12 紋章の効力
ジェナーは緊張から解放されてぐったりしていた。かつてこんなに精神を摩耗したことは経験にない。
恥ずかしくてたまらず、もういっそ彼の顔を見なくて済むように帰って欲しいと思うくらいだ。しかし、想いが通じたから大団円、めでたしめでたしというわけではない。むしろ、問題はここからだ。
ギルフォードはすっかり調子が戻って、ジェナーの代わりに悠長にお茶を用意し始めている。ソファに座ってその姿を見ながら紋章のことを考えた。
(紋章のこと、流石に私に言い出しずらいわよね。……でも、その事実を確かめないと)
ちらりと彼の手元を見る。もし、ギルフォードルートでのシナリオ通り、右手の甲にシャーロットと同じ紋章が刻まれているのなら、ジェナーと共有しておくべき重要事項だ。包帯を巻いているのを見るに――十中八九、発現したのだろう。
ジェナーはいかにしてギルフォードの包帯を引き剥がそうかと画策しつつ、紅茶が入ったカップに次々と角砂糖を落としていく。
ギルフォードは、ジェナーがたっぷりと砂糖を入れたのを見て、にこにこと笑みを浮かべながら自分のカップとジェナーのカップを入れ替えた。
「糖分の摂りすぎはお身体に良くないです。歯を痛めますよ」
「……こういうところは本当に目ざといわよね」
ジェナーは渋々、ギルフォードに交換させられたカップに角砂糖を一欠片入れて口に運んだ。
「ところで。右手の包帯はどうしたの? 怪我?」
いきなり切り込んでみたが、ギルフォードは持ち前の鉄壁の表情で取り繕い、冷静な口調で返した。
「大したことではありません。少し、傷を作ってしまったんです」
「ふうん。包帯、取れかかっているわ。ほら、こっちに来て? 巻き直してあげる」
結び目が甘かったのか、包帯は巻が緩くなっていた。良いきっかけができたと思いそう言うと、ギルフォードは手元に視線を落とす。流石のギルフォードも、少し表情に焦りを見せる。
「……お、お構いなく。後で、自分で直しますから」
しかし、ここで引き下がるわけにはいかない。ジェナーはすっとソファから立ち上がり、ギルフォードの横に座る。少々強引かもしれないが、紋章を確認するにはいやも応もない。
「遠慮しないで? ほら、手を――」
「やめてください、お嬢様」
ギルフォードは頑なに拒み、右手の甲を左手で押さえた。そして、しばらくじっと黙って考え込む。
「――いえ。やはり、ずっと隠していくことなどできないということでしょう。お嬢様、俺はきっと、今からあなたを失望させてしまいます」
「…………」
ギルフォードは自ら包帯の端をつまんで、解いていった。彼の綺麗な手があらわになる。彼の手の甲には、以前にはなかった模様が刻まれていた。精密な二重の円の中に、星型の線が交差する中心に五角形が浮かぶ星型五角形――五芒星が描かれている。五芒星の隙間にも緻密な模様が複雑に描かれており、暗みのある紫の光を放っている。神秘的というより、むしろ呪いの類いではないかと思うような、薄気味悪い光だ。
「…………」
(やっぱり、紋章は発現したのね。……この世界は、ギルフォード攻略ルートで間違いないんだわ。ギルとシャーロット様こそが、結ばれるべき運命の相手……)
ギルフォードの手の甲には予想していた通り、運命の紋章が刻まれていた。
「運命の紋章……。実物を見たのは初めてだわ」
「今日の式典の最中に、これが発現しました。……お相手は、シャーロット・テナント第1王女殿下でした」
「…………」
ジェナーは眉を寄せた。
「重ねて言わせていただきますが、俺はお嬢様以外の女性に心が動くことはありません。紋章には心を強制する力があると聞き及んでいましたが、俺にそのような変化はありませんでした。もし仮に、運命というものが存在するなら、それはお嬢様だと信じています」
こんなに真正面から「運命はあなたです」などと口にされては気恥しいものだ。
しかし、紋章が発現したというのに、シャーロットに一切なびかなかったというのも不思議だ。ギルフォードが言うように、運命の紋章が精神に与える力は絶対とされているのだから。
(……それに)
「……王女殿下は、とても素敵な方だと聞くけど。世の男性方は皆、憧憬と敬愛を彼女に抱いているそうよ」
「俺にとっては、お嬢様が最も魅力的に見えます。再三言っておりますが、お嬢様以外の女性に惹かれることなどありえないんです」
「……そ、そう……。あ、あなたの気持ちは、とてもよく分かったわ。……ありがとう」
よくもつらつらと直接的な賛美を口にできるものだと戸惑う。ジェナーはまごつきながら答え、朱に染まった顔を逸らした。ギルフォードの口ぶりや態度を見ていると、絶対的な存在であるはずの紋章の効力そのものを疑ってしまう。
しかし、この紋章は、ギルフォードが運命で結ばれた相手が自分ではないと示している。いざ目の前にすると、胸の辺りがぎゅうと締め付けられる。ギルフォードは、紋章をしげしげと眺めて、もの憂げな表情をしたジェナーに気づいた。
「……すみません。お嬢様」
「あなたが謝ることじゃないでしょう?」
「俺は、お嬢様が落胆し悲しむお姿を見ることが何よりも辛いんです。そしてこればかりは紛れもなく、俺の問題のせいですから」
嘆いたところでこればかりはどうにもならないことだ。一方で、ギルフォードが大きなため息をついて、地を這うような低い声で呟いた。
「――これさえなければ」
「……?」
彼がそう呟いた時だった。
あまりに一瞬の出来事に、ジェナーは反応することができなかった。ギルフォードは、テーブルの上に置いてあった縦長のバスケットから、菓子用のフォークを手に取り、勢いよく――自分の手の甲に、刺した。
「!?」
ギルフォードの手の甲から赤い血が溢れ出ていく。何のためらいもなく行われた行為に、ジェナーは茫然自失となった。
「あなたったら、なんてことを……!?」
ジェナーはフォークを引き抜き、ハンカチで傷口を抑えて止血した。
「運命の紋章」は、伝説いわく、その人の命そのものだとも言われている。傷をつければ全身に不調をきたし、紋章をくり抜いてしまえば――命はないと。ギルフォードがたった今切りつけた傷は深いように見える。ならば、その苦痛は想像を絶するもののはずだ。
ジェナーは狼狽しなから声を張り上げた。
「なんて無茶をするの!? この紋章は、あなたそのものなのよ! 決して傷つけたりしては駄目なの。あなただって承知していたはずでしょう!? どこか身体はおかしくない? 痛みは……っ」
「…………」
ギルフォードは視線を手元に落としたまま、ふつと呟いた。
「……痛く、ありません」
「え……?」
「身体のどこにも異常は見られません」
2人は互いに顔を見合わせて黙して語らず、しばし熟考した。
無謀なギルフォードの自傷行為だったが、彼の無謀さはある事実を示した。
(それは――つまり)
紋章を傷つけたというのに、身体のどこにも異常が見られない。つまり、紋章は当人の生命そのものという話に関しては虚偽であった。
ここで明らかになったのは、「運命の紋章」にまつわる伝説は絶対的ではなく――信憑性に欠けるということだ。ギルフォードも理解したらしく、脱力した様子で言った。
「……何だか、急に痛くなってきました。……手が」
「当たり前よ」
ジェナーは大きく息を吐いて、肩を竦めた。




