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黒い鳥の世界  作者: 西野了
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ライトハウスのモーニングセット

 午前八時三十分、ライトハウスの店主は入口の木製ドアを開けた。

「おはようございます」内田南の声が滑らかに綾子の耳に届いた。綾子はその声に嫉妬した。

「おはよう」女性店主は便宜的にそう言った。

「綾子さん、お身体はもう大丈夫ですか?」南の声は温かな思いやりがあった。そのことがカフェの女性店主を苛立たせた。

「ああ、もう大丈夫よ。心配しないで。体だけは丈夫だから」

「・・・・・・」大人しいスタッフは少し不思議な表情を浮かべた。

「おはようーございまぁす」入口ドアが静かに開き、坊主頭の阿沼教諭が眠たそうに欠伸をしながら入ってきた。

「おはようございます、阿沼先生」南の軽やかな声に綾子は慌てて「おはようございます」と言った。

「阿沼先生、いつものモーニングセットですか?」

「そうだなぁ、うーん、南さん。モーニングセットを頂こうか、ふぁーぁ」三年生の学年主任はまた大きな欠伸をした。

「分かりました」南は微笑むとベーコンエッグを作り、ポテトサラダとトマトを皿に盛りつけし、トーストを焼きアメリカンコーヒーを淹れた。

「お待たせしました」南はカウンター席に座っている阿沼学年主任の前に黒いコーヒーソーサーとカップを置いた。それからトーストの乗っている白い皿と、ベーコンエッグとトマトが乗っている白い皿を置いた。最後にポテトサラダの乗っている小さな白い皿を置いた。綾子は自分が淹れたグアテマラをアイボリーのマグカップで飲みながら、ぼんやりと南の一連の動きを見ていた。

「どうしたの、綾子さん?」トーストを胃に収めアメリカンコーヒーを一口飲んだ阿沼教諭が訊いた。

「いや、南ちゃんはテキパキ動くなあって感心して」

「そうだね。綾子さんの教え方が良いのでしょう」

「そうかしら。私は彼女に何も教えていないような気がする」

「ふーん」阿沼学は細い眼を更に細めて女性店主の無表情な目を覗き込んだ。

「私なんかいなくても、この店は大丈夫じゃないかしら」

「ええーっ、そうかなぁ?」

「だってうちの優秀なスタッフは一人で何でもできるでしょう。そう思いませんか、阿沼先生」

「内田さんを強引にこの店にお願いしたのは僕たちだから、そう言ってもらえると嬉しいですねぇ」阿沼学年主任は笑っていたが、その細い眼は何かを探るようだった。そして綾子は阿沼教諭の言葉を素直に受け止めることができなかった。

「阿沼先生、それは誉め言葉ですか」

「もちろん、そうです」

「そう?」

「綾子さん、あなたはこのライトハウスを三年以上経営してきたのだから、それは大したものですよ。今はカフェや喫茶店なんてこの街でも数えるほどしか残っていないでしょう」坊主頭の教師はそう言うとフォークとナイフでベーコンエッグを二つに切り分けて、その片方をフォークで刺して口の中に入れた。

「でもライトハウスは城北高校の中にあるし。それに高校からもいろいろ援助してもらっているのだから・・・」

「綾子さん、この城北高校だって、いろんな人がいるでしょう、ねえ。クククッ」阿沼教諭は笑いながら残りのハムエッグにフォークを突き刺し、それを口の中に入れて咀嚼した。

「うーん、内田さんのベーコンエッグは絶品ですねぇ」

「そうですか?」綾子は憎々しげに言った。

「綾子さん、人にはそれぞれの役割があるとは思いませんか? 僕は一応数学を教えていますが、ここだけの話ですよ。実は僕は数学を教えることについてはあまり自信がないのですよ、恥ずかしながら」

「それがベーコンエッグと何か関係あるのですか」

「まあまあ、そう怒らずに訊いてください。僕は教科指導については自信がないけど、生徒の進路指導にはそれなりに自信を持っています。ほら内田さんに関しても上手くいったでしょう」

「はあ・・・」

「内田さんは調理やコーヒーを入れるのが上手くて、綾子さんはお客と話をするのが上手いと言うことですよ」

「うーん」

「あれれ、僕の言うことはおかしいですか?」坊主頭の男はニヤニヤ笑っていた。

「まあ確かに私はこの店で人の悩みとかを聞くことが多いです」

「でしょう。それって普通の人には出来ないことですよ。今は悩みを打ち明ける人間関係なんてなかなかつくれないじゃないですか? 僕たち教師も苦労しているのですよ」

「それは教師と生徒との関係ですか?」

「ええ、そうです。僕も含めて城北高校の教師が生徒とコミュニケーションをとることは大変ですよ。教師たちは上手く生徒の話を聞くことが出来ない状況です。そして教師同士もいろんなことを素直に話すことが難しいのです。綾子さん、そう思いませんか?」

「そうですか・・・」綾子は坊主頭の教師の言葉に驚いた。

「どうしましたか?」阿沼教諭はポテトサラダを頬張りながら訊いた。

「いえ、教師と生徒の関係って、この高校では結構上手くいっているのかなあと思っていましたから」

「ほう、そうですか?」阿沼教諭は笑った。

「私は生徒からいろんな話を聞いていますよ」

「そうでしょうねぇ、綾子さんだったら。それで例えば誰ですか? その生徒は」

「ほら3―Bの宮森華さんとか水樹晶君、それからこの前転校してきたハーバート君もよく話してくれますよ」

「なるほど、宮森華さんに水樹晶君、そしてエリック・ハーバート君ですか」

「?」綾子は名前をあげた三人以外の顔が思い浮かばなかった。(東山校長はこの店に来たことがある・・・? あれは白石先生死亡の緊急職員会議の後だった。死んだ白石先生は本当にこの店によく来ていたのか? 猪口先生も一緒に来ていたなんて? 水樹晶君に話しかけて答えが返ってきたことがあったのだろうか? 守もここでパスタを食べていたのかしら? 阿沼先生はいつも南の前でモーニングセットを食べていた?)カフェの女性店主は自分の頭の中はスカスカで何も無いように感じた。

「綾子さん、顔色が悪いですよ。大丈夫ですか?」阿沼学年主任はそう言いながらも美味しそうにアメリカンコーヒーを飲んでいた。

「私は・・・いつからライトハウスに勤めていたのかしら・・・」綾子の顔は黄土色になっていた。

「飯塚綾子さんはライトハウス開業のために三年前の秋に城北高校に来られましたよ」

「・・・そうでしたか」綾子の無機質的な眼には何の光もなかった。

「じゃあいったいその前は・・・、私は何処にいたのかしら?」

「飯塚綾子さんはAFZのカフェ、ロアノに勤務されていました。猪口先生の推薦でね。彼はAFZとの特別なパイプがあるらしいのですよ。クククッ」阿沼学年主任は楽しそうに笑った。

「猪口先生の紹介で私はここに来たの?」飯塚綾子は他人の履歴書の経歴を聞いているように感じた。

「あれれ、覚えていませんか?」阿沼学年主任は相変わらず楽しそうに目の前の女性店主を見ていた。

「AFZ・・・、ロアノ・・・」綾子はそう呟いた。彼女の脳裏にいきなり『生活から思想を学びとろうとする者など滅多におりません』というドストエフスキーの言葉―猪口権の声が鳴り響いた。そして奥行きがあるロアノの空間が浮かび、カウンターに近いテーブル席にずんぐりした体の男が座っていた。その男は趣味の悪い茶色のスーツを着て、角砂糖を五個、白いコーヒーカップに入れていた。

(あの猪口権がチラッチラッと私を見ている)綾子は白いブラウスと黒いタイトスカートを着ている自分の姿を思い出した。同僚の無表情なウエイトレスは何故か白と黒のメイド服を着ている。綾子が思い出すことができたのは、ただそれだけだった。自分がいつから「ロアノ」で働き始めたのか分からなかった。その喫茶店でどんな出来事があったのか覚えていなかった。ただ猪口権が一人で座っていて、ときどき盗み見するように自分を見ていたことは記憶にあった。

「嫌な奴!」綾子は吐き捨てるように言った。

「んん、どうしました?」阿沼学年主任は相変わらず口角が上がっていた。

 阿沼学年主任が食べ終えた白い皿を洗っていた南が綾子を見た。骨太な体躯をした女性店主はアイボリーのマグカップを持ったまま立ちすくんでいた。

(あの趣味の悪いスーツを着た小太り男は角砂糖を一つ一つ丁寧にコーヒーカップに入れて銀色のスプンでかき混ぜていた。そして大量にミルクを入れまたスプンでかき回す。それから銀のスプンで甘ったるいコーヒーを掬いとり味見をする。まるで幼稚園児だ。気色悪い! 品と言うものがまるでない。小太り中年男は食べ物を前にした豚だ。だが私はあいつの一連の動作を見て笑いの発作を抑えることに必死だった。いくら変な客でも目の前で笑い転げたら不審に思われるだろう。犬という動物をテレビで観たことがあるけど、あの小太り男よりも犬という動物の方が品性がある。あの男、上着の胸のところにプラスチックの名札を付けていた。城北高校教諭・猪口権って恥ずかしげもなく汚らしい名札を晒していた。いったい何を考えているんだ? あいつはコーヒーしか注文しないくせに、いつも私に話しかけたそうにしていた。だからチラッチラッと私を盗み見していたわけだ)

 綾子は意識を失ったように突っ立っていた。阿沼学は興味深そうに呆然とした綾子の顔を見つめていた。

(あっ! ときどきポニーテールの可愛い女の子が熱心に本を読んでいた。中学生くらいか。その女の子はコーヒーをじっくりと味わいながら本に集中していた。店内は薄暗いのにその女の子の周囲はくっきりとモノが見えた。あの小太り男はこの可愛い女の子も盗み見していたような気がする。この汚らわしい男があの女の子を見るだけで、彼女が穢れていく気がする・・・あの女の子は誰だったかな)

「飯塚さん、どうしましたか?」再び阿沼教諭の声が女性店主の頭の中に入り込んできた。

「あの・・・、阿沼先生、わたし、ロアノで働いていたこと、ほとんど覚えていません。客も二人しか覚えていない」

「ほう、そうですか」

「私は何年もロアノで働いていたと思うけど、客は猪口権ともう一人の女の子しか知らない」

「ふーん。それでライトハウスで記憶しているお客さんはどれくらい、いるのですか?」

「宮森華、水樹晶、エリック・ハーバート・・・・・・。それから東山校長? 死んだ白石先生も見たような・・・。阿沼先生? あれ、阿沼先生とは今日初めて話したのかな?」

「そうかもしれませんよ」阿沼学年主任は、子供が欲しかった玩具を手にしたときのように笑った。綾子は自分が今、何処にいるのか分からなくなった。(私は本当にこのライトハウスで働いていたの?)

「ガチャン!」というひび割れた音がシンクから響いた。綾子が持っていたアイボリーのマグカップが粉々に砕けていた。

「綾子さん、大丈夫ですか?」南が駆け寄って店主の手を握ってケガはないかと確認しようとした。

「うるさいわね!」女性店主は南の白い手をはね除けた。

「綾子さん、これで三個マグカップを壊しましたね」阿沼学年主任は微笑みながら言った。綾子はその言葉に違和感を覚えた。



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