あなたは私を知ったときそれでも隣にいてくれるだろうか。
~一つの命が産声をあげた。その命に向けられたのはただ一つの感情ではないことを、誰に知る由があるだろうか。~
昔から、恵まれた環境で育たなかったからだと後悔しても仕方がない。
私には3つ年の離れた妹がいる、二人姉妹だ。
いつからだろうか、記憶している限りでは夫婦円満なんて言葉のかけらもなく、常に家には険悪な雰囲気が漂いお母さんといまいち思い出せない顔が真っ黒なお父さんが口論をしている。
引き戸の隙間からその様子を伺いつつ、足音が近づけば布団に潜り込み寝たふりをした。
当時、妹は一歳にも満たない赤ん坊。こんな状況でも大人しくすやすやと眠っている。手のかからない、いい子だったと今ではすごく思う。
それから、しばらくたった頃、家にはお母さんと妹しかいなくなった。
お母さんに「お父さんは?」と聞いても、「もう帰ってこない」とそれ以上はなにも返ってこなかった。
その頃から、お母さんは保育園のお迎えが遅くなり外が暗くなるまで、妹と二人あと先生だけになることが度々あった。
家では、お母さんは情緒不安定で、笑っていると思えば突然怒り出したり、見えない何かにおびえていることもあった。その頃から私は怖くてあまりお母さんにすすんで近づくことはなくなった。
それから一年後、母が家に帰ってくることが減った。
保育園に行く回数も徐々に減っていき、ご飯がない時が度々あった。
ある日、母は土曜の夜に仕事に行くといっておめかしをして出ていった。
日曜日の朝には帰るだろうと思ったが、帰ってこないので妹のオムツを変えて冷蔵庫を漁って食べられるものを食べた。そんな暮らしが3日経ち食べられるものも底をついた。妹もなかなか泣き止んでくれない。おなかが減っているんだと思う。
私は、妹を背負って家を出た。幸い保育園までの道は覚えていたので、保育園へ向かった。 「あれ、○○ちゃんどうしたの?」
私は、土曜日の夜から、お母さんが帰ってこないことを話した。
すると、先生は青ざめたような表情で、慌ててすぐにご飯を食べさせてくれた。
母が保育園に訪れることはなかった。家に帰ることもなかった。
日が暮れる頃、おばあちゃんが保育園を訪ねてきた。
私は、土曜日の夜を境にお母さんに会うことはなかった。
私は、おばあちゃんの家で暮らすことになった。
妹は、遠く離れた親戚に引き取られることになった。
おじいちゃんは早くに亡くなってしまっていて、今はおばあちゃんと二人暮らしだ。 おばあちゃんは、娘のように私をかわいがってくれて学校に通わせてくれた。
やがて、中学生になった。おばあちゃんは、「部活に入ってもいいんだよ?」と言ってくれたが、これ以上負担をかけたくなかったので、入りたい部活がないとウソをついた。
高校受験の時期になり、私は公立高校を受験した。
ちょうど、合格発表の日でおばあちゃんに合格の報告をしようと家路を急ぐ帰り道だった。
おばあちゃんが倒れた。
どうやら、おばあちゃんは持病を患っていたらしく、私を引き取ってくれた頃からかなり無理をしていたという。お医者さんからは、「ここまで長く生きられるとは思わなかった。おばあちゃんは、頑張った。あなたのおかげだ。」と言われたが、私はそうは思わなかった。私を引き取らなければ、おばあちゃんは、もっと楽になれたのではないか。 私がいたせいで、無理をさせてしまったのではないか。そう思うと、切なくなって、涙が止まらなかった。
「おばあちゃん、ごめんね。ここまで育ててくれてありがとう」
失うものがなくなった私は、あまり生きた心地がしなかった。
何度か死のうかと思ったが、おばあちゃんが頭によぎり死ぬに死ねなかった。
私は、おばあちゃんの家に住み続けた。学費や生活費を稼ぐために、ほとんど毎日バイトをした。
だけど、普通のバイトでは満足いかず、いつしかSNSで小遣い稼ぎをするようになった。
世間体では、パパ活といわれるものだろう。私が若いのもあってか、若者からおじさんまで幅広い年齢層から求められた。
ある日から、体調不良に襲われた。体がだるく、吐気を伴って、頭がくらくらした。
「風邪でも引いたかな…。」 熱は出ていなかったため、病院へは行かなかった。
しばらく、そんな日常が続きふとした疑問がよぎった。
「そういえば最近、生理きてないんだけど…」
胸騒ぎがした。いやいやまさか、冗談じゃない。
妊娠検査薬の結果は…陽性…。「嘘でしょ…どうしよう…」
きちんと避妊はしていたはずだった。不特定多数との接触のため親は特定できない。
身寄りのない私に子供なんて…。頭が真っ白になった。
後日、私は産婦人科を訪れていた。
他の妊婦さんもいる中私は明らかに異質だ。きっと視線を浴びているに違いない。
名前を呼ばれた。「どうぞ。」部屋の中には、男性の先生と女性の助産師の方がいた。
「あの、その…私妊娠しているかもしれないんです」
「ご自分で一度検査されたってことですね?」「はい…その時、陽性ってでて…私どうすればいいかわからなくて…」
「わかりました、落ち着いて冷静になされてくださいね。とりあえず、もう一度、検査してみましょう」
「はい…」
~
「結果は陽性でした。とりあえず、あなたのことを教えてください。」
私は、妊娠した経緯や、自身に身寄りがいないことなどをありのままに答えた。
「話してくれてありがとう。まず、○○さんには、このまま出産する選択肢と妊娠中絶という二つの選択肢があります。出産するというのは、まだ成長期のあなたではかなりのリスクが伴います。出産費用は国から援助が受けられますが、育児までとなると、身体的にも経済的にもかなり厳しい状況になると思います。妊娠中絶は、胎児が22週未満であれば受けることができる手術です。あなたはいま、約8週なので、まだ猶予があります。一人でとても不安だと思います。だけど、○○さんが、どちら選択をしても、私達は全力でサポートする事を約束します。どちらの選択をしても正しい、正しくないなんてことははありません。今日は、これで終わりですので、お家でゆっくりお考えください。決断できたら、またいつでもいらしてください。」
「はい、ありがとうございました。」
私は、診察室を後にした。帰り際、出口で呼び止められた。先ほどの女性の方だ。
「○○さん、不安な事とか相談事があったらいつでも相談して。本当は直接、妊婦さんに接触するのはいけないんだけど…」
「ありがとうございます。」私は、産婦人科を後にした。女性からは、メモを手渡され、メモには名前と携帯の電話番号が書かれていた。
私は、高校を訪れていた。
学校へは、あまり行く気になれず登校数はまちまちだった。
「先生。」「ん?どうした?」「私、学校辞めます。」「どうして?」「私、妊娠しました。」「ほ、本当に妊娠したのか…。相手は誰だ…?」「相手は…。わかりません。」私は、今日にいたる経緯を話した。
「学校をやめてどうするんだ?出産するのか?親もいなくていま一人だろう? 産んだって育てられる保証もない。○○は、どう考えているんだ?」「まだ、決めていません。だけど、どのみちもうここにはいられません。」「まあ…そうだが…まだ、○○は若い。将来のためにも中絶するべきなんじゃないか?」「そうですね…だけど、日が経つにつれてお腹の温かみを感じるんです。いま、私にはこの子しかいないので。それでは、失礼します。」 先生に答えてから気づいたが、いま私は一人ぼっちじゃない。ずっと、私の側をついてくる、確かに一つの命が宿っている。この日を境に学校へは行っていない。
さすがに、SNSは辞めた。もうこりごりだ。これまで学校に割いていた時間はアルバイトにつぎ込んだ。店長にはまだ報告していないが、限界まで働かせてもらうつもりだ。生きるためには必要だから。
家でお風呂に入る度、布団に入る度、どうしようか頭を悩ませている。 ふと、メモのことを思い出した。電話をかけてみることにした。
「もしもし、○○です…。」「○○さん、どうしたの大丈夫?」「その…私、答えが出せなくて…。この間、学校に行った時、先生に中絶するべきだといわれました。確かに、世間的にはそうするのが、一番妥当な判断なんだと思うんです。私もその意見には反論はできなくて…。だけど、ここでお腹の子を見捨てたら、私がお母さんに捨てられたのと同じ事をこの子にしているんだって。そう思うと、すごく嫌で…。私、逃げたくないんです。このお腹に宿ったこの命を私は、足蹴にはできない。けど…産むのには不安しかなくて、私どうしたらいいか…」
「うん、もう答えは出ているじゃないかな?」「え?…。」「○○さんは、産みたい、産みたくないでいったらどっち?」「産みたいです…。」「それが、聞けたら十分。○○さんは、産みたいって意思を示してくれた。なら、私の仕事はそれを全力でサポートする事。確かに、不安しかない気持ちはすごくわかる。だから、気休めでも構わない。私を頼って?妊娠中のことは私が相談に乗るから。ね?」
ああ、なんていい人なんだろう。「ありがとうございます。私、産みたいです。また、なにかあったら相談します。」「うん、待ってるわ。」 私は、両手でまだちいさなお腹に手を当てた。
後日、産婦人科を訪れた私は、先生に出産の意思を示して、本格的に妊活が始まった。
引き続き、吐き気や頭痛などつわりの症状がひどくなり始めたが、助産師さんの方のサポートもあり何とか乗り越えた。
日が経つにつれてお腹が大きくなるのを感じた。22週頃エコーで男の子だということが分かった。この頃は比較的体調的にも安定していたのも束の間、28週頃から胃がむかついたり、食欲が出なかったり不快感におそわれ始めた。精神的に不安定になり、辛い時は助産師さんに励まされながら、何とか乗り越えた。さすがに、そろそろきつくなり、バイトはしばらく休ませてもらえるように店長にお願いした。
36週に差し掛かり、いよいよいつ生まれてもおかしくないところまできた。
「ついに、ここまできました」「よく頑張った、あともう少し!」「助産師さんがサポートしてくれてなかったら、ここまでこれませんでした。ありがとうございます。」「まだ、生まれてないのよ?私の仕事はここからだわ。」「そうですね。あっ…い…痛いかもです…。」「陣痛かもしれない、病院へ行きましょう」
私は、助産師さんに連れられて病院へ向かった。結局、それが引き金で陣痛の周期が短くなりお産が始まった。
お産はかなりの長期戦になった。先生から、帝王切開の提案も出たが、私は結局切らずに産み切った。分娩室に、産声が響き渡った。
「おめでとうございます、かわいい男の子ですよ」やっと、対面できた…。間違いなく、過去一番痛かった。どこか、私に似ているだろうか。かわいい。「私の所に産まれてきてくれてありがとう…。」
彼女には、一つの命が産まれた感動とまた別の感情が芽生えていた。
やがて、退院の日になった。「助産師さん、今までありがとうございました。まだ、お世話になると思います。笑」「もちろん、なにかあったらまた連絡して。」
「○○さん、本当によく頑張ったね。これからもつらいことがあるかもしれないけど、頑張ってね」「はい、先生もありがとうございました。」私は、私の新たな家族と病院を後にした。
予想通り、子育ては大変極まりなかった。生活費を稼ぐためのアルバイトは休めないので、仕方なく保育園にいれ、余す時間は全て育児につぎ込んだ。
決して、豊かな生活ではなかったが、その後も助産師さんからの助言もあり、何とか順調に息子は育っていった。
〜
それから、10年。息子の10歳の誕生日。
「誕生日おめでとう~!」「お母さん、ありがとう。ん~、ケーキおいし!」「良かった~、お母さんの手作りケーキです!」そんな何気ない日常会話のある一言。
「お母さん。」「どうしたの?」「なんで、僕には、お父さんがいないの?」 「……..。」この質問は、今日が初めてではなかった。これまでは、「お父さんは、いま世界の平和ために戦ってる」だとか「川からどんぶらこ、どんぶらこ。と流れてきた」などと流してきた。だけど、10歳という節目でいまこのタイミングでいうべきだと思った。
「あのね、お母さん。お父さんがだれかわからないの。××くんはまだわからないかも知れないけど、お母さんはいろんな男の人と悪いことをした悪者なの。だから、悪者のお母さんにはお父さんがいないの。ごめんね。お母さんのせいで、お父さんいなくて…ごめんね…。」これだ、××が産まれた時、すごくうれしかった。だけど、その感情とは別ですごく申し訳ない気持ちでたまらなかった。すごく不純な出産になってしまったこと。お父さんがいないこと。他の子たちにとっては当たり前のことが、この子は当たり前じゃない。そのことが、堪らなく申し訳なかった。だから、本当に産んでよかったのか。ずっと心の中に引っ掛かり続けていた。
「…。なんで謝るの…。お母さんは、何も悪いことしてないよ!悪者なんかじゃない。確かに、他の子たちはお父さんがいていいなって思う時もある。けど、僕はお母さんの事を恨んだことなんて、一度もないよ!10歳って、学校で色んな事を習うんだ。けど、みんなはお父さんとお母さんで二人でやってることを僕のお母さんは一人で頑張ってる。すごいんだ。悪者なんかじゃ絶対ない。お母さんは、僕のヒーローだよ。んー、ヒーローはちょっと違う…?まあ、いいや。恥ずかしくて、あんまり普段言えないけど今日は言うよ。お母さん…僕を産んでくれてありがとう。」
ああ…。この子は…なんて良い子に育ったんだろう。これじゃ…どちらが親かわからない。この子は私が思っているよりずっと成長してた。「うぅぅ…。」涙が止まらなかった。
「お母さん、泣かないで。」私は、10歳の息子に撫でられながら、しばらく泣き続けてしまった。
これまで、数え切れないほど辛いことがあった。何度も死のうと思った。けど、生きられたのは今日、この日のご褒美のためだと考えたら全てを忘れられた。
全てを失ったと思っていた私に、神様はとんでもない宝物をくれた。私は、このかけがえのない宝物と腐った世界だけど、幸せも降り注ぐ世界を今日も生きる。