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黒い鳥の世界  作者: 西野了
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居場所を無くした者

 宮森華はライトハウスのカウンター席で難問を解いているような顔をしていた。彼女の目の前にある白いコーヒーカップには少しコーヒーが残っていた。

「宮森部長、やはり飯塚綾子さんが心配ですか?」華の右隣に座っている高梨尊が覗き込むように少し首を捻り小声で訊いた。

「うん、やっぱり先週のことがあったし。それから綾子さん、金曜日からライトハウスに来てないでしょ。まだ今日は月曜日だけど・・・」城北高校の文芸部長も声を潜めて答えた。そしてカウンターの向こうにいる内田南を一瞬見た。この店に一人だけいるスタッフは白い布で丁寧にグラスを磨いていた。

「ツーツー」尊がストローでオレンジジュースを飲み干す音が華の耳に届いた。

「尊君はオレンジジュースが本当に好きだね」

「部長、ライトハウスのオレンジジュースは瑞々しくて美味しいですよ」

「君がオレンジジュース好きだなんて、ちょっと意外だなぁ」

「僕はジュース全般が好きですよ」尊は照れていた。

「エッ、じゃあ私と一緒の時、コーヒーとかカフェオーレを飲むの、無理してたの?」

「アッ、いや、コーヒーも嫌いじゃないですよ」

「ふーん、そうなの」華は珍しくクールな後輩が慌てたので、彼女の頬が緩んだ。

「ところで宮森部長、今日の猪口先生は張り切っていましたね」尊も一瞬だけカウンターの向こうにいる南を見た。

「そうだね。猪口先生、いきなり部室に来て、尊君の家でやったカフカの検討会のことを熱心に訊くから、私は驚いちゃった」華はそう言うと冷めたコーヒーを飲んだ。そして「南ちゃん、ごちそうさま」と言ってコーヒーカップとソーサーをカウンター奥の南に手渡した。「あっ、すみません」内田南はそう言って常連客からコーヒーカップとソーサーを受け取った。それから華は尊のグラスと白いコースターも南に手渡した。

「部長、ありがとうございます」

「いえいえ」華は嬉しそうに答えた。

「お二人でこの店に来るのは初めてですね」南はコーヒーカップを洗いながら言った。

「えへへへーっ、そうなの。南ちゃん、秘密だよ」

「あら、そうですか? お似合いのカップルですよ」華は南の返答に驚いた。南はグラスを洗いながら華を見た。

「あのさ、南ちゃん。やっぱり綾子さんとは連絡がつかなかったの?」華は南の緑の瞳に引き込まれるように訊いてしまった。

「はい、金曜日から何度も綾子さんに電話しているのですが通じません。私の方にも綾子さんからお店を休みという連絡は入っていないし、学校にも何も連絡はありません」

「こんなことは始めてだよね」華は両腕を組んで眉間に皺を寄せた。

「はい・・・」この店のスタッフはそう言いながら尊が使ったグラスを丁寧に白い布で細かく丁寧に拭いていた。

「あ、あのっ・・・・・・、アッ」華は南に言いたかった言葉が喉の奥に引っ込んでしまったので、内心驚いた。

「エッ?」南は不思議そうな表情を浮かべた。

「あ、もう六時だし帰るね。ねっ、尊君」尊は静かに頷いた。

「分かりました。華さんのホットコーヒーが五百円で高梨君のオレンジジュースも五百円です」二人の文芸部員はデイバッグを背負った。そして、それぞれお金を払い、一人だけいるライトハウスのスタッフに挨拶をして店を出た。それから正面玄関までの通路を並んで歩いた。華はシューズボックスから外出用の茶色いローファーを取り出して上履き用の白いスポーツシューズを脱いだ。脱いだスポーツシューズをシューズボックスに入れローファーを屈んで履いた。華が立ち上がると目の前に尊がいた。

「宮森部長、先ほどライトハウスの内田さんに何か言いたかったのでは?」尊の口調はいつものように落ち着いていた。

「えへへっ、尊君、分かった?」

「はい」華の一年後輩は微笑んだ。

「あのね、綾子さんのこと、弟の守君に訊いてみようかなって、南ちゃんに言うつもりだったんだ。でも、何故か言いそびれちゃった。うーん、どうしてかなぁ・・・」

「おそらく、宮森部長は飯塚綾子さんのことを、今のライトハウスで言うのは、適切でないと感じたのでは?」尊は先程までいたライトハウスの情景を思い出しながら、自分の言葉を華に伝えた。

「アッ、そうそう。そうなのよ。何か南ちゃんの前で綾子さんことを話すのは、今のライトハウスでは良くないことのように感じちゃったんだ。でもそれって変だよね。何故かな」華はピンクの唇を尖らせ、くっきりした黒い眉を寄せて考えた。

「そうですね。あれっ?」

「んん、どうしたの、尊君」尊と華の視線の先には東側にある学生会館からこちらに向かってくる真壁褾と飯塚守の姿があった。小柄で白い髪の少女は左手でワインレッドの四点杖を扱いながら歩いていた。彼女は四点杖を使っていたが滑るように通路を移動している。そして守は人が乗っていないワインレッドシートの車椅子を押していた。

「こんばんは、っかな? 守君、真壁さん」華の挨拶は安堵の色が含まれていた。

「こんばんは、宮森さん、高菜さん」褾は真っ直ぐ華と尊を見て言った。

「・・・・・・」守は小さく頭を下げた。彼の長い黒髪が灰色の瞳を覆った。

「部活、終わったのね?」華は褾を見ながら訊いた。

「エエ、今日はAFZで開かれる絵画展に私たちの作品を平山先生と持っていきました」

「アッ、そうなの。今年もAFZで絵画展やるんだね。楽しみだなぁ」

「宮森さんはAFZの絵画展、毎年観に行かれているのですか?」褾のソプラノが華の耳から体の隅々まで染みわたっていく。

「ウン、毎年行ってるよ。私、守君の絵のファンなの。ねっ、守君?」

「あっ、その・・・」守は華と褾の視線を感じ俯いた。

「守君の絵を最初観たとき、何か暗い色がぐちゃぐちゃ塗り重ねていて、『何じゃ、こりゃ?』って思った。アッ、守君ゴメンね。でも私、守君の絵から眼が離れなくてなって、そのうちに、その絵から薄っすらと光が見えたの。『ワーッ、凄い』って感動したんだよ」

「私も飯塚さんの絵が好きです」美術部の一年生は瞳を閉じた。

「真壁さんも守君の絵から光を感じたの?」華は同意を求めるように訊いた。

「いえ、私は飯塚さんの絵から更なる闇の深さを感じました」

「エッ、そう・・・?」守は驚いて隣の美術部員を見た。褾を見ていた尊は華の方に視線を移した。

「ふーん、なるほどぉ。真壁さんはそう感じるのかぁ・・・。面白いねぇ」華が楽しそうに微笑んだので、褾は一瞬驚いて小さく笑った。

「真壁さんも自分の絵を出展するのでしょ?」華の黒い瞳には強い光があった。

「はい、なんとか絵画展に間に合うように頑張りました。ぜひ私の絵も観てください」

「もちろん観に行くよ。楽しみだなぁ」そこまで言うと華は尊の視線を感じた。彼女は尊を見て小さく頷いた。

「あのね、守君・・・。そのぉ・・・、綾子さんのことを訊いていいかな?」華は前髪が半分覆っている守の灰色の瞳を見た。

「いいですよ。真壁さんにも話したし・・・」

「あっ、そう。そうなの・・・」華は右隣に立っている尊をチラッと見た。そしてまた守を見た。

「姉は先週の金曜日からマンションに帰っていません。街から出て行ったと思います」

「そう・・・・・・」華は守がこれ程言葉を繋げて話したことを聞いたことはなかった。だが彼の言葉は説得力があった。

「守君はどうして綾子さんがこの街を出て行ったと分かるの?」

「姉にはこの街に居場所がなくなったから・・・」先ほどとは違い、この守の声は縛り出すような響きがあった。

「綾子さんには居場所が無くなったの・・・」華は守の言った言葉を繰り返すことで、その言葉を飲み込もうとした。何度も何度も彼女の脳裏の中にその言葉は繰り返し流れた。(ああっ、ライトハウスも綾子さんの居場所じゃなくなって、南ちゃんの店になったのか・・・。だから今のライトハウスで綾子さんのことを話すことができなかった)華はそう思ったが、自分の胸に何かが引っかかっていた。彼女は守の言葉に頭では納得していたが体は納得していなかった。

「じゃあ、宮森さん、高梨さん、失礼します。・・・飯塚さん、お願いします」褾の声を聞くと守は車椅子を白髪の少女の背に回した。褾はゆっくりとワインレッドのシートに腰を下ろした。そして伸縮用の四点杖を短くして、それを車椅子の後ろのポケットに入れた。

褾の作業が終わると守はゆっくりと車椅子を前に勧めた。

「あっ、さよなら」車椅子に乗った褾と守が華の目の前を通り掛かったとき、華は反射的に二人に声をかけた。その声を聞いて褾は一瞬、華を見た。その鳶色の瞳は何の感情も表われていなかった。

 華と尊は美術部の二人が正面玄関を出ていくまで、その場で彼らを見送った。


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