平山範子の画集と中岡美奈子の言葉
宮森華は尊と別れ、自宅のマンションに向かって赤い自転車を走らせていた。(綾子さんは自分の居場所が無くなった・・・。でも、そもそも自分の居場所って何だろう。私、自分の居場所ってことを考えたこと、あったかな?)午後六時三十分を過ぎていても彼女の周囲はぼんやりと明るかった。だが少しずつ闇が深まり密やかに霧も下りてきた。華の赤い自転車の黄色いライトが霧の混じった薄闇の中、その黄色い光の領域が明確になりつつあった。
華が乗っている自転車の前方に、立川書店の出入り口ドアから淡く白い光が漏れていた。ストレートヘアをなびかせている女子高生は立川書店の隣にある空き地に赤い自転車を止め、その書店の前に立った。頑丈な半透明のドアはゆっくりと左右に開いた。
「こんばんは、宮森華さん」華が店に入ると眼の眼に立川由美がいた。店主の紅いシルクのブラウスと黒いタイトスカートのファッションに女子高生は驚いた。(初めて、この人と会ったみたい。アレッ? 私、一人でこの店に入ったのも初めてだ・・・)
「アッ、こんばんは」華の挨拶は固かった。
「どうしたの、華さん。あらっ、ポニーテールからストレートヘアにしたのね」由美の声を聞くと華は自分の黒髪がフワッと浮き上がるような気がした。
「フフッ、華さん、今日はどんな本を探しにきたのですか?」
「いやっ、その、特に読みたい本があるわけではないのですが・・・。このお店に灯りが点いていたので、その何となく入っちゃいました」
「そう・・・。時間の許す限りゆっくりしてくださいね。紅茶とクッキーも用意しますから」
「アッ、ありがとうございます」華は反射的に頭を下げた。そして顔を上げた時には、すでに立川由美の姿はなかった。そのとき華はこの店がとても広い空間を擁しているように感じた。(一人でこの書店に来ると、こんなに広く感じるんだなぁ・・・。いつも由美さんのお店には晶と一緒に来ていたから、こんなこと感じなかった。私はやはり晶にいろんな面で頼っていたのかな・・・)活字中毒者を自認する少女は小さな胸の痛みを感じた。それとともにその胸の中で閉じられていた窓が、ゆっくりと開くような感覚もあった。
華は書店の奥の右端にある書架の前に移動した。その建物の北東に位置する書架には数十冊ほどの写真集があった。紺色の制服を着た少女は『冬の風景』という写真集を手に取った。分厚い本のページを捲っていくと、灰色の雲と白い雲の隙間から黄金の柱か屹立している風景が現れた。彼女はその写真の題名が『冬の光芒』と記されていることを確認した。
(尊君とヴェルシスでツーリングデートした時に見た風景と似ている。やっぱりこの世界は塞がったままじゃない・・・)華は夜の光芒を尊と見たことに安堵の気持ちがあった。彼女はこれまで、この街を塞いでいる灰色の雲が割れて、光が差し込んでいる風景を何度も見てきた。しかし彼女の周囲の人間は殆ど彼女の目撃談を信じてくれなかった。
(いつかこの街を塞いでいる灰色の雲が無くなって、こんな写真のような素敵な風景が日常となったらいいのに。そうなったらこの世界は何か変わるかもしれない)本を愛する女子校生は、分厚い写真集を本棚に戻しなから、雲が割れた夜のライトハウスの異様な暗さを思い出した。
(綾子さんはあの日、月の光を見なかったのかな? 東の窓から月の光が差し込んだはずなのに。殆どの人はいつもと違う風景を見ても、それは違う風景には見えなくて、いつもと同じ風景に見えてしまうのかな・・・・・・)
華の脳裏に文芸部の部室で猪口権が熱っぽく語った言葉が響いた。「殆どの人間にとって自分の理解の及ばないものは見ようとしないのです。知ろうともしない。そうすると様々な変化も見つけられないし分からなくなるのです。そこには新鮮な驚きもない。世界は灰色に固定されてしまっている」文芸部の部長は新しい文永部顧問の振るう熱弁に驚きながらも、その言葉に納得してしまっていた。彼女は猪口顧問の言葉に具体的な説得力があったように感じたのだ。
(でも綾子さんは例え変化を求めていなくても、楽しそうにお仕事をしていた気がする。どうして綾子さんの居場所が無くなったのかな?)華はそう考えながら本棚を見続けていた。
「平山範子 画集? エッ! 平山先生の画集かしら?」城北高校の三年生はA4版の大きさの本を手に取った。その本は五十ページくらいの画集だったが、彼女には意外と重く感じた。白い表紙には「平山範子 作品集」とだけ黒い字で書かれていた。
(タンク?)その画集の最初のページを捲ると、華の瞳に巨大な丸い物体が飛び込んできた。闇の中に青白い強大な丸い物体が建っている。人を威圧するその丸い建物の横には蒸気を吐き出しているような白く太い塔があった。人が造ったモノだが、それらの建造物は人を拒絶している威圧感があった。そしてそれらの巨大な建物群の中に鉛色の鉄塔が建っており、そこから数本の送電線が伸びている。
(何だろう、これは?)華は訝しげにページを捲るが、どの絵も同じような題材だった。巨大な丸いタンクは闇の中で青白く輝いていた。そのタンクは様々な角度から描かれている。そして白い蒸気を吹き出している白く太い塔はタンクよりも高く聳えている。青白いタンクと白く太い塔の周囲には、大きさの違う灰色の四角い建物が下僕のように寄り集まっていた。
華は昨年のAFZの絵画展に出展した平山教諭の風景画を思い出した。その絵は華や平山教諭が住んでいる街の夜の風景だった。
(夜の街・・・、いくつもの高層マンションの灯りが所々に薄く浮かび上がっていた。その灯りの光は弱弱しく儚く見えた。そのぼやけた光は深い闇に吸い込まれていく運命のように感じられた。だからその絵が描いているものは「黒」だったような気がする)そして華の脳裏には、昨年AFZの絵画展が開催されたギャラリーの光景が浮かび上がってきた。(ギャラリーの白い壁に様々な絵が掛かっていた。絵を観に来た人は数人しかいなかった。受付には太った眼鏡を掛けた女の人がいた。あの人を見たらお饅頭を連想した。何故かな? 守君の絵の前でジッと彼の絵を見つめている女の人がいた。AFZの社員さんだった。茶髪のショートカットで紅い眼鏡が似合う可愛らしい人・・・。アッ、その人、美冬に雰囲気が似ている! 私、何故か分からないけど、その赤い眼鏡の人に声をかけちゃったんだ。知らない人なのに。どうしてかな?)
華は自分の記憶の不可思議さにちょっと驚いた。一度深く息を吐き出して、眼を両手で持っている画集に落とした。彼女の瞳に黄金色に輝く金属のトンネルが眼に飛び込んできた。トンネルの側面には大小無数のパイプが張り付いていた。よく見ると。それはトンネルではなくて機械室の円形状出入り口のようだった。
「光がある・・・・・・だけど」華は画集に載っている絵の黄金色の光に疎外感を覚えた。
(冷たい光・・・・・・。この建物って白石先生がよく説明していた施設かしら?)
「ハッ!」華は左肩を軽く叩かれる感覚に驚いた。
「宮森さん、こんばんは」ビックリした女子高生の左横に中岡美奈子が立っていた。彼女は踵の低い黒い靴を履き、アイボリーのブラウスに紺色のスカートスーツを無難に着こなしている。
「アッ、中岡先生、こんばんは」城北高校の三年生は養護教諭の存在を確認すると、瞳を細め微笑んだ。
「こんな所で会うとは、奇遇ね」
「ホントですねーっ。中岡先生はこのお店によく来られるのですか?」
「いえ、今日が初めてなのよ。以前からずっとこの書店に興味があったけど、私が入ろうとする時はいつも閉まっていてね。今日は店の前に灯りの光が漏れていたので」中岡教諭は少し困ったように笑った。
「それは良かったですね」
「宮森さんはよくこの店に来るの?」
「ええっ、まあ、ちょくちょく。私は活字中毒者なので」
「フーン、そうなの」中岡美奈子は含みを持たせたような言葉を発した。そして彼女は宮森華が持っている本に眼を落した。
「宮森さん、あなたの観ていた本は何?」
「あっ、この画集は城北高校の平山先生が描いた作品集みたいです」華は両手でその画集の表紙を養護教諭の方に向けた。
「そうなの。ちょっと見せてもらっていい?」
「ええっ、いいですよ。どうぞ」女子高生は丁寧にその画集を歴史と養護を担当している教師に手渡した。中岡美奈子はその画集をゆっくりとページを捲りながら時間をかけて一枚一枚凝視した。
華はクールな中岡教諭が意外にも熱心に絵を観続けているので、本棚に並んでいる他の画集をチェックし始めた。彼女は中岡教諭の左横に移動し、その前の本棚にある画集や絵画関連の本を右から左へ見ていった。華の眼の高さにある本棚の左端に「雹」という題字の画集があった。先ほど手に取った平山範子の画集よりも一回り小さい画集だった。本の厚さも平岡教諭の画集の半分くらいだった。華が手に取ったその画集の表紙は白い髪をした小学生くらいの少女の自画像の水彩画だった。
(あれっ・・・・・・)艶やかな黒髪の女子高生は妙な既視感に囚われた。(この女の子、私、知っているような・・・)
「その女の子、真壁さんに似ているね」右横から中岡美奈子の乾いた声が聞こえた。
「あっ、そういえば・・・」華はそこで言葉を飲み込んだ。そして右隣の養護教諭を見た。
「中岡先生、とても熱心に平山先生の画集を観てましたね」
「そう? もしこの本が本当に平山先生の描いたものだったら、その題材に関してはちょっと興味あるかも。はい、これ」中岡美奈子は興味なさそうに答えて、手に持っていた本を華に返した。華は右手で平山教諭の画集を受け取ると、少し考えてその本を本棚に返した。
「美奈子先生、ホントは平山先生の画集、面白いと感じたんじゃないですか?」女子高生はクスクス笑った。
「あらっ、宮森さん。あなたは私のことを誤解しているみたいだけど?」養護教諭もほんの少しだけ笑った。
「ところで美奈子先生。ライトハウスの飯塚綾子さんは先週の金曜日からお店に来ていないんです。どう思われますか?」
「まあ、死んではいないと思うけど」
「エッ! アッアアッ・・・、はい」休憩室によく水樹晶を連れて行った女子は、少しだけ驚いた。
「せっかくあなたと高梨君が彼女を助けてあげたのにね。飯塚さん、あなた達が休憩室から出て行った後、何故か不機嫌になってプリプリ怒って部屋から出て行ったわ。あの調子じゃあ、また喉に食パンを詰めることはしないと思うけど」養護教諭は事務報告のように言った。
「そうですか、綾子さんは怒って休憩室から出て行ったのですか・・・」華の声は淋しさを含んでいた。
「彼女、やることがあるので私の部屋では休んでいられないって言って、急いで出て行ったのよ」
「あの状態で急いでやることって、それって何ですか?」
「店の後片付けと施錠だって」中岡教諭は呆れていた。
「ホントかなぁ」
「たぶん彼女はこの街を出て行きたかったのよ」
「そうですか・・・・・・」華は潤んだ瞳を閉じた。
「宮森さん、あなたは飯塚さんのことが心配?」
「はい」華は眼を開けて、そう答えた。
「あなたらしいわね」中岡美奈子は表情を変えずにそう言った。
「中岡先生はこのまま綾子さんが、この街からいなくなるかもしれないと心配はされないのですか?」
「そうねえ、こんな時代だから。知っている人がいなくなるのは日常茶飯事でしょ。あなたにとっては身近なヒトだったかもしれないから、心配するでしょうけど」
「はい・・・。そうです・・・・・・」華は不服そうに仲岡教諭を見た。
「ところで、宮森さん、最近は水樹君と一緒に休憩室には来ないのね。彼、疲れたと言って一人でよく来るけど」
「ハイ。近頃、晶は一人で居るのが好きみたいで・・・」
「フーン、そうなの」
「私と晶は幼馴染だったから、私が晶の大切な領域にズカズカと無遠慮に踏み込んでいたのかもしれません」
「まあ、ヒトは変わりたい時もあるでしょう」
「そうですね・・・」
「フフッ、宮森さん。ヒトって案外忘れっぽい生き物かもしれないよ」養護教諭の青紫の薄い唇が小さく歪んだ。
「・・・・・・ハイッ」華は小さく頷いた。
「アッ、もうこんな時刻。じゃあ、宮森さん、またね」中岡美奈子は左腕に嵌めている茶色いバンドの腕時計を見て言った。
「アッ、美奈子先生。失礼します」華は軽く頭を下げると、養護教諭は女子生徒の右肩を軽く二回叩いた。そしてニッコリ笑ってその場を離れた。
(美奈子先生、あんなふうに笑う人だったかな?)華は頭の中がこんがらがった紐みたいになって、すっきりしない気分がした。




