48 悪役令嬢の特別な皇子様 (最終話)
「お嬢様、お目覚めの時間です」
「ん……? もう……すこし」
ジェナーは眠気半分に呼び掛けに答え、再び心地の良い微睡みに沈む。
「本日は――テーレ帝国の皇太子があなたに正式に結婚を申し込みに来る日、でしょう? あなたがいつまでも寝ていらっしゃるから、もう本人が到着してしまいましたよ」
意識は半分眠りの中で、話しかけられていることが、まるで夢の中のことのように遠くに感じられた。
その時、ジェナーのベッドの傍らで小さな溜め息が聞こえる。
「俺の未来の花嫁は、なんと困ったお方だ。……そのような無防備なお姿のままでいたら、俺に何をされても文句は言えませんよ。悪いのは、いつまでも夢の中におられるあなたなんですから」
「…………」
誰かの気配がジェナーの顔の間近に接近し、そっと目を開けると、もう少し近づいたら顔のどこかが触れてしまいそうな距離にギルフォードの顔がある。ジェナーと目が合うと、彼は接近する動きをぴたりと止め、悪戯に口角を上げた。
「おや、残念です。やっとお目覚めですか?」
「私ったら……こんな肝心な日にまで寝坊するなんて情けないわ。……アンナももっとしっかり起こしてくれたら良かったのに……」
「アンナさんを責めるのは角違いかと」
ジェナーは半身を起こして、ぐっと伸びをした。
「おはよう、ギル」
「おそようですよ、お嬢様」
「…………」
ジェナーはギルフォードと顔を見合わせて、ふっと笑った。
「すぐに支度をしていくから、客間で待っていてくれる?」
「はい。お待ちしております」
◇◇◇
ギルフォードと入れ替わるように、呆れ混じりのアンナがジェナーの部屋へやってきた。寝坊したことを悔やみながら、彼女に身支度を整えてもらう。鏡台の前に座る。アンナが椅子の後ろで、髪を梳かしてくれた。
「お嬢様は、今日もとてもお美しいですね」
「ありがとう、アンナ」
「お嬢様」
「……?」
アンナの柔らかな声が囁いた。
「幸せにおなりなさいね。ギルフォード殿下は、他のどんな殿方よりあなたのことを想い、尊重してくださるお方です」
「アンナ……。ええ、きっと」
「ずっと、私共使用人は、お似合いのお二人だと話しておりました。お嬢様のお傍にいるのは彼のような方が――いいと」
ギルフォードが屋敷に勤め始めてから、彼のことも、ジェナーのこともずっと心にかけ、世話を焼いてきたアンナ。二人の関係を見抜いていながら、静かに見守ってくれていたのだ。きっとそれは、アンナだけではなく、他の使用人たちにもいえることだろう。鏡越しに微笑んだアンナの瞳は、微かに潤んでいた。
◇◇◇
ドレスに着替えて化粧を施し、客間へ行くと、ギルフォードが大きな花束を抱えていた。
水色が晴れやかな空を思わせる、星型のブルースター。
鮮やかな真紅が美しいバラ。
ふわふわと小ぶりの白い花が無数に咲き誇るかすみ草。
とても華やかな花束に、ジェナーは目を惹かれた。
ギルフォードはこちらに歩み寄って跪き、優美な所作で花束を差し出した。窓から差し込む暖かな朝の光が、床に歪な四角を描いている。朝の光を受けて、彼のライトブルーの瞳が、透き通るように美しい。そんな彼の双眸が、凛とこちらを見つめている。
「これからもずっと、俺の隣にいてください。必ずあなたを幸せにすると約束します。……ですから――ジェナー……さん」
「……」
ジェナーの心臓が音を立てた。ギルフォードの緊張と切実な想いが伝わり、きゅうと胸が甘やかに締め付けられる。
「俺と、結婚していただけませんか」
ギルフォードは帝国テーレにて、既に多くの重鎮たちから期待を得ていた。眉目秀麗にして有能。加えて、庶民育ちの気さくな性格は、エイデン伯爵家にいたころと同じで多くの人に好まれた。
そして。此度の在国中に、ジェナーを皇宮に迎えることを承認させたのである。その背景には、オリヴィア皇后の一助があり、ジェナーが孤児だったギルフォードに高度な教育を施したという功績(※はったり)が評価されたことが大きい。
ジェナーは彼の手から花束をそっと受け取り、瞳に涙を浮かべながら頷いた。
「はい……もちろん。私も、ずっとあなたの隣にいたいです……っ」
ジェナーは声を震わせながら何度も何度も頷いた。ギルフォードは嬉しそうに目を細め、ジェナーを抱き締めた。
「嬉しいです。これでようやくあなたを俺だけのものにできる」
「もう……私は物じゃないでしょう?」
ジェナーは苦笑した。そして、彼と抱き合ったまま耳元で呟いた。
「あのね。私……思い出したの。ギルと初めて会った日のこと」
「え……」
「11年前。凍えるような寒い冬の日だった。あなたは、街道で死馬の処理をしていたのよね」
ギルフォードはジェナーを抱いていた腕を離し、ライトブルーの瞳を大きく見開いていた。思い出したのは、少し前のこと。本当に何の前触れもなく、忘れ物を思い出すような感覚で思い出したのだ。2人にとって、とてもとても大切な記憶を。
「私ね……小さい頃から、不思議な夢を見ていたの。だから、あなたのことをずっと知っていた」
不思議な夢とは、前世で乙女ゲームをプレイしていた記憶のことだ。ジェナーは幼いときから何度も、夢を見るようにギルフォードを思い出していた。
「会ったことがなくても、ギルのことは知っていた。だから、あなたを見たときにね、寒そうにしていたあなたを暖めて、喜ばせたいと――思ったの。あなたに喜んでほしくって、ブローチを譲ったのよ」
ギルフォードは驚いた表情で、瞳にうっすらと涙を浮かべた。彼が泣くのを見たのは初めてのことだ。
「そうです。覚えています。俺にとって何よりも大切な――宝物のような記憶です。……あなたは、また会えるかと尋ねた俺に、きっと会えると答えてくださったんですよ」
彼は愛おしい記憶を思い出しながら、優しい声音でそう言った。
当時のジェナーは、幼いながらに自分が悪役令嬢として孤児の彼を屋敷に連れ帰る運命をどこかで悟っていたのだろうか。
ジェナーは花束を片腕で抱え、もう片方の手をギルフォードの頬に伸ばした。陶器のような滑らかな肌を労わるような手つきでそっと撫でる。
「私たちは毎日の中で多くの出会いを重ねている。時間と共に多くのことを忘れ、人も常に変わっていく。けれど、変わらずに心に留まり続けていくものも確かにあるということね」
出会いに1つとして偶然はない。束の間の出会い。全ての縁が必然であり、儚さを孕んでいる。世界はひとときの特別な縁で溢れているのだ。
(私はこれからもずっと、ほんのひとときであろうと、出会う人との縁を大切にしていこう。誠実でいよう。全ての出会いに意味があって、特別なものだと私は思うから。2年で縁が終わるはずだったこの人は、今は世界で1番――大切な人になった。運命はそう……いくらでも変えられるものなんだわ)
ギルフォードがそっとこちらに微笑みかける。
「ジェナーさん。孤児だった俺のことを拾ってくださってありがとう。あなたに巡り会えたことが俺にとって最上の幸福です」
「ええ。私も、これからもあなたと居られることが一番嬉しい」
ジェナーはギルフォードとどちらからともなくそっと唇を重ね合わせた。長い口付けの後、2人は額をくっつけて微笑み合う。
(ありがとうギル。――ただの悪役令嬢だった私を、こんなにも好きになってくれて。ギル……――大好き)
ギルフォードの服の胸に飾られた――エメラルドのブローチがその刹那、微かに光ったのだった。
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