第17話 シュバルツ邸の日常。
「あーもう。そこの字間違ってるわよ」
「へいへい。わかりましたよお嬢」
シュバルツ邸の一室。元々は客室だったけど、今はキッドの部屋になっている場所に私は立っていた。
隣にはペンを握って紙に字を書く練習をしているキッドが座っている。
昼食を終えたあと、メフィストは用事があるからと留守にしていて、私は自分の分の課題が終わったのでこうしてキッドの様子を見にきてあげているのだ。
「この字とこの字紛らわしいんだよな」
「そこは慣れよ。文字っていうのはひたすら書いて慣れないと身につかないわ。一度覚えてもしばらく使わないと忘れてしまうもの」
記憶喪失のキッドは日常生活を送るのに必要なことは憶えていたし、言葉も通じるけど勉強はからっきしだった。忘れてしまったというよりそもそも知らなかったようだ。
貴族は親か家庭教師が教えるけれど、平民は文字と読み書きを学校で習うことになっている。
学校といっても家業の手伝いをしながら空いた時間で通うだけで江戸時代の寺子屋のようなもので、キッドはその学校に通っていなかったのだろう。
「武術か魔術なら楽しいのに勉強って全く面白くないのな」
集中力が切れたのかキッドはペンを置いた。今日のノルマである本の書き写しはまだ半分も残っている。
「そうね。でも、一番役に立つのは勉強よ。サボっていて後から苦労するのは自分自身なんだから」
私だって前世の子供の頃は勉強する意味がわからなくて、そんなことをするならスポーツとか芸術に時間を割いた方がいいと思っていた。
でも、大人になるともっと真面目に勉強すればよかったと後悔することが多い。
「役に立つか?」
「計算ができないと買い物が出来ないし、字を書いたり読めたりしないとお使いが頼めないわ。嫌でしょ? 買い物して値段を多く取られてお釣りを誤魔化されたりしたら。契約書も読めなくてなんとなくで了承したら騙されたりとか」
「うへぇ」
想像したのか苦い顔をするキッド。
わかってもらえてなによりだ。
無知な人間は騙す側からすれば絶好のカモだもの。
「お嬢ってたまに大人みたいなこと言うよな」
「そ、そうかしら? まぁ、大人びているとは言われるわね」
キッドの指摘に冷や汗が流れる。
流石に前世の記憶がありますなんては言えないので誤魔化しておく。
「私くらいになれば立派なレディーとしてモテモテよ」
「レディーね。おやつの時間が近づくと腹を鳴らすのがレディーなのですねお嬢」
「あれは違うの! たまたまお昼を少なめにしたせいで鳴っただけだから。いつもは鳴らないから」
先日あった大音量の腹の虫騒ぎを掘り返してニヤニヤするキッド。
メフィストなんかはあれ以降毎日のように「おやつの時間を前倒しされますか?」なんて聞いてくる。
「キッド。そんな風に人をからかっていたらメフィストみたいな大人になってしまうわよ」
「……それは嫌だな」
哀れ悪魔執事。
自分の部下でもあり弟子でもある少年からダメな大人判定されている。
まぁ、普段のメフィストとキッドを見ているとどこかキッドの方が怯えているのよね。
「ねぇキッド。今さらになるけれど、シュバルツ家に来たことを後悔したりしていない?」
自分の上司は悪魔。職場の同僚は屍人だし、ハードな鍛練までこなさなくてはいけない。
私はこの家の人間だから逃げ出すなんてことは出来ないけれど、キッドならまだ選択を変えられると思う。
「後悔? してるけどそこまでじゃねぇよ。キツいけど強くなるのは楽しいし、衣食住は揃ってるし」
「別にそれならシュバルツ家じゃなくても手に入るわよね。自分の家だけど、ここってかなり不気味だし、他所の方がいいかもしれないわよ」
キッドと暮らしていてわかったが、彼は人に懐いたり接するのが上手い。
気さくというか、空気が読めるというか、面倒だとは口にするけれど勉強も鍛練をサボってはいない。
これならどんな場所でもやっていけると思う。
「いや。オレはここがいいな」
「どうして?」
「だってこんな話しやすくて面白いお嬢様なんていないだろ」
そう言って私を指差して笑うキッド。
「ちょっと。それってどういう意味よ!」
「いやさ。使用人の部屋まで来て勉強を見てくれる物好きなんて普通いないだろ。食事も同じテーブルに座らせるし、おやつだってくれる」
うん。まぁ、普通じゃないとは思う。
グルーン家に行った時もメイドの人達は少し離れた場所からこちらを見ていたし、同じお茶を飲むことは無かった。
「だって……一人で食べるよりもそっちの方が美味しいじゃない」
前世で一人暮らしをしていて気づいたのだ。
仕事が終わって毎日家で食事をしていると次第に適当になっていく。
でも、友人と一緒に食事をすると共通の話題で盛り上がれるし、外食でも他の人の食べっぷりや店の雰囲気で寂しさを感じない。
「メフィストも屍人達も食事はしないし、お父様も家に帰ってこないからキッドしかいないのよ」
「知ってるよ。……寂しいから一緒に食事なんてそんなこと言うのお嬢くらいしかいねぇよ。だから面白い」
それに、とキッドは付け加える。
「オレも嫌じゃないからさ。記憶無くて一人だし誰かが側にいる方が落ち着く」
「キッド……」
照れくさそうに頬を掻くキッド。
そうだ。私には前世の記憶があるから大人びているだけで彼は心身共にまだ子供だ。
実家も分からず記憶喪失で拐われて酷い仕打ちを受けた。
そんな彼の感じる寂しさは私よりもずっと深刻だろう。
「……それに、どうせならお嬢の側が一番……」
ぐぎゅるるるるるるるるるる〜〜!!
「ごめんないキッド。またお腹が鳴っちゃったわ」
難しいことを考えたせいなのか、慣れないシリアスな話をしたせいなのか私のお腹が盛大鳴った。
それはもう恥ずかしくなるくらい大音量で。
「おかしいわね。今日のお昼はしっかり食べたんだけど」
「ぷっ、なんだよそりゃあ。いい感じの雰囲気が台無しじゃないかお嬢」
「笑わないでよ!」
最近は魔術の鍛練に加えて護身術やこの世界についての勉強もしているせいか代謝がいい。
子供の体だから成長期というのもあるだろう。
キッドはツボに入ったのかお腹を抱えて笑い続ける。
「そんなに笑うならガンドを撃つわよ」
「勘弁してくれよ。アレ受けたら腹を下すってば!」
私の脅しを聞いてキッドは焦るように笑いを止めた。
以前に人身売買の院長にお見舞いした魔術だが、今はその威力をコントロール出来るようになり、力をセーブすれば本来の相手の体調を崩す呪いとして発動出来る。
実験としてメフィストに数発お見舞いしたらただでさえ青白い顔が土色になった。
「オレの勉強もそろそろ終わるし、そしたらティータイムにしましょうかお嬢」
「そうね。私のお腹が催促をしないうちにさっさと終わらせましょう」
私との会話が息抜きになったのか、それともガンドの餌食になってトイレの住人になりたくなかったのか、キッドは集中してペンを持つ手を走らせる。
残りの半分が終わったのはそれからすぐの事だった。