11 窓からあの人はやって来る
(ギルはもう、シャーロット様には会えたのかな。――シャーロット様のことを、好きに……なったのかな)
ジェナーはソファに深く座り、ため息をついた。
憂鬱な気分を少しでも紛らわそうと、本を棚から引っ張り出してきたものの、内容はさっぱり頭に入ってこない。物思いに耽りながら、手持ち無沙汰に爪の端でページをペラペラとめくるだけで時間を潰していた。
王立学院文化発表式典で起こる――グノーム脱走事件。この事件は、侯爵令息ジェラルド・ヒューズの活躍によって被害はほとんど出なかったものの、学院側に責任が問われる大きな事件となった。
そもそもグノームは、凶悪な見た目とは裏腹に草食動物で、基本的には人を襲わない。その知識を持っていなかった衛兵たちがグノームを刺激し、余計に混乱に陥らせてしまった。そして、混乱したグノームは、シャーロットを襲おうとするのである、
(実験用に飼われ野生で生きる自由をなくし、しかも混乱の内にあっさりと退治されてしまって……なんだか、グノームが気の毒ね)
夜会は中止され、調査隊が派遣されるのだが、学院内で調査が行われ、後に脱走の原因は檻の老朽化が原因だったと明らかになる。
ひと目見て恋に落ちたギルフォードとシャーロットは、人知れず逢瀬を交わしているころだろうか。
ギルフォードとシャーロットが出会うと、その直後、2人の手の甲に青く発光した紋章が現れる。互いが運命であることを自覚し、見つめ合う立ち姿が描かれたスチルをゲーム内で見たことがあった。ジェナーも前世でゲームをプレイした時には、なんてロマンチックなんだろうと思ったものだ。
(……ギルが幸せなら、それがきっと――1番いい。分かってるのに……凄く胸が苦しいわ)
それでも、大好きだった人が自分からずっと遠くへ行ってしまう気がして、切なくて胸の奥がぎゅうと締め付けられる。
コンコン。
「…………?」
ノックの音が聞こえた。しかし、扉からではないようだ。ジェナーは持っていた本をテーブルに置いて、耳をすましてみると、窓の方からもう一度、ガラスを叩く音が聞こえた。
――コンコン。
恐る恐る立ち上がり、金色の刺繍が入った厚手のカーテンを少しだけ引いて、窓の外を覗く――。
「…………!」
窓の外のバルコニーに立っていたのは――ギルフォードだった。ジェナーは慌てて窓を開けて言った。
「ど、どうしてギルがここに……!?」
「……お嬢様に会いたくなったんです」
ギルフォードはジェナーの顔をじっと見つめて、真剣に答えた。表情は普段よりずっと暗く、ただ事ではないのだと察した。
「……と、とりあえず、中に入って? 外は冷えるわ。夜風にあたって身体を冷やしたでしょう?」
ギルフォードを部屋の中に入れて、カーテンをさっと閉めて言った。
「ほら、そこのソファに座って待っていて。今、お茶を用意してくるから」
ジェナーがお茶を用意しに離れようとすると、ギルフォードはジェナーの腕をぐっと掴んで引き止めた。
「行かないでください。……このままで、結構です」
「ギル……?」
彼の声は弱々しく、ジェナーは大人しくギルフォードに従った方が良いと判断して、彼の方に向き直った。
ギルフォードの右手には、包帯がぐるりと巻かれている。ジェナーは、ゲームのシナリオ通り、彼の手の甲に紋章が発現したのだと確信した。
「ここは2階なのよ? 怪我したら危ないでしょう……?」
「――俺は、正面玄関から訪ねてきて、お嬢様に面会できるような身分ではありません」
ギルフォードは、いつになく卑屈だった。ジェナーの両親は、娘が大切に思っているギルフォードの訪問を、彼の身分を理由に拒むような人達ではない。ギルフォードもそれを重々承知しているはずだというのに。
「…………」
ギルフォードはしばらく黙り込んでいた。ジェナーも、ギルフォードの深刻ぶりに当惑しつつ、彼が話し出すのを静かに待った。
「お嬢様は、たった1度でも――俺のことを好きだとは思ってくださらなかったんですか? それとも、今まで俺が感じていた好意は全部思い上がりで、お嬢様はずっと俺のことを弄んでいらっしゃったんですか」
掠れた声を絞り出すように、ギルフォードが囁く。
「そ、れは……」
「答えてください」
「ちょ、ちょっと……ギル……っ」
ギルフォードに押され、壁際に追いやられる。ジェナーは気がつくと壁に背中をつけていた。大きな手で華奢な腕を壁に抑えられ、壁とギルフォードに挟まれたような状態になり、身動きが取れない。見上げたすぐ近くに、見ないうちにまた少し大人びた彼の顔があった。そして、いつになく余裕のない表情をしている。
いつも飄々としていて、どこか自信たっぷりだった彼が、ジェナーのことで、こんなにも心を乱しているのだ。
「弄んでなんて、いなかったわ。……私は――」
ジェナーが答えに詰まっていると、ギルフォードはジェナーの肩に顔をそっと埋めた。彼の艶のある髪が頬に触れる。
「雇用された身でありながら、このような気持ちを抱いてしまい申し訳ございません。身の程知らずだと分かっていとも、どうしようもなく――お慕いしているんです。俺が好きなのは……お傍にいたいと思うのは、ただ1人、お嬢様だけです。…………好きです。あなたのことが誰よりも、……大好きです」
ジェナーは、自分を心から責めて恨んだ。
(……こんなにも、ギルが私を愛してくれていたなんて。……ずっと、向き合うことから逃げて、いつまでも煮え切らなかったせいでこんなにも傷つけてしまった。私も、私だって大好きなのに……っ)
ギルフォードが自分に好意を寄せていると知りながら、彼を自分の傍に置き続けた。彼の気持ちに応えるわけでも、拒絶の意を示すわけでもなく。――それが、彼にとって最も残酷だと知っていながら。
――運命の紋章。
それを有する男女は、紋章の力によって必ず愛し合うと言われている。それなのに、ギルフォードは刻印があってなおも、ジェナーを強く想ってくれている。彼の気持ちが一時的なものだったとしても、もし、傷ついたギルフォードが、自分の心を捧げることで救われるならば。彼がこの先、自分以外の人に心が動いたとしても、今目の前にいる彼の心に――応えてあげたい。もうこれ以上、自分の気持ちを偽ることはできない。
ジェナーはそっと、覚悟を決めた。
「ギル。…………よく、聞いてほしいの」
ジェナーの肩に頭を埋めたままのギルフォードに、上からそっと声をかける。
「ちゃんと、伝えるから、……聞いていてね」
まさか、こんなにも突然に打ち明けることになるなんて思いもしなかった。どきどきと鼓動が脈打つ。ジェナーは、自分が立っていることも忘れてしまいそうな程の緊張感に襲われた。何しろこの瞬間まで頑なにひた隠しにしていたことを告げようとしているのだから。
「ギルはね、私と過した2年間のこと、『夢のような幸せな日々だった』って言ってくれたけど、その……私も、ギルと出会うまで、こんなにも幸せを感じることがあるだなんて……知らなかったの。ギルと一緒にいると、とても、楽しくて、それで……」
ジェナーは、震える声で続けた。
「……えっと、そうじゃなくて、私は、ギルのことが……」
ギルフォードは沈黙している。彼が続きを促していることを理解した。しばらく置いた後、勇気を振り絞って、聞こえるか聞こえないか分からないほど、小さな声で呟く。
「ギルのことが――好き」
ギルフォードは、ジェナーの肩で大きく息を吐いた。
そして彼は、ジェナーの肩から頭を上げる。彼は今までに見たことがないほど嬉しそうに目を細めて微笑むのだった。
「やっと、そのお言葉が聞けました」
彼のもの柔らかな表情に、たまらないほど、胸が甘くときめいた。ジェナーはギルフォードに抱きついた。彼の大きな背に手を回し、力を込めて抱き締める。彼もジェナーを包むように抱いて、片手を頭部に添えた。
(ずっと、ずっと――こうしたかった。もう私、自分を偽ることなんてできない。自分の気持ちに嘘がつけないわ。私もギルのことが心から――好き)
彼の腕の中は優しくて、心地が良かった。けれど決して、幸福なだけではない。絶えず本物のヒロインの存在が頭を掠め、茫漠とした不安を抱かずにいられない。
自分が傷つくのも、ギルフォードを傷つけることも怖いのに、彼に隠してきた愛情が、コップいっぱいに溜まった水が零れるように、隙間なく埋まった心の中から外へ溢れ出していく。
(今だけでいい。ギルも私のこと好きでいて)
ギルフォードの胸に顔を埋めながら、ジェナーは目頭を熱くさせた。




