41 前準備
「ヒルデ様。……少々お時間よろしいでしょうか」
ジェナーは学院のとある講堂で、友人たちと談笑していたヒルデ・ドールに声をかけた。ヒルデは今日も、気品に満ちて毅然としている。彼女は友人たちに、「行ってきますわ」と一言残して席を立ち上がった。
講堂を出て、廊下の人目がつかない場所に彼女を連れていく。
「先日は、ご親切にありがとうございました」
王城の夜会でヒルデに借りていたロンググローブと、お礼の品が入った袋を渡す。
「あら、わざわざありがとう。別に大したことはしておりませんわ。……それで、傷の具合は?」
ジェナーは右腕の制服の袖口のボタンを外して、腕をまくって見せた。腕の傷はすっかり治り、傷跡もほとんど目立っていない。左腕は傷が深かったため、まだかさぶたになっているので、良い方だけを見せておく。
「この通り、おかげさまでほとんど治りました」
オリヴィア皇后はというと、夜会後に彼女からジェナーに宛てて直筆の手紙が届いた。
夜会からほどなくして、皇太子は崩御し、彼女の精神状態を案じていたが、何とか折れずにやっているという旨も書かれていて安心した。怪我を負わせたことに対する謝罪と慰謝料の支払いについて記載されていたが、慰謝料に関しては丁重に断りを入れた。
そして、手紙の最後には――皇宮で会えるのを楽しみにしている、と流麗な筆跡で書かれていた。つまり、オリヴィアには、未来の妃候補として認めてもらえているということだ。それ以降オリヴィアとは、文通が続いている。彼女は皇宮の権力の中心であり、その後ろ盾を得られたことは大きい。ジェナーも、気まぐれに彼女に声をかけたことが、こんな結果をもたらすとは思いもしなかった。
ヒルデは、ジェナーの腕の具合を確かめ、安堵を滲ませて言った。
「跡にならなかったようで安心いたしましたわ。……用件はこれで終わりですの?」
「いえ。……恐れながら、あなたにお願いしたいことがあるのです」
「お願い……?」
シャーロットの宣言通り、彼女から招待状が届いた。しかし、夜会でのシャーロットの口ぶりに、ジェナーは妙な違和感を感じていた。
「はい。……近日王城で催される、王女殿下の誕生会についてです」
◇◇◇
まもなく、シャーロットの誕生日を祝うパーティの当日を迎えた。ジェナーにとっては、テーレ帝国の皇子お披露目の夜会ぶりの王城である。慣れないもので、王城の絢爛豪華な様子にまたしても圧倒されていた。
(……やっぱり広いわ。今日はギルも居ないし……ちょっぴり不安ね。……会場は確か……)
長い回廊を歩いていると、見覚えのある人物の姿が目に止まった。
肩の辺りでばっさりと切りそろえられた艶のある黒髪。つり目がちな凛とした眼差し。
彼女は、ジェナーが最も親しくしている友人の1人――レイラ・ハーザスト侯爵令嬢だ。エイデン伯爵家とハーザスト家は縁深く、ジェナーより2つ年上の彼女は幼なじみであり姉のような存在だ。いつかの時、ギルフォードに贈るためのラムレーズンチーズケーキのレシピを書いてくれたのも彼女だ。
レイラは男性と話していたが、こちらの姿に気付いて、手招きしている。
「…………?」
ジェナーがレイラの元へ行くと、何やら困っている様子だった。彼女が話していた外国人の方は、顔面蒼白で切羽詰まっている。
「ジェナー! ちょうどいい所に来てくれたわ! この方、クレイン王国の方ではないらしくて、困ってるみたいだけど私には言葉が分からなくて。かなり緊急を要しているみたいなの!」
顔面蒼白の紳士は、エキゾチックな雰囲気で健康的な焼けた肌色をしている。確かに、この辺りでは見ない風貌だ。
その紳士は、身振り手振りでジェナーに訴えた。
『お手洗いに行きたいんだが、場所が分からないんだ! 緊急事態だ! これはかなりまずい、一刻を争っている! このままでは、綺麗な絨毯と私の面子を台無しにしてしまうだろう!』
「…………!」
紳士が話していたのは、ライ語という大陸の西の方でメジャーな公用語だった。流暢なライ語で、「便意、便意」と腹部をさするジェスチャーを踏まえて必死に訴えている。
『……わ、分かりました。私が城の方に確認して、すぐにご案内いたします』
『あなたはライ語が話せるのか!?』
『――少しだけ』
『なんと……! 救世主……!』
ジェナーがライ語で返答すると、紳士は安心したように息をついた。
「ジェナー、この方の言葉分かるの?」
「少しだけね。……お手洗いに行きたいんですって」
レイラは目を瞬いて、ふっと小さく吹き出した。
「それでこんなに焦っていらっしゃるのね……くく」
「笑ったら失礼よ。とにかく……一刻も早く場所を誰かに聞いて来なくちゃ」
「ああ、それなら私、分かるわ」
「本当? なら早くご案内して差し上げましょう」
「そうね。彼の沽券をお守りするために……ね。……ふっふふ」
「もう! 冗談ばかり言ってないで」
レイラと2人で手洗いへ案内すると、紳士はこの上なく清々しい表情で帰ってきた。さながら戦地から故郷に帰還した兵士のごとく涼やかな表情だ。その表情にレイラは笑いを堪えていた。
彼から詳しい話を聞くと、どうやら彼は帝国テーレの大使館で、上官を務めているらしい。本日はクレイン王国への公務で、自国の使節団に同行してきたという。
それをレイラにも伝えると、彼女は妙な笑みを浮かべた。
「なら、ジェナーはまたいずれこの方にお会いすることがあるかもしれないわね」
「どうして?」
「何とぼけてんのよ。未来の帝国テーレのお妃サマ」
「……!」
ジェナーは身体を硬直させた。
『この女性は何と?』
『い、いえ。何でもございません。あの……私たちはこれから予定がありますので、これで失礼させていただきます……!』
『そうですか。本当に助かりました。私はマークス・ロッジ。親切なお嬢さんのお名前は?』
『ジェナー・エイデンです。お役に立てて良かったです。……では!』
『……?』
ジェナーはレイラを引きずるようにして、紳士の元を去った。
「なにもそんなに慌てなくたっていいじゃない? ちょっとからかっただけで面白い子ね」
「レイラはふざけすぎよ。あの紳士の方も困惑されていたわ」
レイラはとにかく、はつらつとしていて明るい人だ。しかし、たまに無鉄砲が度を過ぎて、周囲を困らせることがある。もっとも、ジェナーはレイラの人の良さを知っているので、自由奔放で大雑把なところにも親しみを持っているが。
ジェナーは、先程までの紳士とのやり取りを思い出して呟いた。
「語学の知識が初めて役に立ったわ。……こういうこともあるのね」
「ふふ、これからもっと活躍する場が増えるわ。外交とかね。語学堪能なんて、素晴らしい強みよ。自信持ちなさい」
「……そ、そうかな」
「あー、未来の皇妃殿下はハイスペックで羨ましいこと羨ましいこと。容姿端麗、清廉潔白で聡明な上、極めつけは、類まれなる芸術の才ときた! まさに神に愛されしジェナー・エイデン嬢!」
「…………」
ジェナーはじいっと、いぶかしげにレイラを睨みつけた。
(でも、数少ない私の特技がギルの役に立つなら、これ以上幸せなことはないわ。……もっと勉強頑張ろう)
ジェナーは内心で、健気に決意をしつつ、レイラに尋ねた。
「レイラも、今日王城にいるってことは、王女殿下に招待されたってことよね?」
「ええ。……でも、あんたノコノコ来て大丈夫なの? シャーロット様がギルフォード殿下に心酔してるのはもっぱらの噂よ。理不尽な目に合うかもしれないわ」
「……分かってるわ。誘われた時、王女殿下のご様子がおかしかったのよ。何か悪いことを企んでいらっしゃるような……そんな気がするの。私のことはちっとも好いていらっしゃらないのに、ここに呼んだのはきっと裏がある。でもね……」
ジェナーは数拍置いて言った。
「私は王女殿下を信じているわ。……きっと話せば、分かってもらえる。王女殿下は悪い人じゃないもの」
レイラはやれやれといったふうに首を横に振った。
「全く。……あんたはつくづく人が良いんだから。どんなに素晴らしい人間だってね、恋をすると時に変貌することがあるのよ。シャーロット王女も、その例外じゃない」
「まあ。あなたにもそんな経験があるの?」
ジェナーが尋ねると、彼女はきまり悪そうに目を伏せた。
「人並にね。とにかく、気をつけなさいよ」
「……ええ。私も全く考えなしでここに来た訳ではないわ」
ジェナーはそう言って肩を竦めた。




