レジ係を交代したら・・・
「あれっ、村上さん、今日シフト変わったの?」勤は意外な表情を浮かべていた。
「はい、河合さんが急に用事が入ってどうしてもレジ変わってほしいって言うので」
「エーッ、また河合さんかぁ。あの人どうして事前に言わないのかな。でも村上さん、遅出が続いているじゃない。大丈夫?」
「んーっ。大丈夫です。あたし、遅出は結構好きですし。先輩も零時30分までですか?」
「まあ、何もなければ一時前には上がれるかなぁ」勤は少し照れながら答えた。
勤は二人が銀色の目をした狐に会った昨夜のことを思い出していた。狐が闇に消えた後、玲は再び勤を自分の部屋に誘った。そして二人はセックスをした。玲が激しく勤を求めたのだ。いったい何回、勤は玲の中に射精したのかわからないほど彼女は乾いていた。
23時を回ると客足は途絶えてきた。清掃社員も徐々に食品売り場へ入ってきた。
「ボン!」乾いた音がお菓子売り場のスペースから響いた。それとともに白煙が揺らめいた。勤は急いでお菓子コーナーに向かった。
「金を出せ・・・・・・」
サングラスをかけ黒いウインドブレーカーを着た背の低い男が玲に特殊強化プラスチックナイフを突きつけた。それは三段伸縮ナイフで刃渡りは30センチほどあった。
「変な動きをすると、自爆するぞ」男は抑揚のない声で言った。
「売り上げの札だけまとめてこの袋に入れろ」男は左手で内ポケットから透明な袋を玲に手渡した。玲は真面目な顔をしてレジから千円札、五千円札、一万円札をまとめて袋に入れ男に手渡した。すると男は玲の右手を掴み、出口を目指して駆け出した。
「ガーッ!」という耳障りな音が鳴った。10キログラムの米袋が五つ入ったカートが右横から男を直撃した。「ガシャン!」という音がして男は跳ね飛ばされ玲の体は自由になった。男は三メートルほど飛ばされ仰向けにひっくり返った。その瞬間、倒された男の上から小柄な人間が舞い降りて彼の右足が男に顔面に蹴りおろされた。「ゴキッ」「グシャ」と二つの音が混ざり、さらに左足が男の腹を抉った。サングラスが壊れ鼻は曲がって男の顔は血にまみれていた。両手両足が突っ張って小さく痙攣している。
「おい、死んでないか?」巨漢の小柱徹がカートから飛び出した米袋をカートに戻しながら心配そうに訊いた。
「大丈夫だよ、そのうち意識がもどるさ。まあ死んでも構わんけどな」同じ清掃社員の仲野仁は男の服をボールペン状の爆破物探知機でチェックしていた。
「ふん、はったりか」仲野はつまらなそうに言い捨てた。
「あーっ、ご苦労様です」岡野高広が神妙な顔で言った。
「監視モニターで見ただろ」仲野の細い目が疑り深く光った。
「ええ、まあ。我々も他の仕事で手一杯ですから。それにこういう危ない奴の対応は保安の方の仕事でしょう」高広は小柄な仲野を見下ろすように背を伸ばした。
「高広、煙がでたところ何もなかったぜ、ん?」勤が爆破物探知ゴーグルを腰のポーチに戻しながら、ようやく強盗未遂犯の存在に気づいた。曲がった鼻から血を流している男はうつぶせの状態で小柱に後ろ手を縄で縛られているところだった。
勤の右の頬に何やら突き刺さるものを感じて、右を向くと玲の真っ白な顔があった。
「レジの子、ちゃんとマニュアル通りにしたみたいだな。へヘッ、じゃあ、あとはヨロシク」仲野は軽く高広の左肩を叩いてその場から離れようとした。
「犯人を警察に引き渡すまでは保安の仕事でしょ」
「サツはもうすぐ来るし。犯人は小柱が完全拘束したし、何もできねえよ」
犯人は猿ぐつわを噛まされ後ろ手に縛られ、両足も腿から足首までロープでグルグル巻きにされていた。
「じゃあ、もう少し待たれたらいいじゃないですか?」高広の顔は右の口角だけ上がっていた。
「ポリ公にはレジの紅いメガネの子が話をするだろ。俺らはオソージで忙しいのよ、ン? あの子、後藤課長がおっ死んだときもいたなぁ、へへへッ」仲野は細い目をさらに細くして歯をむき出して笑った。
「何がおかしいのですか?」高広の声が一オクターブ下がった。勤はチラッと高広を見た。
「後藤さんもセキュリティにいたらよかったのになあ。オソージ班に来ても何もしなかったし、いや出来なかったって言う方が正確かなぁ」仲野は腰を屈めポケットに手を突っ込みヘラヘラ笑いながら上目遣いで高広を見上げた。
「清掃部隊はバケモノばかりいるから、まともな人間は無理ですよねぇ」
「なんだと! てめえらだって同類だろ!」浅黒い仲野の顔が紅潮して紫色に変わった。
「僕らは警察の特殊部隊の対象になる人間はいませんよ。あなた達もやり過ぎるとまた警察のお世話になりますよ。ハハーン、だから警察が来るとビビるんだ、ふーん」
「てめえ!」仲野の上唇がめくれ上がり黄色い犬歯がむき出しになった。彼は獣のように前傾姿勢をとり両手を目の高さに挙げた。すべての指は鉤型になりブルブルと小さく震えていた。
「仲野ぉー!」犯人の傍にいる小柱が叫んだ。その声とともに高広は後ろに飛び去り腰を落として構えた。
「おい、警察が来るぞ」二人の間に歩み出た勤が言った。パトカーのヒステリックな音が徐々に大きくなってきた。
「フン、林田主任か」仲野は手を下ろして小柱を見た。そして尖った顎を右に振ってその場を離れた。小柱はしばらく躊躇した。すると警察官二名が足早に入ってきた。高広が警察官と対応し勤が犯人の傍に来ると小柱はその場を離れていった。
「犯人は何処かな? あらーしっかりやられていること」背の高い警察官が勤の横に来て犯人の顔を見るために腰を屈めた。
「鼻の骨折れちゃってるね」その警察官はペンライトで犯人の目や鼻や耳を簡単にチェックしていた。犯人は折れた鼻からの出血は止まっていたが、フーフーと猿ぐつわされた口から荒い息を出していた。
「大磯君、一応念のため後ろ手がちゃんと固定されているか見てくれる?」大磯と呼ばれた背が低くがっちりした体形の警察官が片手でゴロンと犯人をうつ伏せに転がした。そして後ろ手に縛られたロープに自分の指を入れたり結び目の硬さを確認したりした
「深町さん、大丈夫です!」
「ありがと、じゃあ仰向けに戻してくれる」
大磯は頷くと犯人の腰を軽く掴むと再びゴロンと転がして仰向けに戻した。
「うーん、鼻が折れていると喋りにくいし・・・」
深町と呼ばれた警察官は犯人の曲がった鼻を右手の親指と人差し指で挟んで少しだけ動かした。すると折れていた鼻がまっすぐになっていた。
「はい、治りました。あとでちゃんと話すのだよ」犯人は不思議そうな目をして深町を見た。
「ここの責任者はあなた?」
深町は犯人の傍にいた勤に柔らかな声で問いかけた。
「この食品部門の現場副責任者、林田勤です。現場責任者はもう退社しています」
「ふーん、そうですか」深町はそう言いながら自分の目の前にいる勤の目を凝視していた。勤は深町と目が会った瞬間から自分の体全体が探られているような感覚を覚えた。
「なるほどね。そうだねぇー、大磯君」深町は隣にいる大磯に何か確認するように訊いた。
「はっ!」それまで強盗犯の傍でかがんでいた大磯は立ち上がり答え、大きく何度も頷いた。
「やっぱり大手のスーパーは人材豊富だね」
「はっ!」大磯は直立不動の姿勢で答えていた。
(いったいこの警察官二人は何を言っているのだろう?)勤は彼らの会話の意味がさっぱりわからなかった。今の会話は先ほどの事件と何か関係があるのだろうかと疑問に感じていた。そして真っ白な顔をした玲のことも気にかかっていた。
「事件の概要は通報で聞いたけど、直接この犯人君と関わった人は誰かな? 確かレジ係の人だと思うけど」
「アッ、はい。村上さん!」勤はそう言いながら、レジに立っている玲の場所に行った。そして彼女に警察官に事件の状況を説明してほしいと頼んだ。
玲は先ほどよりは顔に血の気が戻っていた。蒼い瞳も強い意志を感じさせる光があった。二人は並んで深町のところにもどった。
「すみませんね。お仕事中」
深町はアイドルタレントのような爽やかな笑顔を見せた。
「はい」玲は小さく頷いた。
「大磯君、こちらの方からお話を伺うから、その寝転がっている人を車に乗せて待機していて」
「はっ!」大磯は片手で犯人を担ぎ上げて足早に店の入り口に向かって行った。
「彼、大磯君は力持ちでしょう。そう思わない?」深町は二人に向かって仲の良い友達が見せるリラックスした笑顔を見せた。
「はあ」勤は何と答えていいのかよく分からないでいた。
「それで犯人とご対面した人はあなたですか?」深町は玲にニッコリと微笑んだ。
「ハイ、あたしです」玲は無表情に答えた。
「先ほどの様子を詳しく教えていただきますか?」深町はそれまでと変わらない雰囲気で訊いてきた。玲は事件の様子を慎重に思い出しながら説明した。深町は黒い手帳にボールペンで要点を記しながら終始微笑んでいた。
「なるほど、なるほど。大変よく分かりました。ありがとうございます」深町は手帳を胸の内ポケットにしまった。玲は軽く会釈した。
「しかし村上さんも勤務を交代して、運悪く事件に遭遇してしまいましたねぇ」
「あっ、はい」
「でもナイフを突きつけられてもちゃんと対処されるとは、冷静ですねぇ」
「あっ、いえ・・・・・・」
「最近は物騒だから、やはり防犯訓練をかなりやっていらっしゃるのかな?」
「ええ、はいっ・・・」勤は玲の受け答えに違和感を覚え始めていた。
「そういえば最近こちらの店舗内で死亡事故がありましたねぇ」
「あっ、はい」玲の声は小さくなっていた。
「そういうことって結構続くものなのですよ」深町は相変わらず微笑みを浮かべていた。
「あの、そのことと今回の事件と何か関係があるのですか?」勤は思わず二人の会話を遮った。
「主任さん、僕は村上さんと話しているのですが」
「でももう先ほどの事件について、彼女はもう十分に話したでしょう?」
「うむ」深町は真顔で頷いた。
「主任さん、最近このお店で変なことが続けて起こっているのではないですか?」
「いや、別にそんなことはないですけど」
「ふーん、そうですか」深町は帽子を脱いで金髪の前髪を掻き上げた。それからゆっくりと帽子を被り直した。そしてニッコリと微笑んで勤を見つめた。
勤は深町の視線を正面から受け止めていた。(それにしても整った顔だな。ハンサムとか美男子とは、こんな顔を言うのかな? 警察官って強面かと思ったけど。こんな世界だと整った容姿は事件解決とかに役に立つのだろうか?)彼は深町の髪、眉、瞳、鼻、口、頬、顎、耳と順にチャックしながらそんなことを考えていた。
二人は10秒ほど見つめ合っていた。正確には深町の視線を勤が受け止めていた。
「やはり大したものですね」深町は玲の方を向いて少し困った表情を浮かべた。玲はそれには答えず隣の勤の顔を見た。勤の顔はいつもと変わらず不愛想に見えた。
「まあ、こんな世界ですから皆さん生きるのに大変ですよ」深町は真顔で言った。
勤と玲は顔を見合わせた。
「林田主任、村上さん。先ほども言いましたが今回のようなことは何かに引き寄せられるように、または何らかの形が破られたことで、続けて起きることがあります。くれぐれも油断しないように。捜査にご協力ありがとうございました。では失礼します」深町はにこやかに敬礼すると颯爽と去って行った。
「やっとサツが帰ったか」高広がいきなり現れた。
「お前、今までどこに隠れていた?」勤は呆れていた。
「いいじゃないかよ。俺は今、他の仕事でいっぱいだよ」高広はそう言うと内ポケットから携帯電話を出した。
「オイ伊能、ちょっと来い。さっきの強盗未遂の記録をとってくれ。ああ、当事者はここにいるから。早く来いよ、わかったな!」高広は携帯電話を内ポケットに入れながら「ちっ」と舌打ちした。そして玲の方を見ると作り笑いをしながら言った。
「玲ちゃん、今からうちの壊れたロボットみたいな奴が来るから、さっきのこと話してくれない。一応こっちがデータ化しないといけないのよ」
「ええ、いいですよ」玲は少し笑いながら答えた。
「只今をもちまして本日の営業を終了させていただきます」午前零時になり店内に終業のアナウンスがBGMの「蛍の光」とともに流れた。
「タッタッタッタッ」規則正しい足音の主は伊能だった。右手にラップトップを抱えている。
「遅れ、ました」
「さっきの事件、見ていただろ?」
「ハイ、モニターで、確認、しました」伊能は首を前後に振って答えた。
「こちらのキュートな村上玲ちゃんが運悪く事件に遭遇したのよ」
「アッ、ハイッ」伊能はまだ首を動かしている。
「もう零時回っているから、手短にそして優しく丁寧に訊くんだぞ」
「アッ、アッ、ハイッ」
それから伊能は慌てて玲の前にペコペコお辞儀をした。玲は吹き出すのを必死でこらえていた。