街の外で飯塚綾子は老婆と語る
綾子は暗闇の中を足早に歩いた。ライトハウスに入り灯りを点けた。店内には灰皿も食パンの残りもなく整理整頓されていた。この店の女性店主は厨房奥にあるスタッフルームのロッカーから灰色のジャケットを取り出し、それを身につけた。ジャケットはカラダに対して少し余裕があるように感じた。それから厨房から店内を見回した。店内の小綺麗さに彼女はよそよそしさを感じた。暗闇に慣れた彼女の眼にはここが以前とは違う場所のように映った。
(この店はまるで、あの偉そうな白衣を着た女のいる休憩室みたいだ)ライトハウスの店主は灯りを消す前に壁に掛かっている丸い時計を見た。時計の針は九時三十分を指していた。彼女はゆっくりと茶色の木製ドアを閉め施錠した。「カチャ」という音がした。
飯塚綾子は職員室前玄関の靴箱までの通路を踏みしめるように歩いた。足の裏全体に冷たく固い感触を味わいたかった。暗闇の中、職員用の靴箱には様々な靴が並んでいた。彼女は自分がいつも使っている靴箱にこれほどたくさんの靴があるとは知らなかった。暫くの間、靴箱に並んである靴を一つひとつ丁寧に見た。(こんなにたくさんの職員がこの高校にいたの・・・)靴箱に並んである靴を見終えると、腰を屈め藍色のカジュアルフラットシューズを取り出した。そして今まで履いていた室内用の薄茶色のカジュアルシューズを靴箱に入れた。外出用のフラットシューズは少し大きく感じ彼女の足の大きさには合っていないようだった。彼女はグラウンドを歩いて横切り正門から出て行った。
城北高校の正門を出ると綾子は何も考えずに歩き続けた。彼女は自分自身に無関心になっていた。大きなアスファルトの道路の脇にあるコンクリートの歩道を歩き続けた。歩き疲れるとコンクリートの歩道に腰を下ろした。空を見上げたが何も見えなかった。周囲を見渡すと所々に街灯の薄い光があった。彼女は再び歩き始めた。歩いても歩いても前に進んでいる感覚はなかった。周囲の風景は変わっているのか同じなのか分からなかった。ただ彼女は足を交互に前に出し続けていた。大きなアスファルトの道路を走る去る自動車も無く、歩道を行き交う人もいなかった。綾子はこの重く黒い雲に閉ざされた世界の中、一人だけで歩き続けていた。
「・・・・・・ひとり・・・」歩き続けている女は呟いた。
(『飯塚綾子さん、この世界では結局、ヒトは誰もが一人で生きていかねばならないのですよ』)落ち着いた低い声が聞こえた。その声は綾子の体によく染み入った。彼女の中に凝り固まった記憶の塊がひび割れた。
(華ちゃんの隣にいた男子は・・・高梨君・・・)綾子はいきなり高梨尊の顔が脳裏に浮かんできた。黒く深い輝きのある瞳 すっと通った高い鼻 厚いが上品な紅い唇 少し巻き毛の黒髪。
(高梨尊・・・。彼と話したことはなかった)記憶が途切れては瞬間的に再生し混濁している。綾子は自分の脳が上手く機能していないと思い、また考えることを止めた。歩き続けていると両足の感覚が無くなっていた。自分の体が勝手に移動していた。気がつくと街灯は見えなくなった。
「ゴーッ」前方から一台の長大なトレーラーが眩しい光を放って歩いている女の横を走り過ぎて行く。
綾子はいつの間にか街を出ていた。舗装された大きな道路以外には荒れ地しかなかった。大きなアスファルトの道路は真っ直ぐ伸びていている。歩き続けている女はその道路が何処にも繋がっていないような気がした。何処にも辿り着けない道を自分は歩き続けているのかと考えた。空も空気も荒れ地も墨色だった。道路だけが墨色に近い灰色に見えた。ふと気がつくと前方に小さな光があった。変わらない速さで歩き続けている女の眼にその光はぼんやりとしていたが徐々に大きくなってきた。その薄い光は三台の自動販売機が発していた。自動販売機の前にはベンチがあった。そのベンチの端に藍色の和服を着た老婆が座っていた。
「こんばんは」老婆のしゃがれた声が飯塚綾子の耳に届いた。耳障りな声だと綾子は感じたが、彼女はベンチの端に腰を下ろした。
「良いお天気でございますねぇ」老婆はベンチのもう片方の端に座っている綾子を見ずに、またしゃがれた声をかけた。綾子はその声に応えずにベンチから立ち上がった。三台の自動販売機の真ん中にある台の前に移動した。そして三台の自動販売機に収納してある飲み物を左から一つひとつチェックし始めた。全ての飲み物をチェックし終えると、彼女は向かって右にある自動販売機の上の右隅にあるボタンを押した。「オール・オブ・ミー」の最初のフレーズの電子音が鳴り、スポーツドリンクのペットボトルが取り出し口に「ゴトン」という音とともに転げ落ちた。綾子はそのペットボトルを取り出してベンチに置いた。そしてセカンドバッグから錠剤の入っている紙袋を取り出した。彼女はその紙袋を無造作に破り、二十錠の薬を口の中に入れた。それから「バリバリ」という音を出しながら薬を噛み砕き、それらを飲み込んだ。最後にペットボトルのスポーツドリンクを一気に全て飲み込んだ。「フーッ」という安堵したような息を吐くと、彼女の体の奥から全身に拡がっていく波動を感じた。その波動が全身に行き渡ると、綾子はジャケットも靴も自分の体にフィットしたように感じた。そしてまたベンチの端に座った。
「ヒャヒャヒャー、あなた様はまるでライオンか虎のようですね―ッ、ぐえっほぐえっほぐえっほ」老婆は嬉しそうに手を叩きながら上体を前後に揺らした。
「ライオン? 虎?」
「おやおや、あなた様はライオンや虎をご存じないのですねぇ。お若い証拠ですわ、ヒッヒッヒッ。ライオンや虎は獰猛な動物でヒトすら襲って食べてしまいます、バリバリバリっと音を立てながら。残念ながら今はもういませんが、ヒッヒッヒッ」
綾子はベンチの端に座っている老婆の顔を見た。瞼が垂れ下がって目の半分を塞いでいた。しかし塞がりかけた眼からは銀色の光が放たれているように見えた。皺だらけの唇が何かを咀嚼しているのか不規則に動いている。
「お婆さん、この道の先には何があるか知っている?」
「あなた様はこの先へ行くおつもりですか?」
「分からない・・・・・・。たぶん行くと思う・・・」
「この先には工場や施設があるかもしれません。それとも他の街があるかもしれません。ひょっとしたら、ヒヒヒーッ、何も無いかもしれません、ヒヒッ」
「何もないかもしれない・・・、そう・・・」綾子は目の前の荒れ地を見た。のっぺりした黒い空間の下には奥行きのある大地が存在しているように思えた。
「何も無いということは全てがあるということかもしれません」老婆の声は綾子とって先ほどよりは耳障りではなくなっていた。
「何も無いってことは、これから何かが生まれるってこと?」
「さあ、どうでしょうか。ぐえっほぐえっほぐえっほ」その声は笑っているようでもあり、答えているようでもあった。
(私は違う・・・)歩き続けてきた女は疲れを感じていた。そして彼女はこれまで歩いて来た道を見て、それから反対方向を見た。
「これから先に行かれますと、あなた様はおそらく・・・もう街へ戻ることは出来ないと思われます」老婆は眼を閉じて言った。
「街か・・・・・・」綾子は疲れ切っていた。彼女は立ち上がり老婆の前を横切ろうとした。その時、老婆は小さく笑い、小さな眼が鈍く光った。
「あなた様はお薬を食べておられますが、おいしゅうございますか?」
「・・・・・・クスリ?」綾子は老婆の言っている意味が分からなかった。
「先ほど、バリバリバリとお薬を嚙み砕いておられました。ライオンか虎のように。ヒヒヒーッ」老婆は笑うと口の左端から涎がツーッと落ちた。彼女は懐から白い手ぬぐいを取り出し、それで口元を拭いた。そして唾液を確認するかのように手ぬぐいを見て、それを畳んで懐へ入れた。
「薬は食べているんじゃない。摂っているだけ・・・」
「摂取されているわけですねぇ、ヒャヒャヒャー。合理的なお方ですなぁ」
(なぜ、料理されたモノを食べなくなったのだろう?)綾子はベンチに座っている小さな老人を見た。それからゆっくりと空を見上げた。空には何もなかった。
(「綾子さん! 雲が割れて、たくさんの星が現れたよ。銀色や紅いのや、それから青い星もあった。金色に光っているのもあったかなぁ。たくさんの星が集まって大きな河みたいになってねーっ。それって天の川銀河って呼ばれているんだよ。私、昨日の晩、凄いのを見ちゃった! 綾子さんは見たかな?」)宮森華は頬を赤くして興奮しながら話しかけてきた。その黒い瞳には小さな星がいくつも宿っていた。
(私はそんなもの、何も見たことはない・・・、いや、見ることが・・・出来ない)距離感のない黒い空を見上げている女は、頬に何か冷たいものが流れていることに驚いた。それは彼女の眼から流れている涙だった。綾子は悲しいのか淋しいのか悔しいのか分からなかった。だが涙は止めどなく流れていた。
「何もない・・・・・・」
「ハイ、何もございませんねぇ」街を出てきた女は老婆の声を聞くと悲しくなった。しかし涙は止まっていた。
「お婆さん、雲が割れたことを見たことがある?」
「はい、ございます」
「何を見た?」
「雲の合い間には星がたくさん輝いておりました」
「キレイだった?」
「ヒッヒッヒッ、星の光はこの老人の眼には眩し過ぎましたねぇ。この美しい瞳が強い光で潰れてしまうかと思いましたわい、ヒッヒッヒッ。ゲホゲホ」老婆は意地悪く笑った。
「ふーん」綾子はつまらなそうに老婆の顔を見た。老婆の瞼は上がり鈍く光る銀色の眼は大きく飛び出ているようだった。
「空が割れて天の川銀河が巨大な竜のように、のたうっているようでした。ヒャヒャヒャ―、その光景は美しいとも言えますし、恐ろしいとも言えます」
「恐ろしい?」綾子は銀色の眼に吸い寄せられるように訊いた。
「お若い方。ある意味、この世界は閉ざされてしまったと考えるほうが良いのかもしれません。少しずつ世界が終わりに向かっている・・・。その流れに身を委ねる方が自然でしょう、あなた様のように。ぐえっほぐえっほぐえっほぐえっほぐえっほ」老婆は銀色の眼を見開きながら、小さな体を揺らし発作のように笑い続けていた。
綾子は老婆の飛び出た銀色の眼を見つめていた。その眼は宮森華の黒い瞳と違っていた。だがベンチの前に立ち尽くしている女は老婆の飛び出た丸い銀色の眼を見続けていた。
いつか綾子の頭の中に青白い光の帯が走り出していく感覚があった。それは巨大な彗星の尾のようにも見えた。
(あの背の高い人。彼が私をここまで連れてきたのか? 「あなたは『ロアノ』が求めている人だ』あの男は何を言ったのだろう・・・・・・」高校を卒業してロアノで働き始めたのは、あの男が誘ったからだった。彼女は喫茶店のウエイトレスとして働くことなんて考えたこともなかった。それでもロアノで働き続けた。(何年間、ロアノで働いたのだろうか? 四年・・・五年・・・。分からない)綾子は老婆の飛び出た銀色の眼を見つめ続けていた。老婆の飛び出た眼は瞬きもしなかった。時間が止まっているようだった。道路を走り去るトラックもトレーラーもなく、風さえ吹かなかった。
(母がいなくなってから食事をとらなくなってしまった)綾子が働き始め、暫く経って彼女の母親はマンションから居なくなっていた。その当時、弟の守は困ったような顔をして姉を見たことがあった。綾子は母の不在をどう捉えてよいのか分からなかった。ただ綾子達が暮らしているマンションの食卓には母の手料理が出なくなった。それから綾子は弟とも父とも殆ど会うことがなくなった。
「お若い方。あたしが天の川銀河を見たとき、傍には『時の娼婦』のような方がおられました・・・」
「時の娼婦?」
「はい、その方はいろんな殿方に抱かれることによって、自分の時間を殿方に分け与えておられたのです」老婆は眼を閉じて語っていた。
「・・・・・・」
「あなた様を見ると、その『時の娼婦』を思い出しますよ、ヒヒッ」
「私は・・・そんな人間じゃない・・・・・・」綾子はその場から離れたかった。けれども体が動かなかった。
「私はただの傍観者だ、いや傍観者ですら、ないのかもしれない」その言葉は綾子の口から勝手に出た。
「ほう、あなた様は傍観者でいらっしゃると。ヒヒッ、お若い方。そこに居るだけで人様のお役に立てる場合もございますよ。ヒヒヒーッ、ヒャヒャヒャー、ぐえっほぐえっほぐえっほぐえっほ!」老婆は大きな咳をしているように、皺だらけの顔を歪めた。
(そうなのか?)綾子は老婆から視線を外し、ぼんやりと目の前に自動販売機を見た。その自動販売機にはたくさんの種類の缶コーヒーがあった。そして数種類のハイボールもあった。
(誰がこの場所でハイボールを飲むのだろう?)綾子は先ほどスポーツドリンクを探していた時、缶コーヒーの種類の多さに気づかなかった。その時はただスポーツドリンクを見つけるために他の飲み物には関心が向かなかった。
「お若い方、ビールを飲まれますか?」
「いや・・・」カフェの店主だった女はビールを飲みたいと思わなかった。
「そうですか。あたしはたくさんお話させて頂いたので喉が渇きました。ビールを一つ頂きましょうか、ヒヒヒーッ」
老婆はベンチから杖を突いて立ち上がると、のそのそと足を引きずるように歩き始めた。三台のうち一番街の方向にある自動販売機の前に行くと、彼女は迷わずに自分の眼の高さにあるボタンを押した。「スモーク・オン・ザ・ウォーター」の電子音が流れた。すると「ガタン!」という音と共に取り出し口に缶ビールが転がり落ちてきた。老婆は左手で持っている杖で体を支え、腰を少し曲げ右手で缶ビールを取り出した。そしてベンチを一周回るように元の場所に戻り、ゆっくりと腰を下ろした。
「ウヒャー! よく冷えたビールでございますぅ」老婆は缶ビールを垂れた右頬に付けて叫んだ。綾子は老婆の一連の動作が人間以外の動物がウロウロ徘徊しているように見えた。老婆は綾子の冷たい視線を気にすることもなく、ステイオンタブを引き開けビールを体内に流し込んだ。「ウグウグウグ」という液体を飲み込む音とともに、皺の無い喉仏が上下に動いている。
綾子はマンションの食卓で缶ビールを飲んでいる自分の姿を思い出した。毎晩、大量のビールを飲んでいたのに次の朝には食卓にはビールの空き缶はなかった。母がいなくなっても、その状況は変わらなかった。ベランダにビールの空き缶が入れられている透明のゴミ袋があった。綾子はその作業を弟がしていると気づいた。そう思うと姉は弟の几帳面さを気味悪く感じた。弟が自分の飲んだ缶ビールを水ですすぎ、それを乾かし指定された透明のゴミ袋に入れる。そして透明のゴミ袋の口をちゃんと結ぶ。綾子は守が行った作業に嫌悪感を抱いた。
(もう・・・、行こう)綾子は歩道をゆっくりと歩き始めた。
「おや、もう行かれるのですか?」綾子が振り返ると老婆の座っている脇にビールの空き缶が一個あった。そして老婆の右手には飲みかけのビールの缶があった。
「お若い方、その道を歩き続けられるのですか? 道を外れて荒れ地を歩かれるのも一興だと思われますよ、ヒャヒャヒャー」老婆の眼の光が強く増したように見えた。
(守が嫌いだ。弟でも気持ち悪い。私は猪口先生も東山校長も内田南も嫌いなのだろう。どいつもこいつも愚鈍な奴ばかりだからなぁ)歩き始めた女は急に激しい怒りに囚われてしまった。
(私の住んでいた場所は愚か者ばかりが蠢いていた。そんな無意味な世界に生きている意味はない・・・・・・多分、そうだ・・・)綾子はそう思うと急に怒りの熱量はなくなった。彼女は機械的に足を前方に交互に出して、自身の体を前に進めていた。
(道を外れる・・・? 道なんて、もともとあったのか・・・)綾子の頭の中に老婆のしゃがれた言葉が残っていた。
(生活から思想を学びとろうとする者など滅多におりません!)また綾子の脳裏に理不尽な暴力をふるった男の声が響いた。しかし虐待された女は何故か猪口権の声に誠実な響きを感じたのだ。
長大なトレーラーの青白いヘッドライトが暗闇を切り裂くように放射されている。綾子の足の裏には乾いた土の感触があった。彼女はへたり込んだ。そして両手で見えない土をまさぐるように確かめた。掌には小石が引っかかるような感触もあった。へたり込んだ女は両手で土を掬い自分の前に落とした。腰を左に捻って土を掬い、その土を目の前に落とした。そして今度は右に腰を捻り見えない土を掬い、その土を目の前に落とした。彼女は目の前に土の小山を作りたくなっていた。その小山が大きくなれば、自分の役に立たない眼でも、積み上げた土の小山を見ることができるのではないかと思った。彼女は暗闇の中「ザーッ、ザーッ」という音を鳴らしながら同じ作業を繰り返していた。




