音無真澄が新潟乙一に言われて気づいたこと
「真澄ちゃんは美大出てたっけ?」新潟乙一は受付の左隣の椅子に座っている小柄な女性に話しかけた。
「はい」乙一と同じ芸術振興課に所属している音無真澄は小さな声で答えた。
「この街に美大があったとはねぇ」
「・・・・・・」真澄は何も言わなかった。
「今日は何人、ここに来たの?」乙一は透明感のある真澄の横顔をずっと見ている。
「・・・二十三人です」芸術振興課二年目の女性スタッフは真っ白な記名帳を見ながら答えた。
「ふーん、二十三人ねぇ。もう夜の八時でしょう。今からは人来ないと思うけど。ねえ真澄ちゃん、二十三人って多いの、少ないの?」乙一は自分の方を向いた同僚の灰色の瞳を見ながら、昨日会った真壁褾の鳶色の瞳を思い出した。
「昨年は一日平均二十人弱でしたから、それに比べると少し多いと思います」真澄は少し恥ずかしそうに答えた。
「ふーん、そうなの。あっ、そう言えば真澄ちゃんも絵を描いてるんでしょ。この絵画展にも出してるの?」
「あっ、ハイ」
「何処に掛かってるのかなぁ?」乙一はぐるりと周囲を見回した。
「あちらの水彩画が私の絵です」真澄は右手でギャラリーの奥を指さしながら、またも恥ずかしそうに言った。
「ああっ、あの緑っぽい絵ね」芸術振興課に異動した男性社員は立ち上がり同僚の指さした方向に歩き始めた。その絵は受付から一番遠い距離にある。乙一は壁に掛かっている絵の前で立ち止まり、少しの閒その絵を見ていた。
「おーい、真澄ちゃーん」乙一は振り返ると受付椅子に座っている真澄を手招きした。
「ハイッ」乙一の同僚は慌てて立ち上がり、小走りで彼の立っている場所へ行った。
「何でしょうか? 新潟さん」真澄は右手で肩まで下ろしているチョコールグレイの髪を二回撫でつけながら訊いた。
「ねえ真澄ちゃん、これって風景画でしょ」
「あっ、ハイ」乙一の左隣に立っている真澄は彼の顔を少し見上げながら答えた。
「こんな場所ってあるの?」乙一はF一〇サイズの風景画を観ながら不思議そうに同僚を見つめた。
「あっ、あります。私は実際の風景しか描けないので」真澄は白い頬を赤く染め俯いた。
「へぇー、じゃあ真澄ちゃんは実際に、このキレイな風景のある所に行ったんだ」
「あっ、でもこの絵には私の主観がかなり入っています」二十三歳の女子職員は慌てて右手を何回も振った。
「この街に草がこんなにたくさん生えてる場所、あったかなぁ」乙一は両腕を組んで首を右に捻った。
「あの・・・街の東の方に、この場所があります・・・」真澄は時々上目遣いをしながら答えた。
「その場所って結構遠いの?」
「はい、私のマンションからだと車で三十分くらいかかります」
「へぇー結構遠いねーっ」乙一は絵を見ずに真澄のあどけなさの残る顔を見ていた。
「・・・・・・はい」真澄は同僚男性の遠慮のない視線を避けるように俯いて答えた。
「だけどあれだねぇ。この絵画展の作品って暗い絵が殆どじゃない? 明るいのって真澄ちゃんの絵だけじゃない?」
「あっ・・・、そうですか?」
「あれっ真澄ちゃん、まだこのギャラリーの絵を全部観てないの?」
「あっ・・・・・・はい、そう・・・です・・・」真澄は困ったように言った。
「んん、どうしたの? 絵を観ると何か困ることがあるのかな?」乙一の右の口角が僅かに上がった。
「ええっ・・・、私、絵は好きですが、絵をたくさん観ると疲れてしまいます・・・」
「エーッ、絵を観ると疲れちゃうの。真澄ちゃん、絵を描くのに。繊細だなぁ、俺には分からん」乙一は少し笑いながら言った。
「私が繊細かどうか、分からないのですが・・・・・・」
「いやいや、真澄ちゃんは絶対、感性が繊細だよ。だから絵を観ると疲れてしまい、一度にたくさんの絵を観ることが出来ないんだねぇ」絵画に関心のなさそうな男性社員は小柄でほっそりしている同僚に感心していた。
「あと・・・、ある種の絵に引き込まれてしまうのです」真澄は俯きながら時折チラッチラッと乙一を見ながら会話を続けた。
「絵に引き込まれる? フーン」乙一は興味深そうに訊いた。
「私は気が付いたら二十分くらい同じ絵の前で・・・、あの、茫然と立っていることがよくあります」
「それって気に入った絵を熱心に観てるってことでしょ」男性社員はまたも感心しながら訊いた。
「いえ・・・、違います」真澄が俯きながら首を振るとチャコールグレーの髪がフワッと揺れた。
「違うの?」乙一は優しく訊いた。
「あっ、はい。特に気に入った絵とか好きな絵じゃなくて・・・、その絵の前に行くと私は何処か知らない所に居る様な気がして・・・」
「そして茫然と絵の前で佇んでいると・・・」乙一の右の口角がまた少しだけ上がった。
「・・・・・・はい」真澄は不安そうに乙一を見上げた。
「どんな所に真澄ちゃんは行っちゃうのかな」
「あのっ・・・たぶん外国だと思うのですが薄暗い石畳の街とか・・・、冷たい夜の公園を歩いていたりしています。それから月の光が差し込む図書館のような所に座っていたりします・・・」
「へぇー、何か雰囲気のある所が多いな。さすがに芸術的な感性のある人は違うね」
「いえいえ、そんなことないです」真澄は俯きながら必死に右手を振って否定した。
「真澄ちゃんの浮かんでくる風景っていうか、行ってしまった所は、観ている絵を関係があるのかな。石畳の街に行ったときは、そんな感じの絵を観ていたとか」
「いえ・・・観ていた絵とは関係がないようです。人物画や静物の絵の前で茫然としたこともありますから」
「ふーん、謎だね。じゃあ画集を観ているときも茫然として時間が経ってしまうときもあるの?」乙一は同僚の灰色の瞳を覗きながら訊いた。
「画集で茫然となることは・・・・・・、ないです」真澄は答えている途中に息を吸い込んだ。
「じゃあ、こういうギャラリーの絵を前にすると茫然としちゃうんだ」
「はい、そうです。あと、街の中のポスターが眼に入ったとき、ときどき佇んでしまいます」
「へぇー、街の中のポスターねぇ」乙一は腕組みして何か思い出しているような表情を浮かべた。
「あの・・・、新潟さん。どうしましたか?」真澄は少し不安そうに訊いた。
「この街にポスターって、そんなに沢山貼られていたかなぁって思ってね。俺、街の中でポスターを見た記憶があまりないみたい」
「アッ、そうですね。街の中ではポスターの数は少ないと思います。はい・・・」
「真澄ちゃんは街の何処でポスターを見ているのかな?」
「あの・・・民家の廃屋に古いポスターがずっと貼られていたりします。それから朽ちかけた掲示板や、雑貨屋さんの壁とかに貼ってあります」
「そんなところにポスターが貼ってあるのかぁ。へぇー、面白いねぇ」
「面白い・・・ですか?」真澄は同僚男性の反応に戸惑っていた。
「真澄ちゃんっておとなしい感じだけど意外と活動的だね」
「えっ、そうですか?」
「だって廃屋や朽ちかけた掲示板のある場所って昔は宅地だったところでしょ。その地域は路地があったりするけど、今は人が居ない場所だし訪れる人もいないでしょう?」
「あっ、・・・はい」
「そういう場所にわざわざ行くっていう人、今はもう殆どいないと思うけど」乙一は少しだけ不可思議さを含む微笑みを浮かべた。
「そうですね・・・」真澄は同僚男性の微笑を見て何かを告げたくなった。だが彼女の口からは何の言葉も出てこなかった。
「それで真澄ちゃんはポスターを観ても、絵画と同じような感覚になるの。何処か他の場所に居るみたいな」
「いえ・・・違います。ポスターの前では何処かへ移動した感覚はなくて、気づくと時間が二十分とか三十分過ぎています」
「ふーん、絵とポスターでは違うんだね。面白い」乙一は何事か考えているように呟いた。
「アッ!」真澄は小さく叫んだ。
「どうしたのかな、音無真澄さん。何か分かった?」
「あっ・・・はい。私、今までポスターを観たときに何も感じていないことに気づいていませんでした。新潟さんに言われるまで、そのことに気づかなかった・・・」真澄は呆然と目の前の乙一の黒い眼を見た。その眼はいつも賑やかで軽薄な男性のものではなかった。
「人間ってそんなもんだよ」乙一は年長者らしく右手で真澄の右肩を軽く一回叩いた。真澄はその感触が嫌ではなかった。




