名前を失う者たち
いつの間にかライトハウスの営業時間は終わっていた。飯塚綾子は朝から夕方まで出来の悪いスライドショーを見ているような感覚に陥っていた。生身の人間と話している実感がなかった。(今日・・・宮森華、水樹晶、エリック・ハーバートはこの店に来たのだろうか? 他に誰か来て私と話をしたの?) 彼女は弟の守の暗い眼差しも猪口権の卑屈だが傲慢な浅黒い顔も見ていないように思えた。ただ阿沼教諭の冷ややかな笑い顔だけが微かに脳裏に残っていた。
「綾子さん、お疲れ様でした」南が入口ドアの前でそう言った。女性店主はいつも聞いている南の挨拶だがドキッという重い衝撃が左胸に走った。綾子は数秒間、南の緑がかった澄んだ瞳を見つめていた。
「それじゃあ、あたし、帰ります。綾子さん・・・・・・、失礼します」南は丁寧に深々と頭を下げて店を出て行った。
「あっ、さよなら」女性店主はただ一人のスタッフの小柄な姿を目で追った。黄葉色のワンピースにクリームイエローのブレザージャケットを着た内田南の姿はぼやけて見えた。
綾子はいつも宮森華が座っているカウンター席に腰を下ろした。白いブラウスの胸ポケットからマールボロを出してマッチで火をつけた。煙を胸いっぱいに吸い込んでゆっくりと吐き出した。紫煙は厨房の換気扇に吸い込まれていく。彼女は消えていく紫煙を存続させるように、続けて三本マールボロを吸った。それから缶ビールを三本飲み干した。店の壁に掛かった丸い時計を見た。その丸い時計は六時三〇分を指し示していた。
「遅い」綾子は時間を持て余していた。
木製の入り口ドアがゆっくり開き猪口権が入ってきた。
「綾子さん、今日一日はどうでしたか。楽しかったですか?」猪口教諭は当然のように女性店主の右隣に座った。
「何も面白いことはありません!」綾子は四本目のマールボロにマッチで火を付けながら吐き捨てるように答えた。
「へへッ、少し前までは、綾子さんは毎日を楽しく過ごしていたのではないですか」猪口権は厨房の冷蔵庫を開け、缶ビールを一個持ってきた。そしてステイオンタブを引っ張り小麦色の液体を短い喉に流し込んだ。
「ウグウグウグ」隣の中年男がビールを飲み込む音に綾子は眉を潜めた。
「綾子さんももう一杯、ビールを飲みませんか?」
「いえ、私はもう・・・」
「飲みなさいよ」
「アッ、はい」綾子は反射的に立ち上がり足早に冷蔵庫から缶ビールを一個持ってきた。そして隣の男の言われるままに缶ビールの飲み口に分厚く赤い唇を付けた。
「グッと飲み干しなさいよ」
「ウグウグウグ」綾子は猪口権と同じような音を鳴らしながら缶ビールを飲み干した。
「ほう、四缶もビールを飲んでマールボロも四本吸って・・・。この城北高校にあるカフェ・ライトハウスの店主としての、そのような行いはちょっと困りますなあ」猪口教諭は隣の女の大きな腰、盛り上がっている胸、えらの張った顔に粘りつくような視線を這わせた。
「・・・すみません」女性店主はそう言うと背筋に悪寒と快感が混ざったものが走った。
「今日はこのライトハウスに何人お客さんが来たのかな?」
「エッ、あの・・・、わ、分かりません」綾子は緊張した。
「ライトハウスの店長なのに、そんなことでいいのかなぁ。誰が店に来たかくらいは分かるだろ」
「アッ、えっと、あの・・・、朝に阿沼先生が来ました」
「フン、阿沼のヘラヘラ坊主か。あいつは学年主任のくせに何しているんだ。いつもヘラヘラ笑いやがって。それに職員室にもほとんどいないし、あの糞坊主はちゃんと仕事しているのか!」猪口教諭は苦そうに缶ビールを飲んだ。そして空になった缶ビールをカウンターに打ち付けるように置いた。
「阿沼の禿げ頭以外は誰が来た?」
「いえ、あの・・・、それが・・・」綾子は何処にも逃げ場がないように感じた。早い心臓の鼓動の音が頭の中から聴こえる。
「何だ、阿沼のヘラヘラ坊主しか覚えていないのか。どうしようもない脳みそだな。ミミズの方がましだぞ」
「あの・・・、ミミズって何ですか」
「ミミズも知らないのか。ミミズは土の中を生きていて、目も手足もないくにゃくにゃした細長い生き物さ。あれっ、ミミズは脳みそがあったかな? なかったような。まあいい。その喰うことと排泄することぐらいしかできない生き物は、今も街の外にはいるかもしれん。あーっ、綾子さんは眼も手足もあるからミミズよりはマシだなぁ。ハハハハーッ、ライトハウスの有能な店主さん、僕は下らないことを話したので喉が乾いちゃった」
「アッ、ビールを持ってきます」綾子は急いで缶ビールを一個持ってきて、猪口権の前に置いた。
「フン! 少しは学習してるじゃないか。ミミズよりは有能かもしれん。もっともミミズは手足がないからビールを持って来ることが出来ないよなぁ、綾子さん」
「アッ・・・、ハイ、そうですね」綾子は遠慮がちに頷いた。するといきなり猪口権の左手が彼女の太い首を絞め上げた。
「バーカ、ここは僕の高尚なジョークに笑うところだろう。ホントに豚女はユーモアのセンスもゼロですねえ。ミミズの方が僕の知的なジョークにクネクネと体をのたうって反応するぞ。分かったか、変態豚女!」
「わ、わ、分かり・・・、ました」紅潮していた綾子の顔は徐々に青白くなった。そして大きな口から赤紫の太い舌が飛び出していた。
「何だ、その気色悪い舌は。また虐められて喜んでいるのか?」国語教師はつまらなそうに左腕を綾子から離した。綾子は小刻みに痙攣しながら上を向いて不規則な呼吸をした。
「綾子さん、あの目つきの悪い坊主男は何を話していたんだ?」
「ハアハアハアーッ、フウ・・・、はい?」
「目つきの悪い糞坊主って言ったら阿沼学に決まってるだろ! まだ首絞められてアヘアへ喜んでいるのか。ホントに脳が働かない変態豚女だな」国語教師は右手に持っていた缶ビールの中身を綾子の顔にぶちまけた。
「すみま・・・せん・・・」えらの張った顔からビールを滴らせている女性店主はまだ体がときどき小刻みに痙攣していた。
「そう言えばビールを飲ませると豚は美味くなるって聞いたことがあるぞ。あれっ、それは豚じゃなくて牛だったかな。まあいい。それで、あの阿沼のヘラヘラ坊主は何て言っていたんだ、牛女!」
「あっ、あの、私が・・・以前、働いていた・・・ハアハア・・・、ロアノのことを教えて・・・もらいました・・・ハア」
「ヒャヒャヒャー、お前は牛女と呼ばれても答えるのか。変態豚女としてのプライドがないのか? おい、飯塚綾子という生物は変態豚女か鈍重牛女かどちらだ! そのミミズの消化器官よりも劣っている脳みそで一生懸命考えて答えなちゃーいぃーーーっ!」猪口教諭は語尾を金切り声のような甲高い声で引き伸ばした。綾子はその金切り声におぞましさを感じたが、それと同時に異様な快感が下腹部から湧き上がってきた。
「豚女です・・・・・・」そう答えた瞬間、女性店主の顔に再びビールがかかってきた。
「豚女? 違うだろ! お前はただの豚女じゃないだろ。お前は虐められてアヘアへ喜んでいるから何て呼ばれているんだ。おい、まだ分からないのか! あーっ、お前をミミズと比べてしまった。僕のミスだ。ホントにミミズに申し訳ないなぁ。おい、お前はゾウリムシだ。そう言ってもゾウリムシ女には分からんだろうが。飯塚綾子さーん、あなたはどんな豚女でっちゅーかぁーっ」国語教師はまたも語尾を金切り声で叫んだ。綾子はビールが沁み入った眼の痛みを感じながらも、全身に異様な快感が拡がっていることに呆然とした。
「わたしは・・・変態・・・豚女・・・です」綾子はそう答えると壁に掛かっている丸い時計を見た。時計の針は八時を回っていた。綾子は時計の進み具合に納得した。(ちゃんと時間は進んでいる)彼女は壁に掛かっている丸い時計を見続けていた。
「ガチャ」缶ビールのステイオンタブを引っ張る音が聞こえた。猪口権は茶色く分厚い唇を缶ビールの飲み口に付けた。
「ところで綾子さん、阿沼先生とどうしてロアノの話をしたのですか?」
「あっ、あの・・・、私は最近、記憶が曖昧です。えっと・・・ライトハウスに来る前は何処で働いていたか分からなくなって・・・・・・。だから、その辺りのことを阿沼先生と、話しました」
「ほぉ、そうですか、以前の記憶が曖昧だと気づいたのですね。ふむふむ」国語教師は眼を閉じて何事か深く考えていた。
「ふむ、綾子さん、僕は今気づいたのですが、あなたの顔や髪、それからブラウスまで濡れていますね。どうしたのかな? まあこれでは不十分だが拭いてください。風邪をひいてしまいますよ」猪口教諭は茶色のズボンのポケットから皺くちゃの白いハンカチを取り出して、隣の女に手渡した。
「あっ、ありがとう・・・、ございます」綾子は小刻みに両手を震わせながら、そのハンカチを受け取った。そしてその皺くちゃのハンカチで前髪、顔、喉元を拭いた。それからそのハンカチを畳んで、右隣りの木製椅子に座っている男に返した。
「それで阿沼君は何と言いましたか?」
「あっ、わっ私が、AFZのロアノという喫茶店で、働いていたことを・・・教えてくれました」綾子は体が熱くなり、いきなり大量の汗をかいた。狭い額から汗が滲み出て頬をつたい尖った顎から滴り落ちた。
「綾子さん、あなたはロアノで働いていて、楽しかったですか?」
「あの・・・・・・、すみません。ロアノでのことは、ほとんど覚えていません」カフェの女性店主の声は固かった。
「あなたがいつまでロアノで働いていたのですか」
「確か三年前だと・・・」
「そこは、よく覚えていますね」
「阿沼先生が教えてくれました」
「自分では覚えていなかったと?」猪口教諭の小さな茶色い眼が鈍く光った。
「ロアノでは妙なメイド服を着ているウエイトレスがいたような・・・」
「塔子か」猪口権は低く呟いた。
「はっ?」
「いや、いい。それからロアノに来ていた客は覚えていないのですか」
「えっと・・・、あの・・・、可愛い女子中学生が本を読んでいました。・・・それからもう一人・・・・・・」
「もう一人? 誰です、その人は」
「あっ、うーん・・・、顔はハッキリと思い浮かぶのですが。その男の名前も知っているのですが」綾子は眼を瞑り必死に脳裏に浮かんだ男の名前を思い出そうとした。先程まで、その男の名前を知っていたはずだった。(下劣で趣味が悪くて、私を盗み見する太った哀れな中年男。茶色いスーツの胸ポケットにプラスチックの名札を、これ見よがしに付けていた。その文字も見える。漢字で書かれていた。コーヒーシュガーを五個入れてミルクも沢山入れて、子供のようにスプンで甘ったるいコーヒーを味見する薄汚れた豚のような男・・・・・・)
「その男の名前を・・・・・・無くしてしましました」ロアノのウエイトレスだった女は言った。
「そうでしょうねぇ」猪口教諭は深くため息をついた。そして「フン」と小さく鼻息を漏らした。
「あの・・・、私は猪口先生に勧められて、この高校に来たのですか?」
「そうですよ。校長や教頭がカフェの店主を見つけてくれと僕に依頼してね。まあ僕はこの時代の人間には珍しく、いろんな所とパイプがありますから」
「でも、どうして私を選んだのですか?」
「フフフッ、綾子さん。僕はこう見えても、人を見る目があるのですよ。僕がチェックした人間が将来的にどうなるのか、大体予想できるのです。あなたはあのロアノで長く働くことができた。それだけでも、この城北高校の中に新たに造られる喫茶店に居る資質はあるのです」
「・・・・・・」綾子は猪口教諭の言っていることが殆ど理解できなかった。
「綾子さん、AFZのロアノは特別な場所ですよ」
「私は・・・、ロアノで、何をしていたのか・・・、殆ど記憶にないのです。猪口先生、私はいったい何者なのでしょうか?」飯塚綾子は胸の中につかえていたものを吐き出すように言った。
「だから僕は言ったじゃないですか。日々の暮らしの中で意義あるものを掴もうと努力している人間はほとんどいないって。綾子さん・・・、残念ながらあなたもそういう人間なのかもしれない。失礼、それは分かりません。この時代の大勢の人間は名前なんて覚えようともしません。何もかも惰性のままに生きている。そのような人々は一人ひとり消えていくのかもしれない」
「それって街の外に・・・出て行くってことですか?」
「それも一つの選択肢ではある」猪口教諭はまた深くため息をついた。
「私は何もかも無くしてしまうのでしょうか? それとも最初から何もなかった・・・・・・」綾子はカウンターに乗っている空の缶ビールを見た。空の缶ビールは軽そうに見えた。
猪口権は黙って席を立った。そして入り口ドアを開けてライトハウスを出た。それから職員室前の玄関からグラウンドに出た。その瞬間、いきなり雲が割れて月の白い光がグラウンドを照らした。(冬の光芒のようだ!)国語教師は立川書店で買った風景写真集を思い出した。そして左手首に巻いてある銀色の腕時計を見た。鈍く光る腕時計の針は七時を指していた。
猪口権は雲の隙間から不自然に感じるほど巨大な球形の月を確認した。そして南から北へ飛び去る黒い鳥の群れを見た。
上空から降りている白い光は少しずつ薄くなってきた。そしてその白い光が当たる範囲も徐々に狭まってきた。グラウンドに立っていた猪口権はライトハウスの存在を確認するように振り返った。彼の視線の先にある店は灯りが消えていた。カフェのある空間は漆黒の闇に吸い込まれたかのように存在感がなかった。猪口権はしばらくライトハウスのある空間を眺めていた。そして歩いてグラウンドを横切り、正門から出て行った。




