谷口孔は銀色のキーリングを右人差し指でグルグル回す
「永遠の時間軸を持った作品というものは、何回も味わうことが出来るものですよ」文芸部の部室には猪口教諭と渡辺美冬しかいなった。二人は楕円形の木製テーブルに備わった椅子に並んで座っている。
「美冬さん、僕が論じたカフカの『審判』に関する解説と評価は参考になりましたか?」猪口権はそう言うと右手に持っているペットボトルのカフェオーレをゴクゴクと飲んだ。新しい文芸部顧問に問われた美冬は少しだけ頷いた。
「いやぁ、あれほど長く語ると、さすがに喉が渇きますねぇ」現代国語を担当している教師は白いハンカチで、茶色く分厚い唇を拭いた。そして茶色の染みがついたハンカチを茶色のスラックスの左後ろポケットに入れた。それから右手で隣に座っている女子高生の左手を握った。
「・・・猪口先生」美冬は小さく息を吐きながら言った。
「んん? どうしました、美冬さん?」浅黒く四角い顔は楽しそうに笑った。
「いえ・・・・・・」
「しかし宮森さんは僕の話が終わると、どうしてあんなに焦って喫茶店なんかに行ったのかな? それに高梨君も宮森さんに付いていってしまって」
「先生もご存知でしょうが、ライトハウスの飯塚綾子さんが先週の金曜日からお店に来ていません。華はお店に来ていない綾子さんをとても心配していると思います」美冬は左手の生温い感触に戸惑っていた。
「ああっ、飯塚さんの淹れたコーヒーはとても不味かったからねえ」茶色のスーツを着た男は女子高生の細い指の間に自分の骨太な指を入れて絡ませようとした。少女の細い指はその体毛の生えた太い指が絡んでくることに抵抗した。だが結局は男の太く脂ぎった指が美冬の白い指の相に入り込んでしまった。
「フゥー」美冬は小さく息を吐いた。
「美冬さんはライトハウスには行かないのかい?」
「ええ、私は一度もライトハウスには行ったことはありません」
「ふふふっ、そうでしょう、そうでしょう。ライトハウスにはあの白石新次郎と内田南の場所があったからね。美冬さん、この意味、分かるでしょう? ヘヘヘッ」
「・・・・・・」美冬のオッドアイの瞳は、歪んだ笑みを浮かべている男の小さな茶色の眼を凝視した。
「いなくなった飯塚綾子は自分の築いた枠組みを頑なに守ろうとしましたからねぇ。彼女は自分の理解の及ばないものは見ないのです。知ろうともしない。あの白石新次郎が内田南にどんなに酷いことをしても、無かったことにする。そうすると本当に見えなくなるのですよ。ヘッヘッヘーッ、美冬さんにも分かるでしょう。あなたも僕が見えなかったのだから」美冬は細くくっきりとした眉を吊り上げ、左手に絡まっている白い指を男の湿り気のある武骨な指から解き離した。
「ほほぉー『男子、三日会わざれば刮目して見よ』ですか。面白いですよ、美冬さん。でもね、人間なんてそんなに変わらない生き物ですよ。ほらドストエフスキーが言っているでしょう。『生活から思想を学びとろうとする者など滅多におりません』ってね。僕は飯塚綾子にこのことを分からせようと、いろいろ教えてあげたのです。だけど彼女は駄目でしたねぇ。何も変わらずブヒブヒと快感に打ち震えて鳴いているだけでした」現代国語を担当している教師は悲しそうに嘆息した。
「人を変えようとして、あれ程の仕打ちをするのですか」
「ふーん、その銀色と紫色の瞳はいろんなことが観えるみたいですね。いいですか美冬さん、飯塚綾子は人間の形をした豚です。いろんなお仕置きをされてブヒブヒと喜んでいる変態豚でした。まあ僕に言わせてみれば殆どのヒトは豚ですよ」
「そうでしょうか?」新しく文芸部員となった少女は、頬を紅潮させ厳しい眼差しを隣の男の濁った小さな眼に向けた。
「村上春樹さんだって『人の傾向はそれほど変わらない』って言っていますよ」
「そうですか?」美冬の眼差しには冷ややかさも含んでいた。
「美冬さん、あなたは白石新次郎が死んでしまったので、自分が解放されたと思っているでしょう? へヘッ」猪口権はそう言うと四角い顔が黒紫色になった。その茶色く分厚い唇は笑っていたが、濁った茶色の小さな眼は底光りしていた。中年男の冷ややかな視線を受けた少女は下腹部に痒いような鈍い痺れを感じた。その体の変化に美冬は唇を噛んだ。
「人間の本質なんて変わらないのですよ、ホラッ!」文芸部顧問はそう言い放つと右手で少女の柔らかな左太腿を掴んだ。
「アッ!」美冬は左足が痺れ、その後全身に異様な痛みと快感が駆け巡った。彼女の全身は鳥肌が立ち痙攣した。
「っ先生・・・手を、離して・・・ください」痛みと快感に震えている少女の両手は太く短い右腕を掴んだが、その腕は微動だにしなかった。
「ほらね、美冬さん。下劣な白石新次郎が死んでも、あなたの本質は変わっていないのですよ」猪口教諭は女子高生の耳元で囁いた。
美冬はその言葉を聞いて奥歯を噛みしめた。(私は混沌なのだ・・・)頭の隅から自分の声が聞こえた。その声に彼女は戸惑いつつ納得もした。
「どうしました、渡辺さん?」混乱している少女の目の前に赤黒い顔があった。
「アッ、猪口・・・先生・・・?」美冬は目の前で心配そうな表情を浮かべている人間が猪口教諭と分かるのに数秒要した。
「渡辺さんはいつも人の話をしっかりと聞いてくれるので僕は嬉しいですよ。ついつい調子に乗って沢山お話してしまいました。渡辺さんも疲れたでしょう」
「エッ、いいえ」混乱した女子生徒は反射的に答えていた。
「・・・渡辺さん、先ほどカフカの『審判』の解説の中でも言いましたけど、人は基本的に他人の話を聞きません。聞いたふりをしているだけで何も頭に入っていません。それよりも自分が話したくて仕方がない。『審判』の登場人物もそれぞれ自分の言いたいことだけ言って他者の話を聞かず徐々に世界がずれていきます。そこがとても面白いのですが」
「ええっ・・・」美冬は曖昧に頷きながら猪口教諭の言葉を待った。彼女はそんな自分に違和感を覚えた。
「渡辺さん、この世界は誤解の上に成り立っているかもしれません。でもあなたのように、自分の考えを横に置いて、真摯に人の話に耳を傾ける人こそ聡明な人間だと僕は思いますよ」文芸部顧問は上機嫌だった。
「・・・ありがとう・・・ございます・・・」無意識に礼を言った少女は目の前に笑っている男の分厚い唇を見た。その唇の隙間から白っぽい舌が見え頑丈な白い歯が見えた。そして丸く小さな鼻は図鑑で見た豚を連想させた。大きく下に向かっている濃い眉毛はいつもペコペコ謝っている人間に不可欠のものだった。嬉しそうに目尻が盛り上がっているので、その小さな茶色い濁った眼は少ししか見えない。その茶色く濁った眼は侮蔑の色に染まっていた。美冬の左隣に座っている男の眼には、その感情しか存在していない。
「おや、もう六時を回っている。渡辺さんも早く帰りなさいよ」猪口教諭は腕時計を見てそう言うと部室を出て行った。美冬は茫然と座っていた。彼女の頭の中には何の言葉も何の風景も浮かばなかった。
「・・・・・・ッコンコン」出入口ドアを軽く叩く音が響いた。
「ハイ!」美冬は弾かれたように答えた。
「もう七時だよ、渡辺美冬さん」木製の片開きドアが開くと鍵束リングを持っている谷口孔が立っていた。新任教師は茶色のカジュアルシューズ、アイボリーのチノパンツ、水色のシャツ、紺色のブレザーという出で立ちだった。美冬は孔の姿を見て自分の体が弛緩していくのを感じた。そして左手首に巻いてある腕時計を観ると、その短針は7を刺していた。
「アッ、本当だ。すみません、遅くまで居残っていて」文芸部の女子高生は慌ててデイバッグを背負い、テーブルに置いてあった部屋の鍵を取った。
「いいよ、いいよ、そんなに焦らなくても。時間なんてあって無いようなものだから。んん、美冬さん、何かあったのかな?」孔は銀色のキーリングを右人差し指でグルグル回していた。
「エッ、いえ、大丈夫です・・・」
「そう・・・、何か疲れた顔していたみたいだけど」新任教師はまだキーリングを回している。
「ちょっと猪口先生のお話が長くて、それを熱心に聞いたので少し疲れたのかもしれません」美冬は照れくさそうに答え、孔のいる場所まで移動した。そして彼女は腰を少し落として右手で部室に鍵をかけた。
「なるほど、猪口先生は文芸部の顧問をやりたかったからね。あっ、美冬さん、僕がその鍵を職員室まで持っていこうか?」
「ありがとうございます。でも、自分の責任でちゃんと鍵を返したほうがいいと思うので」
「偉いねぇーっ、さすが美冬ちゃん。おっと、美冬さんだよね」
「いえいえ、どちらでも良いですよ」美冬は可笑しそうに笑った。
「いや、やっぱり僕もこの城北高校の教師だから、ちゃんとせねばならん。美冬ちゃんと呼びたいけど渡辺さんと呼ぶことにしよう」孔はそう言うと一人で納得したようにウンウンと何度も頷いた。彼の隣にいた少女は新任教師の仕草にまたもクスクスと笑った。
二人は肩を並べて職員室に向かって歩き始めた。
「孔さん、あ、ごめんなさい。谷口先生は今日でこの高校、二日目ですね?」
「ふふふっ、孔でいいよ、渡辺さんだったら」
「いえ、そんな・・・。私もちゃんとしますよ、谷口先生」
「うーん、渡辺さんに先生と呼ばれると、僕もちゃんとした教師になった気がするなぁ。渡辺さん、もう一回谷口先生って呼んでくれるかい?」
「フフッ、いいですよ、谷口先生。谷口先生はお仕事、忙しいですか?」
「いやぁー、良いねぇ。ウンウン、仕事の方はやはり慣れていないからね。それなりに緊張するし、まだ分からないことも多い。でもさ、阿沼主任って酷いんだよ。新任の僕に校内見回りを担当させるのだから」
「アッ、そうですね」美冬は先ほど孔が文芸部室に来たことに納得して苦笑した。
「んん、どうしたのかな、渡辺さん?」
「いえ、何でもありません。でも谷口先生、新任二日目で校内見回りを任されるって大変ですね」
「そうだよ。僕がこの高校の卒業生だから勝手知ったる我が家だろうって、阿沼主任は嬉しそうに言うのさ。谷口先生、君は白石先生の後任だし、じゃあ、まかせたよーってね。僕は授業の準備もしなきゃならないのに、酷いことない? 美冬ちゃんっ・・・じゃなくて渡辺さん」
「フフフッ、そうですねえ。でも谷口先生ならスイスイって上手く役割を果たすことが出来ると思いますよ」
「いやぁーっ、そうかなぁ。渡辺さんに言われると、その気になっちゃいそうだよ。アッ、ところで渡辺さん、美術部って雰囲気変わったかな」
「そうですか・・・」美冬は少しだけ首を右に傾げた。
「確か今年一年生が一人、美術部に入ったよね?」
「ええっ、真壁褾さんです」
「普段は電動車椅子に乗っている女子だよね。それからもう一人は飯塚守君か・・・。ふーん」
「谷口先生、美術部の人たちもまだ部室に残っていたのですか?」
「いやいや、もう部室には誰もいなかったよ。僕が部屋を確認する前も施錠はされていたし。まあ美術部もちゃんと活動しているみたいだし」
「無人の部室でも、活動した名残は存在するのですか・・・。谷口先生は繊細な感性をもっていらっしゃいますね」
「まあ僕ぐらいになれば当然ですよ。あっ、僕の母親がAFZで明日から絵画展をやるって言ってて、その、えっと、城北高校の美術部からも出展するってチラッと聞いたことはあるけど」新任教師は左手で短髪の頭を掻いた。
「フフッ、そうですか。それでこの間、美術部の人たちは頑張って遅くまで絵を描いていたわけですね」
「ありゃー、美冬ちゃんは絵画展のこと知っていたの? おっと渡辺さんは・・・だね」孔は黒い瞳を大きく開いて隣の女子高生を見て両手で口元を押さえた。
「平山先生を含め、美術部のみんなは何かに向かって集中している雰囲気がありましたから。それに谷口孔先生、そんなに名前に拘らなくて良いですよ」美冬は眼を細めて眩しそうに孔を見た。
「あちゃー、エリックが参るわけだ」
「エッ?」
「いやいや何でもない、何でもないよ。ところで渡辺さん、AFZの絵画展には行くのかな?」
「ハイ、行くつもりです。私、実は絵が結構好きで、有名な画家の作品が乗っている本も観ていたりしています。それに美術部の人たちの作品も観てみたいですし」
「そうか、渡辺さん。それならばエリック・ハーバート君も絵画展に誘ってよ。意外なことに彼も絵が好きみたいだから」
「エッ、エリックも絵に興味があるのですか? 分かりました、じゃあ誘ってみますね」
「うん、よろしくね」
孔が左にいる美冬を見て前を向くと、目の前に職員室の出入り口引き戸があった。彼の眼にはその木製の引き戸がいきなり現れたように感じた。(僕はゆっくりと歩いていたと思っていたが・・・)谷口孔は僅かに右の口角を上げながら渡辺美冬と職員室に入って行った。




