魂の地下室を覗く絵の住人
「せっかくだから、このギャラリーの絵を観て回らない? 俺も全然観ていないし。絵画展の絵をちゃんと観てないと相原主任がうるさいのよ」芸術振興課の男性社員の口調は軽やかだった。
「はい・・・私も全部は観ていないので」
二人は申し合わせたように、受付の近くの絵をところに並んで異動した。受付の近くにある白い出入り口ドアから一番近くにある絵を真澄と乙一は並んで観た。
「ねえ真澄ちゃん。絵の見方ってあるの?」大きな橋が描かれている絵を観ながら乙一は左隣の同僚女性に訊いた。
「そうですね。じっと観ると云うか、私はまず絵に近づいて隅々まで観ます。それから少し離れて全体を観るようにしています」
「ふーん、結構集中力が要りそうだなぁ」乙一は前かがみになって橋の描かれている絵の近くに顔を寄せた。
「あっ・・・、あくまで私の見方であって、新潟さんは自由に絵を観たらいいと思います」
「まあそうだろうけど、やっぱ絵を分かってる人の考えって参考になるよ。何となく絵の見え方が違ってるように感じるなぁ」乙一は上体をもとに戻し腕組みをして「ウンウン」と頷いた。
「そうですか」
「平山範子・・・、あーっ城北高校の先生かぁ」
「昨年の絵よりもかなり印象が違いますね、平山先生の作品は」
「へぇー、真澄ちゃんは去年の絵を覚えてるんだ」乙一は驚いた。
「ええっ、はい。去年の彼女の作品は高層ビル、たぶんマンションだと思うのですが黒を沢山使っていたように感じます。この絵も全体的には黒を基調としていますが、何故か明るさも感じられます」
「ふーん、そうなの・・・」
「あっ、あくまで私の印象なので、そんなに気にしないでください」真澄は右手を左右に小さく振りながら言った。
二人は並んでゆっくりと展示されている絵画を観て回った。乙一は一人ではこんなにじっくりと絵を観て回ることは出来ないと思っていた。隣にいる同僚は時々控えめに絵の説明をしてくれた。それは簡潔な言葉だったが、乙一にとっては絵を理解するヒントのように思えた。
「私は絵の中に時間がちゃんと存在している・・・、そんな絵が好きです」展示してある絵画の半分を観て回った時、真澄はそう言った。
「それは絵を描いた時間が長くかかったっていう意味?」真澄の同僚は自分の問いかけが不適切だと思いつつ訊いた。
「いえ、そうじゃなくて。その絵の中に時間が蓄積されている、そんな印象を与えてくれるものです。あっ、分からないですよね、すみません」
「ふーん、絵の中に時間が蓄積されているってかぁ」
「・・・・・・」
「じゃあ、この女子高生の絵はどう?」乙一と真澄の目の前には真壁褾の人物画があった。
「この絵は・・・あのっ、凄いです」自分も絵を描いている女子社員は少したじろきながら答えた。
乙一は興味深そうに真壁褾の作品を観た。絵の中に居る少女は鳶色の瞳で真っ直ぐ乙一を見つめていた。その強い光を湛えた瞳は彼の内面を覗いているようだった。誰も知らない魂の地下室に続く階段をその少女がそっと下りてくる・・・。それは最も恐ろしいことであり歓喜すべきことでもあるようだった。
「スースー」規則正しい真澄の呼吸音が右隣の乙一の耳に引っかかった。彼女の灰色の瞳は褾が描いた人物画に向いていた。だがその瞳には何の力もなくガラスのようだった。
「真澄ちゃん?」乙一は真澄が目の前の絵によって別の場所に行ったと判断した。(あと数十分、彼女はこの場所で佇んでいるのか・・・。有言実行ってことかな?)彼は小柄であどけない同僚の顔が無表情なので、その顔も見てはいけないように感じた。だから隣の絵を観るために一歩ほど右に寄った。真壁褾の絵の右隣の作品は真澄の絵だった。
「・・・・・・お父さん・・・」真澄の呟く声が聞こえた。乙一は怪訝そうに左隣に佇んでいる同僚を見た。
「死んじゃった」真澄はそう言った。そして彼女の体が右に倒れかけた。乙一は瞬時に倒れかけた小柄な女性の体を受け止めた。
「真澄ちゃん?」乙一は眼を閉じている真澄に呼びかけた。真澄は同僚の声に反応せず、灰色のレディースーツに包まれた体は脱力していた。
「んん」乙一は両腕で真澄を抱き上げた。そしてギャラリーの真ん中にあるソファーに彼女をそっと寝かせた。彼は真澄の右手首に人差し指と中指を当てて脈拍を計った。二十三歳の女性の脈拍はゆっくりと規則正しかった。呼吸も問題なく形の良い胸がゆっくりと上下している。
乙一はしばらく横になっている真澄を見つめていた。彼女は無防備に眠っているようでもあるし、意識を無くしているようにも見えた。
真澄がソファーに横になってから五分が過ぎた。乙一は膝をつき真澄の耳元で「真澄ちゃん」と声をかけた。その声に反応するようにソファーに横になっている女子社員は「う、うーん」という声をあげた。乙一は「真澄ちゃん」と声をかけながら、同僚の白い頬を軽くピタピタと叩いた。
「う、うーん」先ほどと同じような声を発しながら真澄はゆっくりと眼を開けた。
「・・・、んん、新潟さん? あれっ、ここは?」真澄は上体を起こしながら周囲を見回した。
「真澄ちゃん、ここはAFZの三階ギャラリーだよ。体は大丈夫?」乙一が真澄と同じ視線を保って顔を近づけてきた。
「あっ、はい、大丈夫です・・・。あのっ、私・・・」真澄は頬を赤く染めながら俯いた。
「真澄ちゃんはあの絵を観ていたら意識を失ったみたい」芸術振興課所属の男子社員は真壁褾の絵を右手で指さした。彼の仕草に引きずられるように真澄は首を捻りその人物画を見た。
「そうですか」真澄はそう言うと腰を捻り両足をソファーにから半円を描くように動かした。彼女の履いている茶色のローファーが床についた。
「真澄ちゃん、まだ立たないほうが良いよ」乙一は真澄の右隣に腰を下ろした。
「すみません・・・、ご迷惑をおかけして・・・」
「いやいや先輩社員としては当然ですよーっ」乙一は得意そうに胸を張った。
「あっ、真澄ちゃん、ちょっと待っててね」真澄の先輩社員は立ち上がるとギャラリーから出て行った。真澄があっけにとられて受付の近くの白いドアを見ていると、そのドアが開いて乙一が帰って来た。彼の右手にミネラルウォーターのペットボトルがあった。
「ハイ、これ」フットワークの軽い先輩社員は小柄な同僚の右隣に腰を下ろして、ペットボトルを手渡した。
「あっ・・・ありがとうございます」真澄は両手でそれを受け取った。
「少し冷たいから、口の中にちょっとの閒、水を含んで飲んだら良いよ」
「はい」後輩社員はペットボトルのキャップを開けて、言われた通り水を口の中に少しの時間含んでから飲み込んだ。彼女は同じ動作を三回した。
「真澄ちゃん、喉渇いていたんだねーっ」乙一は黒い眼を細めて嬉しそうに言った。
「あっ・・・、そうですねぇ。私も今、気づきました」真澄は照れながら答えた。
「もう落ち着いたかな。体で痛いところとか変な具合のところとかないかな?」
「んーっ、ハイ、大丈夫です・・・。いろいろ心配してもらって、ありがとうございます」真澄は俯きながら答えた。
「それは、良かった。ところで真澄ちゃん、変なこと、訊くけど真澄ちゃんのお父さんは元気でしょ?」
「あっ、ハイ、父は元気ですけど・・・」音無真澄は少し怪訝な表情を浮かべた。
「ウンウン、そうだよね。ちょっと前も真澄ちゃんからお父さんが作った野菜を貰ったもんねぇ」
「ハイ、父は毎日出勤して、工場で野菜を作っていますけど。何か・・・」
「アーッ、いやいや。真澄ちゃんのお父さんが元気なら良いんだよ。ハハハッ」真澄は両手で膝の上にペットボトルを置きながら、じっと乙一の黒い眼を見つめた。
「もう少しここで休んでいるほうがいいね」同僚の言葉に真澄は静かに頷いた。




