宮森華は「この街を出て行きたい」と言った。
「アッ、初めまして、こんばんは。私、城北高校三年の宮森華といいます。以前、このお店で林田主任さんとお話したことがあります」華は立ち上がり玲に向かって軽く頭を下げた。
「こんばんは、宮森さん。あたしは村上玲といいます。あのね、宮森さん。あたしはあなたと会ったことがあるのよ」玲はそう言いながら、ゆっくりと勤の左隣に腰を下ろした。その言葉に少し怪訝な表情を浮かべた女子高生もソファーに座った。華は自分の正面に座った玲の顔を見た。(紅い眼鏡が似合う可愛い人だなぁ・・・)
「アッ! 村上さんってAFZの社員ですよね。去年の絵画展で私が話しかけた人?」
「フフッ、ご正解」玲は微笑んだ。紺色の制服を着た女子高生はその笑顔を見て何故か切なくなった。
「去年の絵画展で村上さん、とても熱心に絵を観られていましたね。村上さんが観ていた絵は私の友達が描いた作品でした」
「ええ、そうだったわね。あの不思議な絵の作者の友達と出会えるとは思ってもいなかったわ」紅い眼鏡の奥にある青みがかった瞳が嬉しそうに細くなったので、華は安心した。
「ふーん、村上さんが観た絵はどんなものだったのかな?」勤は左隣の玲の顔を見ながら訊いた。彼女のピンク色の頬が艶やかに輝いているように見える。
「油絵で、いろんな色が重ねられて黒や茶色や紫が混ざった絵なの」
「何か形を表しているのかな。例えは夜空とか、街の風景とか」
「ううん、具体的な物や風景を表しているわけではないの。深く暗い色がキャンバス全体に塗り込められている感じ」
「ふーん、ある種の抽象画みたいなものかな」勤は両腕を組んで上目遣いをして何やら創造していた。
「ププッ、林田さん、三白眼になってますよ。怖―い」
「エッ、そうか」女子高生にからかわれた社会人は慌てて眼をパチパチさせた。そしてコーヒーカップに残っていたコーヒーを飲み干した。
「林田主任さん、絵はやっぱり実物を観ないとダメですよ。ねえ村上さん」華は悪戯っぽく正面の玲を見た。
「そうねぇ、せっかくAFZで絵画展が開催されるのだから観に行きましょう、勤さん」
「あ、ああっ」勤は少し驚き、曖昧に頷いた。
「ところで村上さん。村上さんの持っている本は画集ですか?」女子高生は年上の女性に遠慮なく問いかけた。
「ええ、このお店には初めて来たというか、勤さんに誘われて来たの。あたしは殆ど本を読まないけど、絵は好きなので」玲はそう答えると膝に置いていた画集を女子高生に手渡した。
「あっ、ありがとうございます」華は玲から手渡されたA4サイズよりも少し小さな画集の表紙を見た。その表紙には海と自転車と岬の草原が水色と緑と白で描かれていた。
「ウァー、素敵ぃ。村上さん、観ていいですか?」
「ええ、勿論」玲は頷き、そして亜麻色のティーカップに残ったミルクティを一口飲んだ。彼女は目の前の活発な女子高生が熱心に画集を観る姿に何か心惹かれるものがあった。
(高校生って、こんなに元気な時期なのかしら? それにこの子の姿が周囲のものと違ってクッキリ見えるような気がする)玲は目の前に座っている少女の姿を見るだけで、体が軽くなっていく爽快感を覚えた。
「あっ、灯台」それまで静かに水彩画の画集を観ていた華が呟いた。そして上を向いて「フーッ」と息を吐いた。
「どうしたの、宮森さん?」玲は目の前の少女の気持ちが揺らいでいることを感じ取った。
「このページに灯台が描かれていて、私の父を思い出したんです」華は開いた画集を逆に向けて、対面にいる玲に灯台が描かれているページを見えるようにした。
「宮森さんのお父さんは灯台の保守管理の仕事をされているの?」
「あっ、ハイ。そうです」
「この絵のように岬の草原の先端に灯台が建っているのかな?」
「いえいえ、こんな素敵な風景じゃないです。父が守っている灯台はゴツゴツした突堤の先端に建っていて・・・。村上さん、その灯台はとても大きいのです。『北の灯台』って言われています」華ははにかみながら言った。
「へぇー、宮森さんのお父さんはあの北の灯台に勤めているのか」
「主任さん、北の灯台を知っているのですか?」華は少し驚いた。
「うん、数年前にドライブで行ったことがあるよ」
「ふーん」華は勤の返答を聞きチラッと玲を見た。
「あたしは今日、初めて『北の灯台』のことを聞いたわ。ねえ勤さん、その灯台はどんな感じだったの? 海の近くだから、海は怖くなかったのかしら?」
「あーっ、海ねぇ。海は穏やかだったよ。そんなに怖いとも思わなかったよ」
「うんうん、主任さんはそんな人ですね、ねえ村上さん?」華は少し悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「そうねぇ、勤さんはあまり物事に動じないというか、自分の考えをしっかりと持っていると思うわ」
「そうかな」勤は照れくさそうに右手で頭頂部付近を掻いた。
「林田さん、コーヒーのお代わりはいかがでしょうか?」華の左後ろから由美の声が聞こえた。
「あっ、ありがとうございます。お願いします」勤は遠慮がちに言った。由美は膝をついてコーヒーサーバーにある熱い黒茶色の液体を勤の前にあるカップに注いだ。華はモカブレンドの甘い香りと共に由美の爽やかな香りに気が付いた。(アレーッ、由美さんの良い香り、何だっけ? 昔この香りを嗅いだことがある。何かの花の香りだったかな?)
「どうしたの、華さん。難しそうな顔をして」華の眼に前に紅いフレームの眼鏡の奥にある藍色の瞳があった。
「あっ、えっと、ちょっと思い出したいことがあって・・・」華は目の前のチャーミングな女性に自分の考えていることが見透かされているように感じた。その感覚は悪くなかった。
「そうなの・・・。ねえ華さん、あなたのお父さんは北の灯台のお仕事をされているということは、ずっとその灯台に住んでいるのかな?」
「ええ、そうです。父はずっと北の灯台にいます。私は一人暮らしだけど、父に会いたくなったら列車に乗って会いに行きます」
「一人暮らしなの、偉いね」
「私、我が儘だから一人暮らしが合ってると思います。それに友達もいるし」
「フフッ、華さんだったら素敵な彼もいるでしょう?」
「あっ、いえいえ、そんな」華は慌ててテーブルに置いてある皿のクッキーを手に取り口に入れた。口の中で租借したクッキーは仄かにココアの味がした。
「そういえば今日は彼氏の水樹君と一緒じゃないね」勤がボソッと言いクッキーを手にした。
「林田さん、晶は彼氏じゃありません」華は呑気そうにココアクッキーを食べているAFZの男性社員を軽く睨んだ。その時、彼女の頭に何かが引っ掛かった。
「晶、晶・・・、村上玲さん、村上さん・・・、アッ! 村上さんは晶がナイフを突きつけられた人でしょ!」華は口を開け眼を大きく見開いた。
「まあ、そうかな」玲は言いにくそうに答えた。
「アッ、すみません、村上さん。私の幼馴染が酷いことして」華は急いで立ち上がり深々と頭を下げた。
「いいのよ、いいの。華さん、頭を上げてね。あなたがそんなに謝ることじゃないわ。あたしはあのことで殆どショックも受けていないし」
「そうですか・・・・・・」華は悲しそうな顔をしてソファーにそっと腰を下ろした。
「華さん、あたしは今はもう、あのことは全く気にしていないのよ、ねっ勤さん」
「ああ、大丈夫だ。元気に働いている・・・と思う」玲の職場の同僚の声は低かった。
「それに水樹君はあの後、ちゃんとあたしに謝りに来たのよ。彼にあたしはもう大丈夫だからと伝えたし。華さんもそんなに気にしなくていいのよ」
「晶は村上さんに謝りに行ったのか・・・」華はそのことを聞き動揺した。彼女は紺色のスカートの上に乗っている画集の絵に見た。黒い瞳には夕焼けに照らされている岬の灯台と草原が映っていた。(晶と北の灯台に列車で行ったことがあった。中学生のときだった。列車の窓から見える風景は廃屋ばかりだった。でもその風景は懐かしい感じがして、わりと良い感じだった。もし今度、北の灯台に行くとき、一緒に行く人は晶じゃないのかなぁ)
「華ちゃん、今日のクッキーはお気に召さなかったのかな?」華の左の鼓膜が心地よく振動した。思案顔の女子高校生は隣でコーヒーを飲んでいる由美が微笑んでいるように見えた。
「あっ、いいえ。いただきます」華は慌ててココアクッキーを一つ口の中に入れた。そしてゆっくりとそのクッキーを咀嚼した。それから温くなったレモンティを一口飲んだ。
「村上さん・・・、村上さんは晶とどんな話をしたのですか?」華は思わず訊いてしまった。玲は目の前の少女の黒い瞳を見た。その瞳は強い意志を感じさせたが、親しみやすい柔らかい光も宿していた。
「あれは雨が降った日の二日後だったと思う。その日の夕方、水樹君はあたしの職場の近くのベンチに座って、あたしを待っていた。あたしに謝るためにね」玲は藍色の瞳を少し細めながら話し始めた。(雨が降った日の二日後って、私が晶を探して林田さんと一緒にあのお婆さんがいる雑貨屋に行った日?)華は自分の脳が急に高速回転し始めたような感覚があった。そして彼女は息を飲み、村上玲の藍色の瞳を見つめた。
「水樹君はあの雨に日にこの街を出て行ったの」その言葉を聞いて華の右眼の上の部分がピクリと動いた。
「あれっ、雨の日って俺がこの店で水希君と宮森さんに会った日だろ。そのあと、いつだったかな、確か会社の食品売り場で水樹君を見て声をかけた気がするけど」
「ええ、水樹君は岡野さんという男性に会って、この街に戻るように言われたの。そして水樹君はその言葉に従って結局この街に戻ってきた」
「岡野さん?」
「彼は私たちの同僚なの。いろいろあって彼も街から出て行ったけど、彼もこの街に戻ってきたのよ」
「へぇーっ、高広が街を出て行った際に、あいつは水樹君と会っていたのか」勤少し不機嫌そうに言った。
「ごめんなさい、勤さん。あなたがとても忙しいので、あまりあなたの仕事に関りのないことは話さなかったの」玲は申し訳なさそうに右手を隣の男性の左肩に置いた。
「まあ、水樹君の案件は君の部署の仕事だからな」勤はそう答えるとコーヒーを便宜的にコーヒーカップに口を付けた。
「主任さん、いくら恋人同士だからといって、何でもかんでも話さないですよ。村上さんは主任さんのことを思って晶のことを話さなかったんだから。駄目ですよ、そんな言い方」
「ああっ、そうか」AFZの男性社員は照れくさそうに隣の同僚を見た。玲は勤の顔を見て彼の肩に添えていた手を離した。
「そうかぁ、晶は一度この街を出て行ったんだ・・・。村上さん、晶は他にどんなことを話したのか教えてくれますか?」
「ええ、いいわよ。でも華さん、あなたは水樹君や岡野さんが街を出て行って、そして戻って来たことにあまり驚かないのね。あたしは街の外に出るってことはタブーみたいな感じているの。だからそのことを話すことに躊躇するのだけど」
「そうですね。ほとんどの人は曖昧に言うけど、でも村上さんは晶が街を出て行ったってハッキリ言ってくれました。それに私はこの街を出ていろんな所を見て回りたいって思っています」
「街を出て行きたい? 凄いなぁ。玲さんみたいだ」勤は左横を見た。
「エッ! 村上さんは他の街からこの街に来たのですか? あーっそうか、なるほどなるほど」華は一人で納得したように何回も頷いた。
「どうしたの、華さん? 何か分かったのかしら」
「あのですね、去年のAFZの絵画展で私がなぜ村上さんに声を掛けたのか、分かったんです。私も普段は知らない人には声をかけないけど、あの時はなぜか村上さんに声を掛けてしまったでしょ。私の友達の描いた絵を熱心に観てくれたってこともあるけど、私は村上さんがこの街の人と違うって感じたからだと思う。他の街から来た人ってやっぱり凄いと思ってます」
「あたしは華さんのように明確な意思を持って街を出たわけではないわ」
「・・・・・・」玲の前の少女は不思議そうに首を右に傾げた。
「あたしは住んでいる街から逃げてきたの。その街に暮らしていると徐々に自分が擦り減っていくみたいで・・・。あたしはあなたが評価してくれるような人間ではないの・・・」華は玲の言葉に何の感情も込められていないように聞こえた。
「でも、村上さんがそんな風に感じてそこから逃げ出すってことは・・・私は良いことだと思います」
「そうかな?」
「だって今は殆どの人がそんな感情すら持てないっていうか、諦めてる気がします。変わり映えしない日常をただ時の流れに委ねているっていうか。村上さんが以前住んでいた街を出て新しい街に行くってことは、何かを求めているんじゃないかって思います」
「フフッ、華さんは水樹君と同じことを言うのね」
「エッ、晶がそんなことを言ったのですか?」
「そう・・・、彼はあたしが街を転々とするのは求めるものがあるからだと言ってくれた・・・」
(・・・そう、私と晶は確かに通じることがあった)華は胸の内で呟いた。
「ふーん、それで玲さんはこの街で求めているものが見つかった?」勤は不思議そうに同僚を見た。
「そうねぇ。見つかったかもしれないし、まだかもしれないです、勤さん」玲は微笑みながら答えた。勤はその答えを聞いて、まだ不思議そうな顔をしている。
「ププッ」華は右手で口を塞ぎ吹き出すのを堪えた。
「どうした、宮森さん。何か可笑しいことがあったのか?」
「いえいえ、主任さん。主任さんは相変わらず主任さんだなぁって感心しました。そうでしょう、村上さん?」悪戯心が浮かんだ女子高生は自然と頬が緩んでいることを感じた。
「ええ、勤さんはいつも勤さんでとても頼りがいがあります」
「あっああ、そうか・・・」褒められた男はどんな表情をして良いのか分からないでいた。
「林田さんにとっては禅問答のようになってしましましたね」立川由美が静かに言った。
「確かに禅問答のようだ」勤は一息ついてコーヒーを飲んだ。
暫く透明な静寂の時が流れた。




