強盗未遂犯は男子高校生
「悪いわね、仕事が終わったあとで」野神室長は長い足を組み替えながらコーヒーカップに手を伸ばした。
「いえ、僕らも現場で起こった事件だったし、今後のこともあるので」勤は目の前に座っている野神室長を見ながら玲の言葉を思い出していた。(あたし、あの人、なんか嫌です)けれども隣に座っている玲はそんな素振りも見せずに、美味しそうにシフォンケーキを頬ばっていた。
「村上さん、美味しい?」
「ハイ! ロアノのシフォンケーキ、すごくおいしいです。野神室長は甘いもの苦手ですか?」
「そうなの、私は甘いものが駄目なの。どちらかというと辛党かな」
「じゃあ、お酒とか強そうですね」
「そうね、お菓子を食べるより白ワインとかの方がいいわ」
「ふーん」
「あなたは甘いものもお酒もどちらも大丈夫でしょ」
「いえいえ、あたしはお酒、あまり飲めなくて」
「そう?」
「はい、こちらの林田主任が知っています。主任、あたしお酒弱いですよね」
「あっ、ああ・・・そんなには強くないかな。ビール一杯で顔が真っ赤になるし」玲はにこやかな表情だったが蒼い瞳は笑ってなかった。
「あら、お二人はよく一緒に飲みに行くの?」
「ええ、まあ、あのあたしの仕事の相談とかのってもらうとか、その・・・」
「相談とかだったら、こんな喫茶店の方が話せるのでは?」
「僕がよく誘うのですよ。村上さんは現場のパートさんの様子とかお客さんの動きとかよく掴んでくれているので」
「そうねぇ、お話するには少しお酒が入った方がいいかもね。それにお二人はお似合いのカップルみたいだし」
「イヤイヤ、あたしなんか主任さんに悪くて」玲は照れくさそうに右手を振った。
「・・・・・・そう?」一瞬、周囲の空気が冷たくなった。店内に流れていたグレン・グールドのピアノの音が歪んだ。玲はそんな風に聴こえた。
勤は玲が野神室長を苦手にしているのか分かった気がした。(何か村上さんに似ている。でもそれは全く違った現れ方をしている・・・)彼はコーヒーを一口飲んで白いコーヒーカップを白いソーサーの上にもどした。「カチャ」という陶器と陶器が触れ合う音がした。
「さてっと、本題に入りましょうか?」野神室長は玲から目を離し黒革のバッグの中からクリアブックを取り出した。そのクリアブックからプリントアウトされた写真を数枚取り出して二人の前に置いた。そこには皺だらけで瞼が垂れ下がり歯の欠けた老婆が映っていた。それから壊れたサングラスをかけた血まみれの男の顔もあった。
「この男は昨日の強盗犯」
野神室長はそう言って二人の顔を交互に見た。勤はプリントアウトされた強盗犯の写真を手に取って凝視した。玲もその写真を見ようと勤の顔に自分の顔を近づけた。
「この男、若いですね」勤が不思議そうに言った。
「そう、近所の高校の三年生。それ程目立った感じの生徒ではないみたいだけど」
「高校生でも今はいろいろやってくれますからね」
「そうね、高梨香の件もあるし、ねえ村上さん?」
「ハイ」玲は小さく頷いた。
「それでその高校生の動機は分かったのですか?」
「それが、本人は全く記憶がないって。自分がなぜナイフを手に入れたのか、あんな格好をしたのか、そして強盗をしたのか」野神室長はゆっくりとコーヒーカップに紅い唇をつけた。生ぬるいコーヒーが彼女の口から食道を通っていった。玲はコーヒーが野神室長の体を通過する光景が見えるような気がした。
「マインドコントロールですか?」
「たぶん、そんな感じね、それからもう一人の写真を見てほしいの」
勤は老婆の映った写真を手に取った。玲も同じように老婆の映っている写真を手にとった。
「銀色の目をしていますね」
「そう」野神室長は頷いた。
「着物姿かぁ。珍しいなあ、久しぶりに見た」
「村上さんは何か気づいたことはない?」
「いえ、とくに何も」
「あなたはレジにも入っているから、このお婆さんを見たことあるのではないかしら?」
「いえ、見たことはありません」
「本当?」
「ハイ、本当です」
「そう・・・・・・」野神室長は胸の内ポケットからマールボロを取り出しライターで火をつけた。それから深く吸い込んで「フ―」と白煙を吐き出した。その白煙はほんの数秒間だけ三人の周囲を漂っていた。それから彼女はウエイトレスを呼んでコーヒーのお代わりを注文した。
「今度はアメリカンで」
「かしこまりました。アメリカンですね」若いウエイトレスは感情のない声で答えて厨房へ歩いて行った。
「まるでアンドロイドのようね」
「案外そうかもしれませんよ」勤はウエイトレスが歩いて行った方向に目を向けた。
「そうね。あっ、二人ともお代わりしたら?」
「あたしはいいです」玲はレモンティの入ったカップを両手で温めるように持っていた。
「あーっ、じゃあ僕はコーヒーをお代わりしようかな」玲は勤をチラッと見た。野神室長は小さく笑って呼び出しボタンを押した。アンドロイドと呼ばれたウエイトレスがやってきて、無表情のまま注文を聞いて去って行った。
「野神室長、この銀色の目をしたお婆さんが今回の事件に何か関係があるのですか?」
野神室長は黒い前髪を少しかき上げた。
「今のところ因果関係はないわ、今のところはね」
「そうですか」会話をしている二人は黙ってそれぞれのコーヒーを飲んだ。玲は硬直したように両手で持っているティーカップを見つめていた。
「ねえ、あなた達。このお婆さんの銀色の目について、何か知っていることはないかしら?」
「銀色の目ですか。うーん・・・」
「カラーコンタクトだとこんな感じになるじゃないですか」
「村上さん、そういうことを訊いているわけじゃないのよ」
玲は自分の周囲の空気の温度が数度下がったように感じた。
気がつけば玲の左ひざが勤の右足に当たっていた。勤は一瞬顔を動かさずに隣の玲を見た。彼女の顔には変化はなかった。勤の右腿に玲の左ひざが二回軽く当たった。
「とくに思い当たることはないです。野神室長、僕はちょっと用事を思い出したので、もういいですか? 村上さんも昨日の事件の後だし」
「そう? 村上さんはそんなことは平気だと思うけど。あなた達これからデート?」
「いやいや、そんなことないです」勤は慌てて否定した。
「フーン」野神室長は吸いかけの煙草をもみ消しオーダーの紙を持って立ち上がった。
「二人ともありがとう」そう告げると出口に向かって歩いていった。
野神室長の姿が見えなくなった。
「勤先輩、ありがとうございました」玲は勤の目を見ながら、あまり表情のない顔で言った。
「いや・・・」
「先輩、あたしも紅茶のお代わりしていいですか?」
「あっ、ああ」勤は慌てて首を縦に振った。玲は小さく笑い呼び出しボタンを押した。アンドロイドと呼ばれたウエイトレスが注文を訊きに来た。
「ホットミルクティを一つ」
「ホットミルクティ、お一つですね。かしこまりました」ウエイトレスは無表情のまま注文を確認し去って行った。BGMはシューマンのピアノ曲に変わっていた。数分後、同じウエイトレスが玲の前に紅茶の入ったカップを置いた。
「ごゆっくり」ウエイトレスはそう言い残して消えて行った。
玲はカップに砂糖とミルクを注ぎスプンでゆっくりかき回した。それからそっとカップにピンクの唇をつけた。
「フーッ」彼女は大きく息を吐いた。
「やはり昨日の事件を思い出すのは嫌かな?」
「ええ、それはあまり思い出したくないです。でもそれは、そんなに大したことじゃないです」
「じゃあ野神室長?」
「まあ、ええ、そうです」
「そんなに緊張するの?」勤は内ポケットからマイルドセブンを取り出しライターで煙草に火をつけた。
「でも確かにここのところ立て続けに大きな事件が続けているなぁ」
「はい」玲は白いティーカップを両手で持ってミルクティを一口飲んだ。そして大きく息を吐き出した。
「高広が言うには野神室長に変わってから大きな事件が起こり始めたって。大きな事件っていっても後藤課長と今回の件だけど」
「先輩、後藤前室長のときは大きな事件って起こらなかったのですか?」
「うーん、俺が入社してからは人が死んだ事件はなかったと思う。うちの店は今の時代では奇跡的に安全だって評価が高かった。勿論いろんなことはあったけど」
「はい・・・」
「裏で処理していたのかもしれない」
「そうですか」玲は眼鏡の紅いフレームを右の親指と人差し指で挟み上下に少し動かした。それから瞳を落として何事か考え始めた。そして何か思い出したようにクスッと笑った。
勤は右足に玲の左足が軽く当たる感覚を覚えた。
「ん?」
「先輩、先輩は狐のことを思い出さなかったのですか?」
「えっ?」
「ほら、岡野さんと香ちゃんと四人で遅くまでクロノで飲んだじゃないですか。それからあたしを送ってくれてタクシーから降りた時に狐に会ったでしょ」
「あっ、ああ」
「先輩、コーヒー冷めちゃいますよ」
「あ、ああ」勤は思い出したようにカップに口をつけた。コーヒーは玲が言ったようにすでに冷めていた。
「確かにあの狐の目は銀色だったなぁ」勤はそう言いながら腕を組んで考え込んだ。
「どうしました、先輩?」玲は俯き加減の勤の顔を覗き込んだ。
「いや、狐って絶滅危惧種だっけ? それがこんな街中に現れて、それも目が銀色って何か変じゃない」
「勤先輩、今はもういろんな境界が崩れているじゃないですか。だから、この前の夜のことも起きると思います」
「まあ、そうだけど、うん」勤はまた深く考え込んでしまった。
「でもあの狐は自然界に生息している感じもしたし、でも人工的な感じもした」
「ええ・・・・・・だから勤先輩はあの時言ったのですね。『可愛くない』って」
「そうだなぁ。俺、動物は好きだけど、あの狐は何か変な感じがした。うん。だからあんなこと言ったのかな」
「でもおかげで助かりました」
「助かった? 何が? 村上さん、あの狐が怖かったの?」
「ええ、そうですよ。とても怖かったです」玲はそう言いながら楽しそうに笑った。勤は玲がなぜ急に上機嫌になったのか分からなかった。