18 少しでいいから
あの日以来、倉田さんが俺に話しかけてくる事はなくなった。
そうだよな。あんな風にいきなり切れた俺になんかに話しかけたくないはずだ。
今となっては後悔しか襲ってこないけど、でもそれだけ幸の事が大切だった。幸の事を理解してくれない倉田さんに頭にきた。
倉田さんがどんな思いでいるか考えもしないで。
18 少しでいいから
「春哉、お母さんパート先が決まったの」
そう嬉しそうに語るお袋に食べていたポテトチップスが床に落ちた。
お袋は汚い!と俺を怒ってきたけど、そんな事俺にはどうでもよかった。働く?お袋が?
お袋の状態はかなり良好な物になっている。もう前のお袋と比べても変わりないくらい。でもだからと言って急すぎないか。
お袋は俺の隣に腰掛けて、黙っててごめんとまず謝ってきた。
「ごめんね、勝手にパート探してて。でもね、後藤先生もそろそろ社会復帰してもいい頃だって言ってくれたの」
「だからって……急だよ」
「少しでも春哉にちゃんとした高校生活を送らせてあげたいのよ。もうお母さんは大丈夫だから」
大丈夫って……
そう言ってのけたけど、正直言って不安だ。また再発するんじゃないのか。
複雑そうな顔をしていたらしい俺の頬をお袋が引っ張ってくる。
「何すんだよ」
「変な顔しない。でもありがとう、春哉には心配たくさんかけたね」
「あんなの心配の内にも入んねぇよ。それよりパート先はどこに決めたの?」
「会社の事務職。お母さんのお友達が紹介してくれたの」
へぇ……なんだか知らない間に話がぶっ飛んでたんだなぁ。
お袋がそれだけを伝えて、俺にご飯作るから待っててくれと促してくる。
それを手伝うために一緒に台所に向かえば、もう無理しなくていいと言われた。
「春哉はテレビでも見てなさい。高校生の男の子がそんなお母さんのご飯の手伝いとかしなくていいのよ。お母さんが悪い時は春哉がずっとしてくれたもんね」
「いいよ、そんで無理してまた体調崩されたらたまんねぇし。別に嫌だと思ってないから」
ハッキリそう返せば、少し驚いた顔をされた。でもお袋は無理をする。また家事を全部引き受けさせてパートまでさせてたら元の黙阿弥になってしまいそうだ。
お袋は少しずつ俺と親父が支えていけばいい。
何作る?と聞けば、今日はお刺身だから、そんなに作る物はないと言われた。
正直魚をさばくのは得意じゃない。ていうか余りできない。本当に俺は今回役に立たなさそうだ。
仕方ないから米をといで炊飯器に突っ込んだ後は皿を出したりと簡単な手伝いをしただけだった。
その時にふと思った。
俺はお袋相手ならこうやって助ける気になるのに、何で倉田さん相手に支えようって思えなかったんだろう。
いや、支えようとは思ったんだ。でも倉田さんを見てたらそんな気がなくなった。
幸に似すぎてたから?いや、それは余りにも理由として最低すぎる。じゃあなんで……
色々もくもく考えていると1つの結論に辿り着いた。
そうだ、倉田さんが前を見てくれないから。幸が消えてやっと表の世界に出てこれたのに悲観的な事を言うから……
お袋みたいに頑張ろうとしてくれないから。
お袋はこうやって少しずつ前進して今のような状態になった。でも倉田さんはいつまで経っても前を向いてくれない。
いや違う。俺が焦りすぎてるのか?
精神病がそんなに簡単に克服できる訳がない。現にお袋だって今の状態になるのに半年以上かかってるんだ。
お袋だって1カ月過ぎた時期は自殺したいと泣き叫んでいたのに、同じぐらいの期間しか経ってない倉田さんが前を向けるはずがない。
そう冷静に考えてみたら、俺はかなり酷い事を言ってしまったのだ。
そのせいでどのくらい倉田さんを傷つけたのか分からない。でも俺のせいで倉田さんは確実に傷ついていた。
泣きそうな顔をしていた。それなのに俺は……
今更に自分がやった事に対する罪悪感が襲いかかる。今倉田さんは大丈夫なんだろうか。
連絡を取りたい。でも俺なんかが電話したりメールしたりしたら倉田さんは怖がるかもしれない。脅迫されてるって思われるかも。
でも……どうすればいいんだ!
「春哉、どうしたの?」
「え?」
気付いたら立ち呆けてたらしい俺をお袋が覗き込んできた。
心配しか宿していない瞳が俺を捉えている。お袋になら話してもいいのかもしれない。お袋に負担をかけるのは良くないってわかってるはずなのに、誰かに相談せずには居られなかった。
視界が少しずつ緩んでいき、くしゃっと顔が潰れて行くのが分かる。
驚いたお袋は俺を椅子に座らせて、どうしたのか聞いてきた。
そして俺はありのままのお袋にはなした。
幸が抱えていた精神疾患は二重人格だった事、それを知ってて幸と付き合った事、幸が消えて別の人格が出てきてしまった事、そしてその人格に幸を重ねて当たってしまった事。
全てを話して多少はすっきりしたけど、心に深く根付くモヤモヤがなくなる事はない。
お袋は悲しそうな顔をして俺に頑張ったね、と告げた。
「そう、そんな事があったの……春哉はどうしたいの?」
「え?」
「その子を支えたいの?それとも幸ちゃんに戻ってきてほしいの?」
「……分からないんだ。倉田さんを学校で支えなきゃって思う。事情知ってるの多分俺だけだし、でも倉田さん見てると幸と重ねて冷静に対応ができないんだ……」
「そっか」
お袋は悲しそうな顔をしたまま俺の手を握った。
お袋の手は水を触っていたから少し冷たく、気持ち良かった。
「春哉、お母さんはね。それをそのまま言った方がいいと思う」
「そのまま?」
「うん。貴方を支えなきゃいけないのは分かってるけど、幸ちゃんを思い出しちゃうから辛いんだって。その子も春哉に頼りたいんだろうけど、それが怖くて本当の事を喋れないんだと思う。だから先に春哉が全部自分の事を打ち明けて。そしてその後に、その子の全部を受け入れてあげて。前に春哉がお母さんにそうしてくれたように」
そうだ。お袋がうつ病になって1週間ぐらい経った時、変わってしまった家が嫌で、お袋に切れた事があった。
今の家の状態が嫌なんだ!お袋が変な病気にかかるから、バイト探さなきゃいけなくなったじゃん!って。
親父にものすごい怒られて不服だったけど、今思ったら最悪な事を言ったと自覚してる。
でもお袋はそれと同じ事を幸にやれって言うのか?
「わかるよ、春哉が言う言葉は確かにその子を傷つける。でもお母さんの時と違って、春哉はその子を助けようと思ってるじゃない。だからきっと伝わるよ。お母さんの時は春哉本気で切れてたもんね。今の春哉の爪の垢を煎じて飲ませてあげたいくらい」
「……そんなに酷かったっけ?」
「少なくともお母さんは追い詰められたわ。まぁ今はもう笑い話だけどね」
そう言ってお袋が笑っている時に親父が帰ってきた。お袋は2人だけの秘密ね、と言って親父を出迎える。
親父は荷物を自分の部屋に置いて着替えてからリビングに入ってきた。
「今日パート先が決まったのよ」
「え?いつから働くんだ?」
「来週から。週3で。病院に通いながらだし、まだ治りかけだから無理はするなって先生が言ってたから」
「そうか、体にはため込むなよ」
「分かってる。それで今春哉と話してたのよ。お母さんがうつ病になった時、すぐに春哉が切れたねって」
「あぁ、あの時は本気で春哉を殴ってしまったなぁ。ははは!まぁ春哉に俺も殴り返されたけどな」
笑って話してるお袋と親父に少し呆気にとられた。
もうそれは笑って話せる事なのか?俺的には家庭崩壊一歩手前かもって悩んでたのに……
でもこんな風に時間が解決していく物なんだろう。
だから倉田さんもきっと時間が解決していくはずなんだ。明日話しかけてみよう。笑って接しよう。
少しでも倉田さんが俺を拠り所にして現実に目を向けられるように。
新たな決意をする木曜日、
そして少しずつ成長していく。