新たな来店者
「あなたが淹れたコーヒーがとても不味いということ、ようやく気づきましたか?」薄い闇の中、聞き覚えのある声が綾子の耳に届いた。いつの間にかカウンターの席に座っていたライトハウスの店主は、声が発せられた方を向いた。小柄で痩せた人の輪郭が見えた。猪口も阿沼もいないようだった。
「誰?」綾子は自分の声が異常に渇いていることに気づいた。目の前のグラスには水が入っていた。彼女はその水を一気に飲んだ。生ぬるい水だった。(今、何時かしら?)店内は暗く、壁に掛かっている丸い時計の針は見えなかった。
「ところで綾子さん、時間って一人ひとり違うみたいですよ」カフェの女性店主はその声をよく知っていた。けれどもその声の主の名前が出てこなかった。
「あなたは白石新次郎が死んでから時間が凝縮しましたか。それとも伸びてしまったのかな」その男の声は若い世代特有の匂いがした。丁寧な言い方のようで綾子を侮蔑しているような響きもあった。
「これまでのあなたは目の前で時間が通り過ぎるのをただ眺めていただけだった。他人の話をいい加減に聞いて、見たくないものには眼を瞑り、手抜きの仕事をして、周囲を見下しては笑っていた。違いますか?」
綾子は首を振ろうとした。しかし体は思うようには動かなかった。
「白石新次郎は軽薄で無知な教師だった。あいつの頭には何もなかった。だけど、あいつは自分の卑小な魂を恥じていた。あの無力な教師はそのことをどうすることも出来ないので、欠落感を抱えている女を凌辱して空白を埋めようとした。あいつは飢えた狼のように獲物がいれば何処でも襲いかかった。何処にでもね、クククッ」少年らしき人影は錆っぽい声で笑った。綾子はその声を聞くと悪寒とともに身体じゅうに鳥肌が立った。
「あいつは何処でもやるんだ! その虚しくて汚らわしいしるしを残している。動物のマーキングって知っているかなぁ? でもねぇ、僕はそれを知って安心したよ。よく分からないけど安堵した。綾子さんにも分かるだろう?」
「南ちゃん・・・・・・」綾子の口から言葉が零れた。そして彼女は小柄な男が頷いた気配を感じた。
「プレイヤーは交代したのさ」
「交代?」綾子の脳裏にはチリチリした苛立ちの塵のようなものが集積していた。
「物事は変化し続けている。決して留まることはできないみたいですよ、僕もあなたも」少年の声は老人のように枯れてひび割れていた。その挑発的な声音は綾子の脳裏に引っかかった。
「私はどうして猪口先生にこんな仕打ちを受けなければならないの?」綾子の声は薄い闇に溶け込んでいく。
「それは、あなたがそのことを求めているからですよ。クククーッ」人を小馬鹿にした声が綾子に纏わりついた。
「はっはっはっー、そんなことも分からないのかなあーっ。ヒャヒャヒャー」その男は笑いの発作を起こしていた。子供でも大人でもない声が綾子の耳をつんざいている。
(東山校長が呆然とした顔で自分を見ていた。あの時、臨時の職員会が終わったあと、私は東山校長を馬鹿にして愚弄して笑ったのだ。そうだ、私は他人に対して傲慢にならないと生きていけない人間じゃなかったのか)綾子は笑いたくなった。だが笑えなかった。
「猪口先生は高貴な心を持っているけど、下劣なもの下品な人間が好きなのですよ」小柄な人影は言った。
「あの人は確かに教養人だ。だが猪口権を知っている殆どの人は彼をそういう風に理解していない。不器用で軽薄でお調子者だと思っている。本人も自分の知性を上手く表すことができていない。哀れな教師だ」
「でも・・・教養人だったら、何故私にこんな酷いことをするの?」綾子はその人影の人物をよく知っている。だがやはり名前が思い浮かばなかった。
「報いですよ。これまでにあなたがやってきたことに対する報い。フフッ」
「報い? 報いって何? 私は私なりに一生懸命やってきたつもりよ。あなたにはそうは見えていないかもしれないけど」
「いったいあなたは何を一生懸命してきたのかな。仕事は内田さんに任せて自分は気に入った客と話してばかりでしょう」
「そんなことないわ・・・」
「白石先生が内田さんに酷いことをしていても、あなたは見ようともしなかった。日常的には彼女に優しい素振りをしていたけどねぇ。あなたは肝心な時には逃げてしまうでしょう?」
「こんな狭い場所で白石先生がそんなことをするわけないでしょ!」
「ライトハウスの店主さん。人は見たいものを見て聞きたい話を聞くのですよ」
「じゃあ私は白石先生を見ていなかったって言うの」
「猪口先生もね」その男は笑いを堪えているようだった。
「それは・・・南ちゃんが彼らに対応していたからでしょ。私は私で忙しかったのよ。この店のオーナーだから」カフェの店主は頭の血管に血が上っていくのが分かった。後頭部の中から「チリチリチリ」という細かな音が聞こえる。それとともに臀部にもひりつく痛みを感じていた。
「オーナーだったら、自分の店のスタッフを守るべきではないのは? 白石先生はたった一人のスタッフを蹂躙していましたよ。それを猪口先生は羨ましそうに眺めていましたねぇ。へへッ」その人影はまた嘲笑しているようだった。
「内田南は気が利かないのよ。いつも聞こえないくらい小さな声でボソボソ言ってるし。お客さんに怒られても仕方ないの!」
「彼女の接客に問題があったと?」
「そうよ。あの子は能面みたいな顔してるし」
「・・・・・・」その小柄な人影はまだ笑っているようだった。
「あなたは何が言いたいの?」綾子がその少年が道理の分かっている老人のようにも思えてきた。
「能面って美しいですよ」
「そうかしら。不気味なだけじゃない?」
「と言うことは、あなたが雇っているスタッフは不気味だと?」
「グッ・・・」綾子は喉のあたりから重たいものがせり上がってきた感触を覚えた。彼女は息を詰めて、その重いものを押しとどめた。
「彼女は私が雇ったわけじゃない。高校側が雇ってくれって頼んできたのだから、仕方なく雇ってあげたのよ。私は関係ないわ」
「だけど高校側から見返りがあったでしょう。内田南を雇い入れたことに対して」
「知らないわ」
「綾子さん、息が荒いですよ。暑いのかな?」
「暑いわけないでしょ! ずっと気温は変わらないのだから」
「確かに気温は概ね一定です。でも感じる側は変わりますよ、あなたのようにね。とても暑く感じたり、震えるように寒く感じたり」
「それってどういう意味なの!」カフェの女性店主は自分の右のこめかみあたりがピクピクと細かく動いているのを感じた。それは彼女にとってよくある感触だった。
「あなたは白石先生が死んでしまって残念だったのでしょうか?」
「同じ職場で働いていた人間が亡くなったことは、悲しいことでしょう。そんなことは当り前じゃない」
「なるほどねぇ」その人影は納得したように頷いた。
「あなたはいったい何が言いたいの!」綾子は自分の怒りの中に羞恥心があることに気づき動揺した。
「一般論としては職場の同僚が亡くなることは不幸なことです」
「何よ、一般論って」
「綾子さん・・・。あなたは白石先生が死んで、あなたの店の優秀なスタッフが彼に凌辱されなくなったってことを残念に思っているのですよ」
「何言ってるの! そんなこと思っていないわよ。馬鹿言わないで・・・」
「そうですか?」その少年は静かに言った。
「・・・・・・そんなことはぁ・・・」綾子の声は力をなくしていた。それから彼女はしばらく黙っていた。
(今、何時だろう?)綾子は壁に掛かっている丸い時計を見た。午前零時五分だった。少年のような人影と話し始めたのは午前零時だったような気がした。それから眼を落して、その名前を思い出せない少年が座っている席を見た。だが彼はいつの間にかいなくなっていた。飯塚綾子は安堵したが、彼とまだ話をしてみたい気もしていた。




