谷口楓の缶ビールと甲山明美のチョコレートクッキー
「甲山ちゃん、やっぱりあの絵はヤバいことない?」セキュリティ対策室にいる谷口楓は甲山明美のデスクのモニターを覗き込みながら嬉しそうに言った。
「そう・・・ですね」自分のデスクに載ってあるモニターを正面から凝視していた甲山は不満そうに答えた。そして右手に持っていたチョコレートクッキーを一つ、口の中に放り込んだ。谷口副室長はニコニコ笑いながら右手を甲山の前に出した。甲山はブスっとした表情を浮かべチョコレートクッキーを三個、その小さな手に置いた。
「アリガト」谷口楓はチョコレートクッキーを一個口に入れ味わうと缶ビールを流し込んだ。
「よくクッキーをつまみにしてビールが飲めますね」甲山は少し呆れた口調で言った。
「フフーン甲山ちゃん。私くらいビールを極めれば何でもつまみになるのよ。例えて言えばジョン・コルトレーンのオラツゥンジ・コンサートを聴くことが出来れば、どんな音楽も聴くことが出来るってことかな」
「何ですか、それ?」甲山はやや軽蔑の視線を直属の上司に投げかけた。
「しかし真壁褾ちゃんの絵はなかなかだねぇ。まあ相原さんは何らかの影響を受けると思ったけど。フフッ、真澄ちゃんも面白いねぇ」
「うーん、あの絵がここまで力があるとは感じなかったんですけど」甲山は追加のチョコレートクッキーをモグモグ咀嚼し、ピンクのマグカップに分厚い唇をつけた。
「甲山ちゃん、人は変わるものですよ。真澄ちゃんは新潟君にラブなのかなぁ。恋する乙女は傷つきやすく世界は残酷だからねぇ」
「ハア?」甲山はそう言うとまたクッキーを一つ口に放り込んだ。
「ところでさ、最近城北高校はAFZに対して攻撃的じゃない?」
「そういうことを言っているのは谷口さんだけですよ。確かにいろんなことが動き始めているとは思いますけど」
「あーっと、甲山ちゃん、真澄ちゃんのお父さんは生きているよねぇ?」
「副室長、人の話を聞いていますか?」
「まあまあ、そんなにプンプン怒らないで。私は自由な精神の持ち主だからね。甲山ちゃんも分かっているでしょ」谷口副室長はニヤニヤ笑いながら缶ビールをグィと飲んだ。
「自由な精神というよりは、いい加減な性格じゃないですか」
「あちゃー、一本取られましたな」右手で頭を軽く叩いている上司を無視し、甲山はキーボードを叩いて音無真澄のファイルを開けた。
「音無耕三。音無真澄の父親、音無耕三は現在五五歳。失踪、死亡の記録はありません。本日も生存が確認されています」
「フンフン」谷口楓は頷きながら缶ビールを飲み干した。
「ただ、母親の音無美智子四八歳は二年前に街から出て行方不明です。彼女の生存は確認されていません」
「ふーん・・・」セキュリティ対策室、副室長は新たな缶ビールのステイオンタブを引き抜いた。缶ビールの飲み口から白い泡が出ると、彼女は急いで小さな口を飲み口につけ麦色の液体を胃に流し込んだ。そして左手でチョコレートクッキーを要求した。
「まだ食べるんですか?」谷口楓の部下はチョコレートクッキーを二個、差し出された左手に置いた。
「アルコールを摂取するときは何か食べたほうが胃腸に良いのよねーっ」
「谷口さんの場合は関係ないと思いますが」甲山は美味しそうに缶ビールを呷っている上司を横目で見ながら低い声で言った。
「甲山ちゃん、ひどいなぁ。私は繊細で神経質でしょう。だから人に気を使い過ぎて胃がシクシク痛むときがあるのよ」
「じゃあ、ビールやめたほうが胃にいいんじゃないですか?」
「チッチッチッ、甲山ちゃんは若いなぁ。私にとってはビールを胃に入れるほうが、胃の調子が良いのよ。ビールを飲むと漢方薬みたいに、わたし、調子、良くなる、あるよ」副室長は右人差し指を立てて左右に細かく振り、左手にあったチョコレートクッキーを口に入れた。
「何ですか、そのヘンテコな言い方は」
「オッ! ヘンテコと言えば、真澄ちゃんは変なこと言っていたねぇ」
「変なこと・・・、先ほどの、この場面ですか?」甲山はキーボードを叩きモニターの画面を切り替えた。デスクトップパソコンのモニター画面には真壁褾の絵を観て茫然としている真澄の姿が映っていた。
「彼女、『お父さん』『死んじゃった』って言っていますね。父親の生存は確認されていますが・・・」
「ウーン、どういう意味だと思う、甲山ちゃん?」
「あの親子は同居していますね。えーっと音無真澄にとって父親の耕三は存在感がないのではないでしょうか」
「同じマンションに住んでいてもバラバラに行動しているってこと?」
「んーっ、まあそういうことですかねぇ」甲山の言葉には力がなかった。
「マンションや家に家族が暮らしていても、みんなバラバラに動いていて食事も別々っていう状況が多いっていうか、今は殆どがそうでしょう。一応同じ場所に住んでいるけど一人ひとりが別々に生きている。いつ誰かがいなくなるってことは日常茶飯事だし」
「ええ、まあそうですねえ。私も谷口さんも一人暮らしだけど、家族で暮らしているって、どういう理由があるのでしょうねぇ?」
「そりゃあ、金銭的には一緒に暮らしてる方が楽でしょ」
「ハア、まあ、そうですが・・・」甲山はボリボリとチョコレートクッキーを齧った。そしてマグカップに残っている冷めたブラックコーヒーを飲んだ。
「あとは家族にちょっぴり期待しているのかもしれないねぇ」副室長は逆向きに座って椅子の背もたれに両手をかけていた。そして右手に持っている缶ビールをちびちび飲んでいる。
「家族の繋がりってやつをですかぁ」
「アレぇ、甲山ちゃんは信じていないの?」谷口楓は意地悪そうに微笑んだ。
「だって、信じてたって仕方ないじゃないですか」谷口楓の部下は不機嫌そうに答えた。
「音無真澄ちゃんはお父さんに求めるものが、まだあると思うなぁ、私は」
「でも、彼女の中では父親は死んじゃったんでしょ」
「ひょっとしたら、あの絵がそう言わせたのかもしれないよ」ビール好きの女性管理職は右手に持っている缶ビールに少しだけ液体が残っているのを感じた。
「そこまで真壁褾の絵は力があるのですか?」甲山は細い眼を更に細めてモニターに映っている真壁褾の絵を拡大して見つめた。
「絵を観る人の感性にもよるけどね」
「悪かったですね、私は鈍くて」甲山は肉が垂れている頬を丸く膨らませた。
「いやいや、そういう意味じゃないよ」
「じゃあ、何ですか?」
「相性じゃない?」
「相性ですか・・・」
「そう相性」谷口楓はそう答えると頭を後ろに倒し残っているビールを飲み干した。
「うーん」甲山はまたモニター画面を見ながら納得のいかない表情を浮かべた。
「どうしたの、甲山ちゃん。まだあの絵が気にかかるのかな」副室長は空になった缶ビールを眼の高さまで持ち上げ、それを恨めしそうに見た。そして誘うようにチラッチラッと横目で甲山を見た。
「何ですか、その眼は。ビールを飲みたかったら飲んだら良いんじゃないですか」
「いやぁー、甲山ちゃんにそう言われれば飲まないわけにはいかないなぁ」谷口楓は仮眠室の冷蔵庫から缶ビールを二個持ってきた。
「甲山ちゃんもビール、どう?」
「私は要りません」
「あっ、そう」甲山の上司は気にすることなく缶ビールのステイオンタブを開いた。そして音もたてずにビールを口に流し込んだ。
「あーっ、美味しい」
「谷口さんは遊んでいるのか仕事しているのか、分かんないですね」
「甲山ちゃん、仕事は楽しくするって言うのが、わたくし谷口楓のモットーです」
「ハイハイ」甲山はモニターから眼を放さずに事務的に答えた。
「なに、そんなに真壁褾ちゃんの絵が気になるの?」椅子を逆向きに座った副室長は、その姿勢のまま部下が見ているモニターを覗き込んだ。
「んん、これは褾ちゃんのファイルだよね」
「そうです。谷口さん、真壁褾に関しては何故か情報量が極めて少ないのです」
「あーっ、ホントだ。両親は健在で三歳の時に右足が麻痺して小学生の頃から絵を描くことを始めた。それで城北高校に入って美術部に所属。ふーん」
「ちょっと変な感じがするのですが」甲山はピンクのマグカップに口をつけた。そのマグカップには何も入っていなかった。彼女はコーヒーメーカーの置いてある場所に行き、コーヒーをマグカップに注ぎ足した。
「AFZと城北高校のパイプも複雑だからねぇ」
「まあ、そうでしょうけど」甲山はそう言うと新たにマグカップに注ぎ足したブラックコーヒーを飲んだ。
「甲山ちゃん、真壁褾ちゃんが気になるなら、伊能君に調べてもらったらどうかな」
「そうですね。彼に頼んでみます」甲山はモニターの画面を再び真壁褾の絵に切り替えた。
「今年の絵画展は面白そうだねぇ」谷口楓は表情を変えずに言った。
「あのギャラリー大丈夫ですかねぇ?」
「甲山ちゃん、昨日チェックしたでしょう。まあ、新潟ちゃんもいるし何とかなるでしょ」
「あーっ、彼はやっぱりそうなんですね」甲山は少しだけ笑った。
「褾ちゃんは城北高校の美術部かぁ」谷口楓はそう呟くとビールを飲んだ。甲山の眼には上司が無意識のうちにビールを飲んでしまったように映った。




