桃が欲しかったわけではない。千草の財布にあるのは通学定期とレシートの山ばかりで、余分な金など一円もないのだ。
先日別れたばかりの徹は、桃が好きだった。ともに甲子園を経験した野球部員の彼は、クーラーボックスにも必ず不二家のネクターを二本入れており、試合が終わると一緒に飲んだ。勝ったときは甘さに疲れをいやされた。負けるとやけにノドにひっかかった。試合後のネクターは最高だと白い歯を輝かせていたのが、目に焼きついてはなれない。万年補欠部員だった徹のどこに惹かれたのか、千草にはもう思い出せなかった。きっとベンチで一緒にいる時間が長かったというだけだ。
どうしてエースにしなかったのかしら。
汗臭い野球部に女生徒のマネージャーとくれば、多少性格やしゃべり方に難があっても受け入れられるものだ。幸い千草はごく普通の性格をしていたし、しゃべり方にこれといった特徴もなかったからモテた。今から考えると信じられないことではあるが、高校時代は完全に需要の方が多かったのだ。
あのときのエースピッチャーは、大学でも野球を続けているらしい。高校卒業後、転職をくりかえしている徹とは大違いだ。
つぶれた桃を棚の奥へと隠す。てのひらに残った桃の果汁が不愉快だ。
ふいに手をつかまれて、目をむいた。戻そうとしていた桃は床に転がり、果汁が手首へ垂れた。
「お客さん、困ります。桃が傷みます」
ふりかえると、白い歯のきらめきがあった。甲子園で飲んだネクターのように、千草の叫びがねっとりと喉の奥にはりついた。分厚い男の手がときめきを伝えるべく、とくとくと脈をうつ。
徹と別れた日、千草は自分が飲むはずだったネクターを机の上へ置いてきた。今まで偶数だった空き缶は、四年間ではじめて奇数になった。
「千草、やりなおそう」
ネクターを机に一本だけ残して徹の家を出たとき、千草が見上げた空は見事な茜色だった。試合は終わった。
「ねえ……もしかして、ここで私が来るのを待ってたの?」
茜色の空が徐々に藍を濃くした頃、たしかにせいせいした気分がした。同時に、四年間の習慣が崩れてしまったことが、ほんの少し寂しかった。
「ああ、ここなら弁当買いにくるんじゃないかって」
時間を巻き戻しかけた千草の空は、やはり青いままとどまった。弁当を扱うのは青果部ではない。惣菜部だ。
徹は照れたように桃へ視線を送っている。けれどもそれが自分のためであることを、千草はよく知っていた。
つぶれた桃を蹴った。桃は不規則な軌道で転がり、老婦人のカートにひかれた。
「私、ピンクグレープフルーツジュースが好きなの。あっさりしてるし」
千草はスーパーを後にした。老婦人の訴えを聞かなければならない徹が、千草を追いかけてくることはない。
桃は押した場所から痛んでいきます。
やはり追いかけてくる人はいなかった。