尊からの電話
宮森華はマンションに帰っても落ち着かなかった。彼女の胸の中に得体のしれないものが燻っているようだった。華は冷蔵庫から冷たい水の入っているペットボトルを取り出して半分ほど飲んだ。そして紺色の制服を脱ぎ緑色のジャージに着替えた。それから自分の部屋のフローリングの床の掃除に取りかかった。部屋の床の隅から隅までサイクロン式掃除機をかけた。腰を屈めて膝をついて、学習机の下やベッドの下を丁寧に掃除機で埃や小さなゴミを吸い取った。
「ふう、お腹が空いたなぁ」少し気分の晴れた華は、わかめと豆腐とねぎの味噌汁を作った。それから鯵を一尾焼き、昨夜作った肉じゃがの残りを電子レンジで温めた。焼いた鯵用に大根おろしを一人分作り、最後に冷凍室にあるご飯もレンジで温めた。ポン酢を冷蔵庫から出して大根おろしに少し振りかけた。
「いただきまーす」空腹を感じていた女子高生は合掌して目の前の料理されたものに感謝の挨拶をした。そしてかなりのスピードで食卓の料理を平らげた。杏子色の急須から抹茶を急須と同じ色の湯飲みについで、その温度を確かめながらゆっくりと口に含み味わった。(今日は遅い時間に部室に行ったら尊君がいて驚いたなぁ・・・。放課後、部室を覗いた時は誰もいなかったのに)華はぼんやりと食器の洗い上げをすますと、自分の部屋のベッドに倒れ込んだ。そしてベッド横の窓枠に置いてある白いコンポーネントステレオの電源スイッチを入れて、それからCDボタンを押した。コンポーネントステレオからはベートーヴェンのピアノソナタ「ハンマークラヴィーア」が流れ始めた。
(南ちゃんと綾子さん、これまでもズレていたけどそれが良かった気がしていた。けど、今日は同じライトハウスにいるのに全く別々の場所で働いているみたいだった。何だったんだろ、あれ? うーん、綾子さんは調子悪かったのか殆ど働いていなかったなあ。白石先生が亡くなって・・・いろんなことがある)
華は白石新次郎が亡くなってからのことを思い出そうとした。(白石先生が死んだ次の日に久しぶりに谷口孔先輩にあった。月曜日は美冬の初めての部活参加なのに権先生何処かへ行っちゃったし。火曜日は急に白石先生の弔いに行って火葬のボタンを押した。水曜日はライトハウスでコーヒーを飲んでいたら守君が来て、綾子さんが倒れた。そして休憩室に運んで綾子さんは気づくと中岡先生から逃げるようにライトハウスにもどった。そして今日は綾子さん、南ちゃんと変な雰囲気だった・・・)
いつの間にかベートーヴェンのピアノソナタ第二十九番の演奏は終わっていた。華はコンポーネントステレオから金色のCDを取り出し、それを丁寧にCDケースに入れた。CDジャケットの写真には赤いドレスを着た長い黒髪の女性がピアノに向かっていた。その女性ピアニストはピアノを弾いているというより、ピアノと自分の体が同化しているように見えた。髪の長い女性ピアニストは眼を閉じ口を僅かに開け陶酔した表情を浮かべていた。華はその女性ピアニストの何かに耐えているような顔を十秒ほど凝視した。そして彼女はそのCDを収納ボックスに入れると再びベッドに横たわった。それからアイボリーの天井をぼんやりと眺めた。
「白石先生、本当に死んじゃった」華は自分の口から漏れ出た言葉によって白石新次郎の不在を明確に感じた。
「白石先生もライトハウスが好きだったのかな」緑色のジャージ姿の少女は低い声で呟いた。そして白石新次郎がライトハウスで内田南を前にしてコーヒーを飲んでいる姿を想像しようとした。しかしその情景は浮かんで来なかった。
「はぁー・・・・・・」彼女は長く息を吐いた。ずっと天井を見続けていると内田南の小柄な黒いエプロン姿が浮かんできた。すると南がつけている黒いエプロンが藤色に変わっていった。それから白いワンピースを着ている渡辺美冬が、瞳を閉じて苦しそうに喘いでいる表情も華の脳裏に現れた。(なぜ、美冬がこんな顔をしているの?)
その時パッフェルベルのカノンの着信メロディが鳴り響いた。華は慌ててスマートフォンの画面を見ると、高梨尊の文字が表示されていた。
「こんばんは、宮森部長」
「あっ、こんばんは、尊君」華は尊の低く落ち着いた声を聞くと、無性に彼に会いたくなった。
「あの・・・」
「んん? 尊君、どうしたの」華は尊が珍しく言い淀んだので意外に感じた。
「今日、部長が部室に来た時、何か深く考えていて、それが気になったものですから」
「えへへ、心配してくれたの。ありがとう・・・嬉しいなぁ。うーん、あのねぇライトハウスの店主の綾子さん知っている? 実は彼女、あまり元気がなくてね、それで心配していたんだ。ほらっ、私、ライトハウスが好きで、よくコーヒーを飲みに行くでしょ」
「飯塚綾子さんでしょう、知っていますよ。僕もたまにライトハウスでホットドッグとオレンジジュースを注文したことがあるので」
「エッ、そうなの。あれぇ、私、尊君とライトハウスで会ったことないなぁ」
「そうですね。僕は本当にたまにしか行かないので、会えなかったと思いますよ。ところでライトハウスの飯塚さんはどんな様子なのですか?」
「うん、あのねぇ、私と綾子さんとはいつも会話が弾むのだけど、最近はうまくいかないっていうか、私が一方的に話しているみたいなの」
「それは飯塚さんが宮森部長の話をあまり聞いていないということですか」
「そうそう、そうなの。心ここにあらずって感じでぼんやりしているんだ。綾子さんが言うには白石先生が急に亡くなって、そのショックで疲れているって」
「ということは白石先生もライトハウスによく行っていたということですね」
「さすが尊君。そうなの。白石先生は部活動の指導をサボってライトハウスでコーヒーを飲んでたんだよ。酷いでしょ! もう」
「ええ、そうですね」華は尊の声の中にほんの僅かに笑い声が紛れているように感じた。すると自分の頬が急に熱くなり、彼女はそのことに焦ってしまった。
「白石先生のことはもういいわ。エへンッ」華は故意に小さな咳をした。
「それでね、尊君。綾子さんのことだけど彼女は最近記憶が曖昧になっているらしいの」
「記憶が・・・曖昧になっているのですか?」
「うん、そうなの。綾子さんはライトハウスに勤める前はAFZのロアノという喫茶店で働いていたって私に話してくれたのに、そのことも忘れているんだよ」
「それは三年前のことですね?」
「うん、そう。アッ、尊君。尊君のお父さんはAFZの偉い人だし尊君もロアノが好きって言っていたね。ひょっとして綾子さんがロアノで勤めていたこと知っていたのかな?」
「ええ・・・、知っていました」
「ふーん、そうなの。私はねぇ、中学の頃から一人でね、ロアノで本を読んでコーヒーを飲んでいたでしょう。でもロアノで綾子さんと会った記憶が殆どないのよ。うーん、いつもメイド服を着ている整った顔の女の人がコーヒーを持ってきてくれたから。その人はしっかり覚えているけど。ほら、静かでちょっと人間離れした雰囲気がある人」
「ああ、塔子さんですね」
「えっ、尊君、あのメイド服の店員さんを知っているの?」
「ええ、僕の姉ですから・・・」
「ええーっ! そうなの。知らなかった・・・。でも、あまり尊君と・・・」
「塔子さんとは母親が違うのです。そして年もかなり離れているし、彼女は早くから家を出て働いていますので」
「・・・そうなの」
「どうしましたか、宮森部長?」華はいつも尊の声が落ち着いているので改めて感心していた。(尊君って本当に私より一つ年下なのかな。尊君は何も手を加えずに自然に年を重ねて今年で十七歳になったと思うけど)
「いや、ちょっと尊君のプライバシーに触れちゃったので、悪いかなぁって思って」
「いえ、宮森部長なら大丈夫です」
「そう・・・・・・、ありがとう・・・」少しの間、二人は黙っていた。
「会いたいなぁ」
「エッ?」
「今日も放課後、尊君と部室で一緒だったけど、今も無性に尊君に会いたくなった」
「じゃあ三十分後にバイクで迎えに行きます」
「エッ!」
「宮森部長、一緒にバイクに乗ってツーリングしませんか? 気分転換になると思いますよ」
「アーッ、それいいね。うんうん、ありがとう尊君。じゃあ待ってる! それでね尊君、私、原チャリの免許持ってるの。だからヘルメット、グローブ、ライディングジャケットもあるんだよ」
「分かりました。じゃあ三十分後に」
華はスマートフォンの通話を切るとベッドから飛び起きた。洗面化粧台の鏡で顔や髪を入念にチェックし、唇には薄いピンクのルージュを引いた。クローゼットにある服を見てどれが良いかと思案した。そしてバイクの後部座席に乗る服―シルバーのライディングジャケットと紺色のストレートジーンズを選んだ。ストレートの黒髪はポニーテールにした。




