05 エメラルドのブローチ
ギルフォードはジェナーの部屋から出た後、部屋の扉に背をつけてもたれかかった。
服の上から、いつも肌身離さず持ち歩いているあのブローチをそっと撫でる。
「……お嬢様」
ギルフォードがエイデン伯爵家の使用人として雇われてから2年が経った。まるで夢のような日々だった。
かつては、自分から遥か遠い、雲の上のような存在だった彼女はすっかり自分に心を許してくれている。それだけで心は満たされていたはずなのに、恐れ多くも求婚まがいなことをして彼女を困らせてしまった。
ジェナーにはジェナーの立場がある。貴族の家の娘で、美しく優しい彼女になら、妻に貰いたいという令息が絶えないだろうし、自分のような何の地位も名誉もない人間ではなく、家柄も良く、しっかりとした生活の拠り所のある相手が彼女には相応しいと分かっている。――たとえ、自分が帝国の皇家の血筋であったとしても、今の自分とは全く無関係なのだ。
思いを通じ合わせたいなど、願ってしまうのはおこがましいことだと百も承知だったのに、彼女の特別になることを望まずには居られなかった。
◇◇◇
不良に絡まれるジェナーを助けた日から、更に遡ること――5年。
それは、ジェナーの記憶にはないが、ギルフォードには未だ色褪せずに鮮烈に焼き付いている出来事だった。
ギルフォードがまだ幼い少年の頃。
当時、エイデン伯爵家がある都市クロムの片隅の小さな荒屋で、母ミリアと2人、慎ましくもそれなりに幸せに暮らしていた。しかしながら、ミリアが病床に伏してからは生活が困窮し、ギルフォードは日雇いの仕事を必死にこなして何とか生計を立てていた。
母の顔立ちはどう考えてもこの国の人のものではなく、クレイン王国の人間にはないのだろうと察しがついてはいた。ミリアが繰り返し体調を崩すようになった頃、彼女からギルフォードの本当の身分を明かされる。彼女がかつて帝国テーレで踊り子をしていたこと、ギルフォードの父親が、テーレの現皇帝であることを聞かされた時はいささか驚いたものだった。
ギルフォードの存在は世間から隠され、不義の子を産んだミリアは母子共々国を追われて、今の都市クロムでの生活に至るらしい。
しかし、それを知ったところで二人の暮らしぶりは変わることはなかった。
まもなく母が亡くなってギルフォードが孤児になったころ、彼女に出会う。
ギルフォードがジェナーと出会った日。
凍えるような冷たい風が吹く冬の日の事だった。
街の大通りで馬車が事故を起こしたらしく、ギルフォードは死馬の処理を仕事として引き受けた。
死人も出た大きな事故で、現場は凄然としていて、近づくことも躊躇われる。しかし、死んだ馬の処理というのは結構金になる。馬の皮は加工用に使えるし、骨からは接着剤として用いられる膠が取れる。ギルフォードは子どもながらたくましく生きる知恵があった。生活のためと思って大人たちに混ざり馬の死体を処理していると、遠くに停められた豪勢な馬車の中から少女が降りてきて、ギルフォードの元へ走ってきた。彼女が幼き日のジェナーである。
(……女の子? こっちに走ってくるけど、誰だろう。とても良い服を着ているし……貴族、だろうか)
石畳の道は血で汚れ、辺りは鉄や血の嫌な匂いが漂っている。それでもジェナーは全く意に返さず、ギルフォードの目の前で止まって笑った。
「おしごと、ごくろうさまです。……これ、あげる。寒くてかぜをひいちゃうよ?」
「え……」
そう言って自分が掛けていた大判のウールストールを差し出したのだった。
どうして彼女の目が自分に止まったのかは分からない。ギルフォードよりもまだ幼いジェナーだったが、同じ年頃の子どもが寒空の下で死んだ馬の処理なんてさせられている姿に同情でもしたのだろうか。
「……ありがとう」
ギルフォードは、紫の生地のストールを受け取り、出来るだけ丁寧に頭を下げた。ストールはジェナーの温もりが残っている。そっと自分の体に羽織ってみせると、ジェナーは満足した様子で微笑んだ。
「あったかい?」
「うん、とても暖かいよ」
「そう、よかった。……お馬さん、死んでいるの?」
「うん。君は、見ない方がいい」
しかし、ジェナーは馬の前にしゃがんで両手を合わせた。
「かわいそうに……。いつも私たちのために働いてくれてありがとう。どうかゆっくり休んでね」
「…………」
(……この女の子は、変わった子だ。こういうことは普通ならできない)
目を背けたくなるような陰惨な馬の死体の前で、少しも怯えた様子を見せないジェナーに、ギルフォードは驚いた。
「あなたも、大変なおしごとをしてくれてありがとう。あなただって辛いはずなのに、りっぱね」
「…………!」
彼女の労わるような表情に、ギルフォードの心臓がどきりと跳ねた。
更に、ジェナーはストールだけでなく胸に付けていたブローチを外してギルフォードに握らせた。
「これも、よかったらあげる。売れば少しくらいはお金になるかも」
ジェナーは幼いながらも、街の孤児の貧しさを理解しているようだった。ジェナーが差し出してきたのは、ギルフォードのような賎しい身分の者が一生手にすることなど出来ない高級品だった。
「い、いいの?こんな高価なもの、……俺なんかがもらって」
「うん!」
ジェナーは大きく自信たっぷりに頷いて、にこにこと満面の笑みを浮かべている。
ギルフォードは誰かから物を贈られたことなどなかった。町で暮らす人たちは皆貧しくて、自分たちの生活に必死だ。どこか心に余裕がなく、殺伐としていた。ギルフォードには、特別親しい人はいなかった。
しかし、母が亡くなってから孤独と共に生き渇いた心が、彼女の笑顔で一瞬にして癒えていく気がした。
厳しい寒さを感じさせない快活な雰囲気に、プラチナブロンドの髪と宝石のようなエメラルド色の瞳。無邪気で子供らしさ満載なのに、まるでショーウィンドウに展示されている人形のように美しい容貌の少女。ギルフォードは子ども心にもどうしようもなく惹き付けられたのである。
「かぜを引かないようにあったかくしてね。……さいきんはとても冷えるから」
「うん……君も」
「じゃあ私、行くね」
「ま、待って……!」
くるりと背を向けたジェナーを、気がつくと引き留めていた。ジェナーが不思議そうに小首を傾げた。
「どうしたの?」
「また……会える?」
ジェナーは驚いたように目をしばたかせた後で、にっこりと可憐に微笑んだ。
「うん。――きっと」
ジェナーは手をひらひら振りながら、気の良さそうな中年の護衛の男性騎士に連れられ、大層豪奢な馬車へと帰って行った。
思わず、胸を抑えていた。こういう気持ちを、なんというのだろう。ギルフォードが知る語彙では表現出来ないような、胸に広がる暖かな感覚は――。
(名前を聞けばよかった。……あの子は、何というんだろう。……優しくて、崇高な心を持った少女だった)
ギルフォードは、手に残った自分には不相応なエメラルドの石に、少女のとても綺麗な瞳を思い浮かべた。
◇◇◇
ギルフォードにとっては、運命的な出来事であるが、当のジェナーはすっかり忘れてしまっているらしい。
あの日から、ギルフォードは名前も知らない少女に憧れを抱き続けていた。5年ぶりに再会を果たした彼女は、孤児を使用人として貴族家の屋敷に招いてしまうような相変わらずのお人好しだった。そして夢は叶い、彼女の傍で過ごした2年は身に余るほど幸福な日々だった。ジェナー・エイデンという人間は、知れば知るほど清廉で優しく、ギルフォードの心はどうしようもなく彼女に魅了されていった。
しかし――
憧れは憧れのままで終わったのだ。一世一代の告白をジェナーは笑ってはぐらかした。
(彼女はいつだって、好意をほのめかすと困ったように誤魔化す。1度たりとも俺と向き合おうとはしてくださらなかった)
しかし、それを責めるつもりはない。本来ならば、思いを伝えることさえはばかられる相手なのだから。身のほど知らずに恋心を抱いて傍で仕えていた自分こそ最も愚かだったのだ。
彼女が拒否するのなら、身を引くつもりだ。1番大切なのはジェナーの意志だ。憧れは憧れのまま、大切な記憶として心の奥にしまって、エイデン家を離れよう、そう密かに心に決めた。
ギルフォードはもう一度、エメラルドのブローチをぎゅうと握りしめる。『売ってお金にするといい』と言われ譲り受けた品だが、どんなに貧しくともこれを手放すことはできなかった。ギルフォードはブローチからそっと手を離し、ティーワゴンを再度押し進めた。




