飯塚綾子の欲しいもの
飯塚綾子は暗いライトハウスのカウンター席に座っていた。自分の手元も見えないほど闇は濃かった。(『猪口先生、私はいったい何者なのでしょうか?』―何故あんなことを猪口権に訊いたのだろうか・・・・・・)
「ジジジジッ」右手に挟んだマールボロの巻紙の燃える音が微かに響いた。マールボロから立ち昇る白煙は見えない。
綾子は自分の記憶が曖昧になっていることに関して不安や怖れ、そして感興すらもなかった。(なぜ猪口権や阿沼学はわたしのことを詮索するのだろう? マグカップを三個壊したって、それがどうしたっていうの。マグカップなんて何時かは壊れるだけじゃない。どうせこの世界は壊れてしまうのだから・・・・・・)
ライトハウスの女性店主はマールボロを口に咥え深く息を吸った。苦く甘い香りが喉の奥に沁み渡る。
「世界は終わる・・・・・・」綾子は自分の言葉に納得した。(出会った人間は意味の無い奴ばかりだった。だから私は誰の名前も憶えていないのだ)
「フーッ」ため息のような深い息が出る。顔や艶やかなブラウスの襟の辺りがビール臭い。綾子はこれまで生きてきた時間が一瞬のように飛び去って行ったのではないかと思った。
「ゼロだ。何もない」彼女はその言葉に途方もなく大きな存在感を覚えた。猪口権から受けた理不尽な暴力の痛みと異様な快感も今は消え去っている。
(『綾子さんはお客と話をするのが上手いと言うことですよ』)阿沼学の冷ややかな笑顔が綾子の脳裏に浮かぶ。だが綾子は誰の名前も実体がないように感じた。(ヒトの名前はただの記号だ。私はその記号をただ読み上げているだけなのだ。彼らの発している言葉も無意味で一瞬で消えてしまう。何も残らない)
ライトハウスの店主は自分が深い闇と同化していると感じた。マールボロは消えてしまい、残ったフィルターはカウンターにある丸い灰皿に捨てられた。
(守の絵・・・・・・、あいつの描いた絵に光があるのか?)弟と呼んでいるマンションの同居人が描いた絵は幾重もの闇の層があった。紫の闇、灰色の闇、藍の闇、こげ茶色の闇、赤黒い闇・・・・・・。キャンパスを覆う黒い闇の中に様々な色の層が潜んでいる。弟を軽んじている姉はいつも彼の絵を眺めて不思議に思った。(守は何故、こんな気持ちの悪い絵を描き続けるのか?)彼女は弟の描いている絵を踏みにじって破壊したかった。軽蔑している弟が大切にしているキャンバスを無茶苦茶にしたかった。そしてその残骸を見て嘲り笑いたかった。(あいつの描いた絵は才能の一かけらもなくて、まるで幼児の落書きだ)と蔑みたかった。しかし綾子の眼はいつも様々な闇が描かれている絵をただ眺めていることしか出来なかった。
(光なんて無い。どこにもない。どこにもないじゃないか)暗闇の一部となった綾子は眼を閉じた。右のこめかみがピクピクと細かく不規則に動く。あの女子高生の姿が脳裏に浮かんだ。その女子高生の黒い瞳は明確な意志を持った強い光を放っていた。
「宮森華の瞳が欲しいなぁ・・・」綾子は華の瞳なら弟の闇の絵から光を見出すことが出来るだろうと思った。あの話好きでプンプン怒る可愛い女子高校生は自分とは全く違った景色を見ていると、闇の一部となった女はぼんやりと考えた。
「私って、ここライトハウスに居るときは、よくお喋りするけど、普段はそんなに話さないですよ、綾子さん」ポニーテールの女の子はパスタを頬張りながら言った。(あの子はあんなに美味しそうに食事をするのか・・・。食事? 私はマンションで食事をしたことがない。いや何処に居ても食事をしたことがない。コーヒー、ビール? 薬だけを飲んで生きている。空腹感なんてあったか・・・)そう思うと綾子の腹部に欠落感があった。喉の奥にも物足りなさを感じた。その時、店の周囲がぼんやりと明るくなったように見えた。綾子は中途半端な闇の中、ゆらゆらと厨房の食器棚の前に移動した。
食器棚の上の方、透明のガラス扉が閉まっている所にモーニングセット用の食パンがあった。ライトハウスの女性店主はそのガラス扉を開けて食パンを一斤取り出した。彼女の右手の指先には柔らかな頼りない感覚があった。(南ちゃんは何処からこの食パンを調達しているのか? 分からない、分からない・・・・・・、ハハッ・・・)
綾子は右手で掴んでいる一斤の食パンのフワフワした柔らかな感覚には、微かだが馴染みがあった。(私は以前、食パンを取り扱ったことがある?)彼女は朧げな記憶の中を突き進んでいくと内田南の無邪気な笑顔があった。南の緑の瞳は綾子を見下したような光があった。(傲慢なコーヒーの味! 猪口権が指摘した私の淹れたコーヒー。他の人もそう言っていたっけ? 中岡美奈子なんか私を見向きもしない)カフェの店主は食パンを包んである柔らかい透明なビニール袋を乱暴に剝ぎ取った。そして一斤の食パンに齧りついた。綾子の口の中には小麦の香がする食パンが入り込んできて、忽ち口腔内いっぱいになった。鰓の張った頬を限界まで膨らませたが喉は食パンに塞がれてしまった。彼女は頑丈な歯を食パンに突き立てるように咀嚼した。口の中の食パンは唾液と奥歯の嚙み合わせの力によりペースト状になり食道に送り込まれていった。綾子はなおも大量の食パンを口に入れ続けた。
(あの女、内田南が私から仕事を奪っていった!)綾子は南の白い肌が眩しかった。黒いタイトスカートから伸びる大腿は健康的だった。化粧っ気がないのに紅い唇は艶やかだった。客は話す力も聞く力もない南に興味を抱いていた。
(あんなに表情の乏しい不愛想な女のくせに・・・・・・)カフェの店主はまだ右手に持った食パンを齧り続けていた。口から入ってくる食パンの圧力で食道の入り口は塞がれてしまった。
「フーフーフフーフーッ」鼻から空気を吸い込もうとしたが、空気は気管支を通らなくなった。息苦しさで頭が熱くなり下腹部から異常な快感が沸き起こり彼女の全身に拡がっていく。
(限界を超えた快感・・・・・・)猪口権の茶色い眼が憐れむように飯塚綾子を見ている。
(誰も私を見てくれなかった。宮森華は誰に対してもあの瞳で語りかけるのだろう。誰に対しても。私にだけじゃない・・・・・・)綾子はそう思うと華に対して憎しみが湧いてきた。(宮森華にあって自分に無いものが多すぎる!)綾子は笑いたくなった。食パンが口に詰まって笑えなかったが、実際彼女は笑っていた。笑いの大発作が起こった。そして右手はなおも食パンを口の中に押し込もうとしていた。綾子の頭は尖った矢が方々に突き刺さったように痛んだ。そして体全体が激しく痙攣した。その直後、彼女の体は硬直した。肉厚の女の体は背筋を伸ばしたまま仰向けに倒れた。彼女は後頭部を床に激しく打ちつけた。しかし口腔内には食パンが詰まったままだった。綾子は自分の体に限界を超えた痛みが襲っているのか、理性が吹き飛んだほどの快感が駆け回っているのか分からなかった。
(死ぬのか・・・・・・。自分が自分を殺すのか?)綾子の脳裏に猪口権の困った顔が浮かんだ。




